ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ジブリ「都市伝説」を斬る(笑)02 魔女の宅急便

2018-06-30 | ジブリ

このカットも本編にはないが、作品の「世界観」を凝縮した素敵な画像だ


 さて。ジブリでもうひとつ有名な「都市伝説」は、「『魔女の宅急便』(1989年)の黒猫ジジ(CV 佐久間レイ)は、途中から話せなくなったわけではなくて、じつは最初から人語を解してなどおらず、彼との会話のくだりはすべて孤独なキキの夢想だった。」というものだ。
 つまり「喋るネコ」としてのジジは、キキにとっていわゆる「イマジナリー・フレンド」の一種だったってことになる。
 この説の裏づけは、「『魔女の宅急便』の公開時(だからほぼ30年前だ)に宮崎駿監督が行ったトークショーでの発言」ってことになってるんだけど、ぼくが探したかぎりでは、その「発言」は伝聞(の伝聞)にとどまっており、書籍はもとより、パンフレットみたいな形ですらも活字になってはいないようである。
 だからその「発言」そのものの信憑性がうたがわしい。また、じっさいに監督ご自身がそのような意味のことをおっしゃったのだとしても、あの方は非常に韜晦(とうかい)癖のある人だから、素直に受け取っていいものかどうか。
 さらに、そもそも作り手がまじめにそう述べたところで、それはけっして「絶対」ではない。作り手は作品を統べる「神」ではもはやないのである。それが現代批評の常識だ。「作品」に対して「作り手」が開陳する「製作意図」や「裏設定」などは、「重要な参考資料」ではあるかもしれないが、所詮はそれ以上のものではない。すべての作品は、それが作り手の手を離れてわれわれに届けられた時点で読み手(観客)のものになるのである。もちろん、あからさまな曲解は退けられるべきだとしても。
(『魔女の宅急便』にはもちろん角野栄子さんによる原作があるが、アニメ版は「製作途中で角野さんが難色を示した」といわれるくらいオリジナルなものに仕上がってるので、ここでは宮崎さんの作品として扱う。)
 「魔女」が「黒猫」を「使い魔」として伴うのは西洋のおとぎ話の常套で、だからジジが細い箒の柄にちょこんと乗って一緒に空を飛ぶのも、キキとひんぱんに話をするのもあの世界ではぜんぜんおかしなことではない。もしジジの存在がなかったら、あのアニメの前半部分はずいぶんと色あせたものになったろう。それだけに、「ジジはほんとは喋ってなかった」という説は(サツキとメイの件ほどではないが)かなりショッキングである。
 しかしこれは明らかに変で、なぜならば、初仕事の配達の途中でキキがぬいぐるみを落っことし、それが見つかるまでのあいだジジが身代わりを務めるという挿話があるではないか。あのエピソードを持ち出すだけでたやすく反証できるこの説が、なぜ大手をふってまかり通ってるのか、これもまことにフシギである。
 だいたい、リアリズムで書かれた児童文学ならともかく、べったべたのファンタジーたる本作に対して、よくもまあこんな身もふたもない臆説が流通するものだ。それならもう、「空を飛ぶ」のも思春期特有のヒステリー系妄想といったらいいし、ようするにもう、設定から何から、ぜんぶがまったくどうでもいい。そんなことなら最初から「物語」になんか関わらず、法律の勉強でもしてればよろしい。
 はっきりといえることがひとつある。「後半部にさしかかるあたりでジジの言葉がわからなくなる」のはこの作品世界における「事実」だ。しかし、「ジジが最初から喋ってたのかどうか?」は、これに比べればじつは本質的な問題ではない。ネット上のやり取りを見ても、「ジジはほんとに喋ってたのか?」を議論してるはずが、いつのまにやらその件はどっかに行って、「なぜ途中から言葉が聴き取れなくなったか?」に移ってるケースがほとんどだ。
 とはいえ、繰り返すが、上で述べたとおり、ジジはほんとに喋っていた。それがキキの魔力によるもので、彼のせりふがキキにだけしか理解できなかったとしても、ジジが一個の人格(?)をもって彼女の話し相手を務めてたのは確かである。本質的な問題でなくとも、このことは明記しておく。
 しかし、途中からは話さなくなった。キキに彼の言葉がわからなくなった。なぜだろう。これはけっこう厄介だ。前回のトトロの件より難しい。「ファンタジーの文法」でたんじゅんに割り切れることではなく、「児童文学」としての読みが求められるからである。
 『魔女の宅急便』は、ほかのジブリ作品と同様、日本テレビ系列の「金曜ロードショウ」で何度も放映してるから、2度3度と見た方も多かろう。ぼくはたぶん3回見ているが、いちばん初めに見たとき(20代だった)には、仕事のうえでスランプに陥ったからだと思った。
