ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「宇宙よりも遠い場所」のためのメモ 01

2018-09-28 | 宇宙よりも遠い場所



 せりふの端々(はしばし)、画面の隅々、音のひとつひとつまで、考え抜かれ、ほぼ完璧に構成された、健全なる王道・青春ストーリー。
 OPとEDとを併せ、23分40秒(概算)×13話という尺を、(文字どおり)「1秒たりとも無駄にせず」使い切った神業のような作品。
 間違いなく、2018年の時点における日本アニメの到達点(の一つ)。


 ただし本作は、いわば「リアル・ファンタジー」と呼ぶべきジャンルに属するもので、厳密に照合していけば、現実ではありえない設定や描写も含まれる。たとえば、
 「昭和基地」や「しらせ」が「民間」に委譲される(払い下げられる)という事例が過去にあったことはないし、政治的および財政的な事情からも、この先もあるとは思えない。
 万が一、そういう事態が起こったとしても、そこに女子高生が同行を許されることはまず考えられない。
 ただ、そういった「リアル世界との突き合わせ」みたいな事は、そもそも当アニメのホームページがやっている。この手の不整合をあげつらうことに意味がないとは思わないけれど、とりあえずそちらは棚上げにして、ひとつの「物語」として楽しむほうがいい。繰り返しになるけど、これはドキュメンタリーじゃなくて、リアル・ファンタジーなんだから。
 「物語」として見るならば、こんな素晴らしい作品になんて、そうそう出会えるもんじゃない。


 南極。
 彼女たちが目指し、辿り着き、そこで友達および隊員たちと3ヶ月を過ごし、帰国した後もまたそこを再訪しようと約束を交わす土地。
 たぶんそこは、けしてとくべつな場所ではない。
 それは『宇宙兄弟』における「月(月面)」に似ている。ここではない何処か。本気で憧れ、胸を焦がすことのできる場所。ぜんぜん甘美ではなく、むしろ多大な困難を伴うのに、そこに惹きつけられる場所。一人では行けない場所。仲間と一緒でなければ行けない場所。いや、そこを共に目指し、共にそこまで辿り着き、そこで苦楽を共にする人たちこそが「仲間」=親友になる、そういう場所だ。
 だから本当は、すべての人が自分なりの「南極」をもっている。持っているはずだ。ふつうに暮らす生活の場が、そのまま「南極」である人がもし居れば、それはつくづく幸いだと思う。職場や学校で、信頼できる仲間・友達に囲まれ、日々そこで自己実現を果たせてる人。まるっきり皆無ってことはないだろう。だけどおそらく、さほど多くはないはずだ。


 平坦な日常は安逸の場だ。そこに浸っていることが、けして悪いとは思わない。ただ、人間ってのはたいへん弱くて、体を浸した生温い水はいつしか澱む。澱みの中で、ねっとりした倦怠が、安っぽい悪意が、増殖し、充満する。そして心は少しずつ朽ちていく。いい齢をしたぼくなんかからすれば、誠に切実な話である。
 澱んだ水。

 だから01話の冒頭、そして05話での旅立ちの朝、あの「絶交、無効」のあと、玉木マリ(通称・キマリ。CV 水瀬いのり)が空港に向かって走り出す瞬間に画面にかぶさる彼女のモノローグこそが、この作品の始発点であり、同時に到達点でもある。


 澱んだ水が溜まっている。
 それが一気に流れていくのが好きだった。
 決壊し、解放され、走り出す。澱みの中で蓄えた力が爆発して、すべてが動き出す。
 すべてが、動き出す!


 そう。『宇宙(そら)よりも遠い場所』とは、「溜まりに溜まった澱んだ水」が、「決壊し、解放され、走り出す」物語なのだ。そしてすべてが動き出す。
 すべてが、動き出す!
 すなわちこれはカタルシスだ。
 カタルシス。ギリシャ語ではκάθαρσις。英語ではcatharsis。
 鬱積したものを解き放つことによる精神の「浄化」。
 ようするにそれは、「感動」ってことだ。
 だから理屈の上からは、この物語が観る者に圧倒的な感動をもたらすことはむしろ必然なのだった。しかし、理屈の上ではそうだとしても、実際にそれを作品化するのにどれほどの才能と経験と労力が要るか。
 脚本、監督、この作品にかかわったスタッフの方々に、羨望に近い敬意を抱く。