ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ジブリ「都市伝説」を斬る(笑)01 となりのトトロ

2018-06-29 | ジブリ

本編にはないイメージ画像。このアニメの「ほのぼの感」がよく出ている




 有名なアニメやマンガには、それにまつわる裏話があって、ネット上に専用のサイトもたくさんある。それを要領よくまとめたコンビニ本まで出ている。用語としては正しくないと思うけど、世間では「都市伝説」の一環として扱ってるようだ。
 ジブリアニメでいちばん知られた「都市伝説」は、『となりのトトロ』(1988年)の、「サツキとメイはじつは死んでる。」というやつだろう。ハッピーエンドを迎えたはずの作中人物がほんとは落命していたなんて、ショッキングだから印象に焼きつく。これを言ってる人たちも、おおむね面白半分で、まさか本気で信じちゃいまいと思うんだけど、「物語」のもつ社会的な意味をわりとまじめに考えてるぼくとしては、笑ってばかりもいられない。なんといってもジブリ、とくに宮崎アニメは今の日本を代表する「国民的な物語」なんだから。
 じつをいうと、この「死亡説」、まるっきり根も葉もないデタラメってわけではない。
 これはものすごく重要なことだが、あの姉妹がいちど「異界に行った」のは確かだ。なぜならば、ファンタジーってのはそういうものだから。その道行きを案内したのはトトロ(とネコバス)で、その意味でトトロが「異界の使い」という解釈もじつは誤りではない。
 ただ、ここまでだとまだ半分にすぎない。肝心なのは、そうやって「異界≒あの世」へと出向いたふたりが、「七国山病院」の母の病床までトウモロコシを届けて(そこには父が見舞いにきており、つまり両親が揃っている)、ふたたび無事に「こちら」へと帰ってくることなのである。
 なお、あの場面でのトウモロコシは、「死」に傾きかけたひと(母親)を「生」の方向に引き戻す食べ物として、とくべつな意味を帯びている。だからそれを届けるのはとても大切な行為だ。そして、樹の上にいるふたりの姿が両親に見えないのは、その時点ではまだふたりが「異界」の側に身を置いているからだ。

 ① 主人公(おもに子ども)が現実世界(この世)で困難に直面する。
 ② 「使い」が彼ないし彼女を「異界」に連れていく。
 ③ 主人公がそこでひとつの「仕事」を成し遂げる。
 ④ 現実世界(この世)に戻ってくる。
 ⑤ 直面していた困難が解決する。あるいは、解決させられるだけの新たな力を主人公が身につけている。

 ここまででワンセットである。これを称して「行きて帰りし物語」と呼ぶ。ほとんどすべてのファンタジーは、この定式を踏襲する。
(同じ宮崎アニメのなかで、もっとも見やすい例は、2001年の『千と千尋の神隠し』だろう。彼女はちゃんとトンネルを抜けて帰ってくる。「千尋はじつは死んでいる」と主張する人はさすがに見たことがない。)
 「トトロ」ももちろん例外ではない。サツキとメイはラストでこちらに帰ってくる。両親は病院にいて不在だから、ふたりを案じて捜しまわる村人たちのもとに戻り(あれ、あとで父親は村中にアタマを下げて回ったろうなあ……)、あのおばあちゃんに抱きかかえられる。親しんだ日常の中へと帰還する。そうでなければ文字どおり「お話にならない」。
 これは物語論についての知識があれば誰にでもわかるところで、いま手元に本が見当たらないが、大塚英志さんも同じことを指摘していた。さらに氏は、「なぜあんな俗説が行きわたるのだろう。世間にはこれほど物語があふれているのに、みんなは意外とファンタジーの文法に習熟していないのか」と、疑問を呈してたようにも思う。ぼくもそこはフシギに思うが、たぶん、それはみんなが「怪談」好きなせいなんじゃないか。怪談ってのは因果ものが多くて、ネガティブで陰鬱でどろどろしている。「サツキとメイはじつは死んでた。」という俗説は、その条件にぴったりだ。そういうものに惹かれる部分も、人間のなかには確かにある。
 それに、千尋の迷い込む世界はあからさまに「異界」であって幼い観客にも見紛いようのないものだけど、トトロは湯婆婆なんかにくらべて明らかにフレンドリーだし、サツキとメイがネコバスに乗って病院まで届けてもらうシーンも、あくまでも楽しげに描かれ、さほど長いわけでもなく、ふたりが「異界」に身を移していたことが一見するとわかりにくい。そこがかえって捩じくれた解釈を招くのかもしれない。
 もうひとつ、あの姉妹の暮らす昭和30年代のニホンの田園風景は、いま都会でそれをみる観客にとっては、自分たちの生活圏と地続きでありながらそれ自体がどこかしら既に「異界」めいている。そのことも大きいかと思う。
 つまり、「トトロ」は「千と千尋」に比べて、わかりづらいファンタジーなのである。そのためにかえって、見るものの深層心理にはたらきかけ、陰惨なものまで含めた多様な解釈をうむのかもしれない。しかし、いかに解釈は自由だといっても、この作品に関するかぎり、ネガティブな読みはあくまで曲解であり、妄説・奇説・珍説のたぐいであることは心得ておきたい。