 焼き上げる段階から手を貸して、苦労して届けたお祖母ちゃんのパイが、その孫娘によってにべもなく拒絶されてしまった。つまり、仕事が軌道に乗ったところで、ひどい挫折を体験し、職業意識が損なわれ、アイデンティティーを見失いかけた。おまけに雨に打たれて風邪までひき、トンボからのパーティーの誘いまですっぽかしてしまった。それで心身ともに不調になって飛べなくなり、使い魔の声も聞こえなくなった。そう思っていたのである。
 しかし、2度目に見たら(30代だったと思う)、それは間違いだった。エピソードの流れをきちんと追えていなかった。風邪をひいて寝込んだキキは、おソノさんの看病もあってけっこう早く復調する。そして元気を取り戻し、「コポリさんて人にこれを届けて」というおソノさんの依頼を受けて仕事に戻る。そのさい、ジジはもう隣家の可愛い白ネコと親しくなっているのだが、彼女のことを「リリーっていうんだ」と紹介し、「仕事? いま行くよ」と、ふつうに喋っているのである。キキは「近くだからいいよ」とジジへの気づかいを見せる。
 ここは短いシーンだし、会話もかんたんだから見過ごしやすいが、作り手の側は明らかに、「ここではまだキキの身の上に切実な変化は起っていない」旨を観客に示している。後になって振り返ると、これはキキが作品内でジジと交わした最後の会話だったのだが。
 問題はこのあとである。「コポリさん」とはじつはトンボのことだった。今回の依頼は、まえに彼からのパーティーの誘いをふいにしてしまい、そのことを気に病んでいたキキを、ふたたびトンボに近づけるためのおソノさんの粋なはからいだったのだ。
 初めてゆっくりトンボと言葉を交わしたキキは、思いのほか意気投合し、その勢いで「人力飛行機の機関部」であるプロペラ付自転車の後ろに乗せてもらって、海までの坂道を突っ走る。ちょっとした小冒険である。キキの魔力が無意識のうちに働いたのか、自転車は途中で浮きあがり、結局はプロペラが外れて砂浜に墜落してしまうのだけど、互いにケガがないことを確かめたあと、キキは、おそらく街に引っ越してきて初めて、腹の底から楽しそうに大笑いする。彼女がトンボに惹かれ始めているのは明らかだ。
 さらにそれから、ふたりは海岸に並んで腰をおろして語り合う。トンボにとって「空を飛ぶ」ことはたいへんなステイタスであり、彼がキキに抱く思いは、恋というより何よりもまず憧れと敬意なのである。キキももちろん悪い気はしない。彼女の気持ちはますますトンボに傾く。
 ところがそこに、オープンカーに便乗したチャラい一団がやってくる。運転するのは少し年上らしきキザ男。後部シートにひしめくように乗っているのは、カラフルな服に身を包んだうら若い娘たちである。彼女らは「飛行船の中を見せて貰えるんだって」とトンボを誘い、トンボはすぐに興味をひかれる(そもそも海まで来たのも飛行船を近くで見るためだった)。
 彼女たちはまた、キキを見て「誰あのコ?」「魔女だってー」「あー知ってる。働いてるらしいよ」「へーあの齢で。えらいねー」と、ロコツに軽侮の態度を示す。当初からキキは、自分の冴えない黒服に劣等感をもっていた。13にして生家をはなれ、見知らぬ街で労働をして自活している彼女には、親の庇護の下でぬくぬくと遊び暮らす娘たちは「不良」にしか見えない。そんな娘たちと、トンボは仲良く話している。キキは傷つき、追いすがるトンボを振り払うようにして、そのまま歩いて家まで帰る。
 この出来事を境にして、彼女には、ジジのことばがわからなくなるのだ。それが原因のすべてだとは言い切れぬにせよ、「初恋」が彼女の変化の引き金となったことは疑いようがない。だけど彼女は、自分がトンボを好きになり始めてることに気づいてないし、だからもちろん、自分の中に渦巻いている嫉妬やら何やらの感情もぜんぜん整理できてはいない。
 自室に戻ったキキはベッドにばたんと倒れ伏し、そこにジジも戻ってくる。「にゃー」とふつうの猫の声で鳴き、「どうしたの?」という感じでベッドに飛び乗り、横たわるキキの傍まで寄ってくるのだが、もう人間のことばは喋らない。そしてキキが、「あたしどうかしてるのかな? せっかく友達ができたのに、急に憎らしくなっちゃって……」みたいな愚痴を始めると、そそくさと行ってしまうのである。キキは、「冷たいなあ」と不平を漏らすが、この時はまだ異変にまるで気づかない。
 事態の深刻さがあらわになるのは次のシーンである。時間経過が定かではないが、たぶん同じ日の夜だろう。食卓にお皿が並んでいる。窓から入ってきたジジに、キキが「お友達ができたからって、食事の時間は守ってよね」と苦情をいうが、ジジはまた「にゃー」と鳴くばかり。そこでキキはようやく「たいへん」と顔色を変え、階下に行って箒にまたがり、自分の飛行能力が落ちていること、魔力が弱まっていることを自覚するのである。
