ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「明治維新」について。

2018-09-09 | 歴史・文化
 今年の大河は『西郷(せご)どん』だけど、見ていないので何もいえない。それとは別に、このところ明治維新の本をよく読んでいる。
 歴史の本は、同じ題材を扱ってても、書き手の数だけアプローチがちがう。そこがかえって面白い。読み比べる楽しみがあるわけだ。小説だと、作家ごとに題材はもとより文体から手法から構成から、何から何まで違うので、「読み比べる」という按配にはならない。一冊ごとが異なる世界像、というかまるで異なる世界なのである。
 たとえば、
「村上春樹の『1Q84』と宮尾登美子の『一弦の琴』と井上ひさしの『吉里吉里人』と高橋和巳の『邪宗門』と筒井康隆の『馬の首風雲録』と吉行淳之介の『暗室』を読み比べてみたんだけどさ……」
 などといった言い方は、成立しないわけではないが、やはり少しムリがある。
 素人が手に取りやすいものとして、いま5冊が手元にあるが、松本健一の『開国・維新』(日本の近代①。中公文庫)は、開巻ただちに1853(嘉永6)年のペリー来航から始まる。
 半藤一利の『幕末史』(新潮文庫)も、「じぶんは薩長よりも徳川びいきだ」という短い前説のあと、やはり黒船来航である。
 井上勝生の『幕末・維新』(シリーズ日本近現代史①。岩波新書)は、ペリーのアメリカ出航から始めているが、ほぼ同じことだ。
 この中でいちばん古い小西四郎『開国と攘夷』(日本の歴史⑲。中公文庫)は、まず「東アジアに警鐘は鳴る」という前置きで、当時の西欧列強がアジアに貪婪な食指を伸ばしていたことを強調し、それからペリー来航にうつる。
 井上勝生は、『開国と幕末変革』(日本の歴史⑱。講談社学術文庫)も出しているのだが、こちらは少し工夫を凝らして、江戸時代の蝦夷(北海道)から筆を起こし、天保の改革などを経て、ペリーが来るのは全巻の半ばに近い170ページ目である。
 ペリー来航をもって「幕末」ひいては「維新」の濫觴(らんしょう)とするのは定跡だけど、もっと広くスパンを取って、天保の改革だとする学統もあるようだ。おおむね1841年から1843年のあいだで、つまりはこの辺りからもう幕藩体制が揺らぎだしていた、というわけで、この本における井上さんの手法はそれに近い。
 井上さんは「民衆史」に重きをおく学風らしく、農民や町民の記述に厚みがある。いっぽう、岩波新書の『幕末・維新』には、吉田松陰の名が出てこない。講談社学術文庫のほうでも、わずかに2ヶ所、ごく簡単にふれられているだけだ。
 また、佐久間象山の名が、どちらの本にも出てこない。佐久間象山や吉田松陰をここまで等閑視して、「開国・幕末」が語れるものかと驚く。そこがこの方の独創なのかもしれぬが、この史観がスタンダードだとは思えない。
 といって、この2冊がよくない、といいたいわけではなく、この本からしか得られぬ知見もむろんある。
 小西さんの『開国と攘夷』、松本さんの『開国・維新』は、象山・松陰にたっぷり紙幅を取っている。ほっとする。半藤さんの『幕末史』は、講義録を起こしたものなので、さほど詳しくはないが、やはり熱心に象山と松陰を語る。それが本筋だろう。
 ともあれ、このように、同じ「開国・幕末」を扱いながら、ひとによってこれだけ切り口がちがう。読み比べれば読み比べるほど、おもしろい。
 ぼくが昔からギモンだったのは、「明治維新ってのは、ほんとうに必要だったのか?」ということだ。ぼんやりとそう思いつつ、そのままになっていたのだが、このところ、とみに気になりだした。
 幕府(徳川家)がとにかく頑迷固陋で、「ぜったいに国は開かぬ。何が何でも鎖国を守る」と言い張って、「いやそれでは結局、国そのものが滅びてしまう。早々に開国をして近代化に努めねば駄目だ」と正論を述べる「志士たち」を徹底的に弾圧した……という話ならばまだわかるのである。
 たしかにまあ、天保10年(1839年)の「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」はそんな感じだった。しかしそれは、黒船来航より14年も前の事件だ。
 そのあとでついに実際やってきたペリー一行と折衝し、それなりの外交交渉をして、不平等ながら和親条約を結んだのはほかならぬ幕府なのである。
