こうの史代(ふみよ)原作/片渕須直(かたぶちすなお)監督のアニメ『この世界の片隅に』は素晴らしい作品で、上映から2年経った今も多くの人から愛されている。松本穂香・松坂桃李のお二人が主演するドラマ版も好評のようだ。2011年にも北川景子さん主演でドラマ化されているのだが、その時は2時間の単発スペシャルだった。
思えば2016年はたいへんな年で、『君の名は。』『シン・ゴジラ』、そしてこの作品と、ニッポンの表現史を画する秀作が3本も顔をそろえた。偶然には違いないけれど、あの震災から5年を経て、それぞれの作り手が受けた衝撃の記憶が熟して作品のかたちになった、という言い方はできるかもしれない。まだ世に出ていない人も含めて、この3本はこれから先も、数多くのクリエイターに末永く影響を与えつづけるだろう。
『この世界の片隅に』は、ご承知のとおり太平洋戦争下の呉の町が舞台となっているわけだし、原作の連載は2007年から2009年までだったから、あの震災とは直接のかかわりはないのだが、どうしてもそこに何かしらの巡り合わせを感じないではいられない。
アニメ『この世界の片隅に』は、何よりもまずひとつの作品として素晴らしい。そして、「銃後」の暮らしを描いた記録としても秀逸だ。10代から20代はじめくらいの若い人で、これまでにほとんど戦争を描いた小説や映画にふれたことがない観客がいたら、まっさきにお勧めしたい作品である。内容にはもちろんシビアなところもあるが、絵柄が優しいし、主人公のすずさんがほんとうにすてきな女性だからだ。
高畑勲監督の『火垂るの墓』ももちろん必見の一作だけど、「とっつきやすさ」でいうならば、『この世界の片隅に』のほうだろう。今は「とっつきやすさ」がとても大切な時代なのである。
もう少しきちんとした言葉でいえば、「訴求力」ということになろうか。
このところずっと、「訴求力」について考えてるもんで、文学ブログでありながら、ついついアニメの、それもプリキュアの話なんかしている。ブンガクの話を書くよりも、プリキュアの話のほうがとりあえずアクセス数は増えるのだ。アクセス数のためにブログやってるんじゃないけれど、やはり読まれないよりは読まれたほうがいい。
ヒロシマとナガサキへの原爆投下をモチーフにした短篇(と詩)のアンソロジーで、『何とも知れない未来に』(集英社文庫)という本があった。編んだのは大江健三郎さんだ。刊行は1983年で、1990年代の半ばごろまでは店頭でふつうに手に入った。
同じ集英社文庫のアンソロジー『太平洋戦争 兵士と市民の記録』とあわせて、いつも手近なところに置いている……つもりだったが、今なぜか見当たらない。記憶とネットを頼りにして、収録リストを記しておこう。
原民喜「心願の国」「夏の花」
井伏鱒二「かきつばた」
山代巴「或るとむらい」
太田洋子「ほたる」
石田耕治「雲の記憶」
井上光晴「手の家」
佐多稲子「色のない画」
竹西寛子「儀式」
桂芳久「氷牡丹」
小田勝造「人間の灰」
中山士朗「死の影」
林京子「空罐」
どれも胸に沁みる良作で、こういう本がいつでもだれでも買いたい時に買えるニッポンであって欲しいと切望するが、どうも思うに任せない。東野圭吾や綾辻行人は山積みになってるのに、『何とも知れない未来に』や『太平洋戦争』は絶版だ。そのくせ変なウヨクっぽい言説だけはあふれている。「あの戦争」のことを折にふれて考え続けることが、「愛国」的なふるまいであるとぼくなんか思うけどなあ。なんだかなあ。
たとえば井伏さんの「かきつばた」なんて、それこそ最新の技術でアニメ化すれば、まことに美しく切ないものに仕上がるだろうな……と夢想してみる。商業ベースに乗るかどうかは微妙ながら(いやここがいちばん肝心なんだが)、珠玉のような作品ができあがるのは間違いない。原作のほうは絶版になっても、アニメなら多くの人に観てもらえる。それが訴求力だ。
しかし、夢想はあくまで夢想である。宮崎駿さんの『風立ちぬ』でさえ採算ラインに届かなかったというし、たとえ優れたアニメでも、いんうつで地味な戦争ものはなかなか動員を見込めないだろう。だからこそ『この世界の片隅に』のヒットがますます喜ばしいわけだ。
「何とも知れない未来に」というタイトルは、収録された原民喜「心願の国」の一節からとられている。
ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。
だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みてゐたやうな気がする。
重苦しい主旋律が、ラスト2行でほのかな希望に転調する。このくだりは、『この世界の片隅に』終幕近くのすずさんの台詞に通じているようにも思う。
「8月15日も、16日も、17日も、9月も10月も11月も来年も再来年も。
10年後も。ずっと。ずっと。」
「晴美さんはよう笑うてじゃし。晴美さんのことは笑うて思いだしてあげよう思います。この先わたしはずっと、笑顔の入(い)れもんなんです。」
のん(能年玲奈)さんのアテレコが、声質も台詞回しもほんとにぴったり。書き写すだけで、じわっとナミダが滲んでくる。