 このくだりはわりと重要で、「空を飛ぶ力」と「ジジと会話できる力」とがいずれも「魔力」によるものであることが明示されている。このことからも、「ジジは初めからほんとは喋れなかった」という説がおかしいのがわかる。もし30年前の宮崎さんが「トークショー」で実際にそう言ったのなら、なにか勘違いされてたんだとしか思えない。
 ただ、そう言ってみたくなる気持ちはわからなくもなくて、キキの初恋とジジの恋とはあきらかに無関係ではない。密接に連動している。幼い頃の「共依存」めいた繋がりから脱し、それぞれに「性」をそなえた一個の人格として自立しつつあるわけだ。そういった面を強調したくて、つい口が滑った、ということはあるかもしれない。
 キキの母は冒頭シーンにしか登場しないが、映っているかぎり、このひとが黒猫をかたわらに侍らせている場面はないし、この家に黒猫が住みついている様子もない。使い魔は、主(あるじ)たる魔女が独り立ちするのと軌を一にして、完全に自立するのかもしれない。しかしそれなら、母がそのことを娘に伝えていないわけはなく、キキも覚悟はできてるだろう。キキが自分の家庭をもつのはまだまだ先で、それまでは、ジジは夫となり父となってもキキの身近にいるであろうし、彼女の魔力が戻ったら、また話せるようになったはずである(エンディングのカットでもそのことは暗示されている)。
 空を飛べなくなったキキは、風邪ひきの時とは比べものにならないアイデンティティー・クライシスを味わうが、メンター(先達)である画家のウルスラ(CVはキキと同じ高山みなみ。つまり二役)の来訪によって立ち直りのきっかけを得る。キキはウルスラに連れられて彼女の小屋に泊まり、そこで彼女の描いた大作を前に、真率な対話を交わすのだけれど、この時の対話は、おそらくわざと焦点をぼかしたものになっている。
 設定を見ると、ウルスラはまだ19歳。メンター(先達)といっても、キキとそんなに差があるわけではない。家を離れ、アトリエを兼ねた小屋で寝起きしていることから見て、今は絵の製作に人生のすべてを懸けてるようだし、男の子と見間違えられるルックスからしても、まだ真剣な恋をしたことはないんだろう。だから彼女がキキに送る助言は、ストーリー・ラインからは微妙にずれているのである。
 キキの魔力が弱まったのは、前述のとおりトンボへの恋が引き金だ。そのことに彼女じしんは気づいていない。ジジはけっこう早熟なところもあるようなので、もし彼が話せたら、「それはキキ、君があのトンボって子に恋をしてるのさ」と教えてくれたかもしれない。しかし彼が助言者たる役回りからおりた今、それを伝えるのは本来なら先達としてのウルスラの役のはずだけど、いかんせん彼女もまた色恋沙汰にはうとい。だからウルスラは、そっち方面の話は何ひとつせず(できず)、「血(持って生まれた才能)」とか、「誰しもが陥るスランプとその脱出法」などといった、より高尚かつ実用的な意見を述べるのみである。
 むろん、それはそれで大切な話であるのは間違いないし、それによってキキが勇気づけられるのも事実だが、「初恋」を巡って展開しているストーリー・ラインにおいて、あくまでもウルスラの意見は補助的なものにすぎない。それでいて、月明かりに照らされるこのシーンの魅力もあり、ここのエピソードは観客の心に強く残る。そのせいで、「なぜキキが空を飛べなくなったか=ジジの言葉がわからなくなったか=魔力が弱まったか」についての解釈があれこれと入り乱れることにもなる。罪な話だが、宮崎アニメにはこういうところがたくさんあって、そこがディズニーアニメと違う。
 ともあれ、ウルスラのおかげでずいぶん元気になったキキは街へと戻り、招かれた老婦人の屋敷のテレビでトンボの受難(飛行船の事故)を知って現場に駆けつけ、(愛用の箒は折れちゃったので)手近にあったデッキブラシを借用して、危ういながらもどうにかこうにか空を飛び、必死でトンボを救出して、いちやく街の人気者になる。むろん、これはたんなる人助けじゃない。大好きな男の子を助けるためだからこそ全霊を尽くせたわけだし、だからこそ魔法が蘇ったわけだ。恋によって失われた魔力が、恋によって蘇ったのである。
 上でもちらりとふれたエンディングのカットは、すっかり街に溶け込んだキキが、安定した飛びっぷりでまた宅配業にいそしむ姿だ。箒の柄には、ジジがちっちゃな仔猫と一緒にちょこんと座っている。ただの猫にそんな真似ができるものか。魔力の回復と共に彼の言葉がふたたびわかるようになったのは明らかで、ジジがほんとは最初から喋ってなかったなんて、やっぱりとんだガセネタなのである。