 薩長はむしろ、その時点では攘夷側だった。つまり、「夷狄をこの神国に引き入れるとはけしからん。断固として排除すべし」と、文句を垂れてたわけだ。
 むろん、「幕府に対して物申す」ということ自体、それまででは考えられぬ僭上沙汰で、げんにそのあと、幕府側からきつい反撃もくる(安政の大獄)わけだけど、いずれにしても、「渋々ながら」とは言いながら、当初は薩長ら諸藩より幕府のほうがはるかに現実的で、ちゃんと実務もやっていた。
 行政機構としての幕府は、上層部(老中たち)にせよ現場(役人たち)にせよ、けして因循でもなければ無能でもなかった。250年にわたって培われた組織が、それほどチャチであったはずがない。
 はっきりいうと、諸藩はことさらワーワー騒ぎ立てずに、幕府に成り行きを委ねていても、それほどむちゃくちゃな状況にはならなかったと思う。
(ここでいう「むちゃくちゃな」とは、阿片戦争を仕掛けられた清国みたいな、というくらいの意味だが。)
 ただ、「朝廷」という独特の機構がここに濃密に絡んできて、それで話が紛糾するわけだが、しかしこれも、ことさらワーワー騒ぎ立てずに、穏便に事態を処していきさえすれば、「公武合体」ということで、「徳川」「朝廷」「薩摩」「長州」「土佐」「越前」それに「会津」あたりの「雄藩」による合議制の連合体が成立してたんじゃないのかなあ……と思うわけである。
 トップはそういう合議制の連合体。そして、じっさいの政務や現場の実務は、引き続き、もっぱら優秀な幕臣がおこなう。
 ここがいちばん肝心なところで、というのも、いかに衰えたりとはいえ、当時の幕府には、上のほう(今でいえば内閣?)はともかく奉行(今でいう官僚。事務次官~局長クラス?)あたりにまだまだ逸材がいたからだ。
 ぼくがまっさきに思い浮かべるのが小栗上野介忠順(ただまさ)で、そもそもこの小栗のことが好きだから、いま書いてることを思いついたようなもんである。
 小栗については、2003年に岸谷五朗主演で単発ドラマが放送されたり(NHK)、直木賞作家・佐藤雅美による『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(角川文庫)がけっこう売れてたり、ひところに比べたらかなり知られるようになったけど、西郷さんや龍馬はもちろん、同じ幕臣の勝海舟に比べても、ぜんぜん知名度は低い。
 やはり「官軍」サイドに属した人士にばかりスポットライトが当たる仕組みになってるのである。偏ってるな、と正直思う。
 しかし歴史の記述とはそういうもので、げんに、上にあげた5冊の中でも、小栗の名はちらりとしか出ない(半藤さんも言及してるが、中では小西さんの『開国と攘夷』がいちばん詳しい)。
 小栗のばあい、勝海舟や、のちに新政府に入って海軍中将にまでなった榎本武揚とちがい、いわば滅ぶ幕府に殉じるようにして非業の死を遂げたのだが、ぼくが小栗を好きなのは、そんなロマン主義的感傷ではなく、このひとが本当に優れていたからだ。
 さすがに司馬遼太郎は、この人にきちんと注目しており、『「明治」という国家』(NHK出版)のなかで、「明治国家のファーザーズの一人」といっている。
 「いわゆる薩長は、かれらファーザーズの基礎工事の上に乗っかっただけ」とまで述べている。
 だから、「司馬史観」というのをあたかも「官軍史観」みたいにシンプルに捉えてる人もいるようだけど、そんな甘いもんじゃない。シバリョウをなめてはいけないのである。
 小栗忠順は並外れて有能だったから名前を残しているわけだが、ほかにも、今となっては無名のままに終わったけれど、身分制という桎梏さえうまく取り払えていれば、幕府が「公武合体」という形でゆるやかに解体されたあと、新体制の中で存分に才を発揮できる人材は下級の幕臣の中にもたくさんいたはずだ。
 たぶんそれがいちばんよかった。
 「錦の御旗」を担いで「内戦」を起こしたのは、ようするに軍事クーデターということで、それがどれほどその後の日本を歪ませたか知れない。「維新」はほんとうに必要不可欠だったのだろうか。それは「日本国」というよりむしろ「薩摩藩」のためだったのではないか。そんなギモンを抱えつつ、あれこれ読んでいるけれど、なにしろ大きな話だから、とうぶん結論は出そうにない。