芥川賞と物語

2018-06-29 | 純文学って何?
 前回の投稿から9日も経ってるもんで驚いた。つい昨日くらいに思ってたんだがな……。ちょっと忙しくなるとブログのことがすっ飛んでしまう。「教養って何? みなさんの定義」の続きをやるつもりで、草稿もつくってたんだけど、ファイルがどこかに紛れてしまって見当たらない。しょうがないので別の話をしましょう。
 それではサッカーのこと……はさっぱり不案内なので、またまた「純文学」と「物語」ってことになるんだけども、ともあれ「物語」の威力なるものはまことに大きく、「純文学」の牙城であるはずの「芥川賞」の選考委員の皆さんとて、じつは全員が「物語作家」なのである。
 宮本輝さんは、いうならば「もっとも良質な通俗小説」の書き手なわけだし、村上龍さんが社会派のエンタメ作家であることも論を俟たない。高樹のぶ子さんは情感あふれる恋愛小説の手練れで、小川洋子さんはリアリズムのなかにSF(すこしフシギ)な感覚と微妙な悪意をからめてお話を作る名手。川上弘美さんも柔らかなことばでシュールな寓話や風変わりな大人の恋模様を紡ぐ優れた物語作家である。
 山田詠美さんはそもそもが直木賞系だし、島田雅彦さんもペダンチックで癖のある文体が身上とはいえけっして物語の破壊者ではない。奥泉光さんは一般にはむしろ巧緻なミステリー作家として知られているだろう。
 新しく加わった吉田修一さんもまた一流の語り部であることはここで強調するまでもない。堀江敏幸さんだけは、「文章の魅力で読ませる」タイプで、中ではもっとも物語性に乏しいけれど、いまどきの翻訳小説を思わせる工芸品のような小説をつくる。たとえば小川国夫のような狷介な作家のものと比べれば、読みやすさは明らかだ。
 「純文学」とは言いながら、長年にわたって一家を張ってるほどの小説家は、みな物語作家でもあるわけだ。村上春樹さんはいうまでもない。
 ここ十年ばかりにおいて、ほんとの意味での純文学というか、まさに「ことばの運動」だけで織り上げられたエクリチュールを提示したのは、ぼくの見たかぎりでは朝吹真理子さんの「流跡」(新潮文庫『流跡』所収)ただ一作だけれども、この路線を突き進むのか、と思いきや、次の「きことわ」はわりと普通の小説だった。おかげで芥川賞は取れたのだが、大手通販サイトのレビューでは「中身がない」「ストーリーが希薄」とさんざんである。ほとんどの読者は「小説」に「物語」(だけ)を期待している。「小説」とくに「純文学」と「物語」とは別物であり、別物なればこそ貴いのだが、なにぶん選考委員の皆さんからしてああなのだから、それを申し立てても詮無いことだ。
 いや……ことばの存在感が生々しく立ち上がる作品がもうひとつあった。黒田夏子さんの「abさんご」(文春文庫『abさんご・感受体のおどり』所収)。しかしこちらは、語り口というか、文体こそ極めて特異ではあれ、背後には相応の重さをもった「物語」がきっちり潜んでおり、「ことばの運動」そのものがスリリングな軌跡を描いて止まない「流跡」とはまた別様のものだった。