ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「君の名は。」 とりあえずの論考。その②

2016-09-30 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 いやいや、落ち着いていきましょう。
 前回の記事は、「君の名は。」を観てきた直後のコーフンのなかで書いた。
 まあ、熱に浮かされてたようなものだ。でもって、そのままもう、勢いにまかせて、全編にわたる詳細な「テクスト分析」までやっちまおうと思っていた。当ブログの「戦後短篇小説再発見」シリーズでやってるアレである。
 しかし、冷静になって考えてみると、それにはいろいろ支障がある。まず、ぼく自身の記憶がそこまで鮮明に残ってはいない。げんに、前回の記事でも、間の抜けた事実誤認をやらかしていた(あとで慌てて訂正しました)。
 それに、もし記憶が鮮明であっても、「詳細なテクスト分析」なんて、そりゃたいへんなネタバレではないか。絶賛上映中の映画をそこまで克明に解説しちゃっていいものか……。いや、ネットの上にはとっくにネタバレが溢れかえっていて、ぼくひとりがやろうがやるまいが大勢に影響はないと思うけれども、それにしてもだ。
 なんにせよ、一回観たっきりの映画、それもあれだけフクザツな映画を、記憶だけを頼りに論じるってのも荒っぽい話にちがいない。最低限の資料は必要だろう。
 というわけで、新海誠さん自身の手になる原作小説『君の名は。』(角川文庫)と、「ユリイカ」2016年9月号「特集・新海誠」(青土社)を入手した。
 小説のほうは、省かれているシーンもいくつかあるが、ほぼ映画どおりである(正確にいえば、映画にするさい付け加えられたシーン、というべきだろうけど)。おかげで、時系列がはっきりわかった。
 「ユリイカ」は、かつてはちょっと硬派のアート系/ブンガク系月刊誌だったが、90年代の半ばくらいからサブカルにもよく手を出している。これまでにも、折にふれて、宮崎駿、高畑勲、押井守、細田守といったアニメ作家を特集してきた。
 サブカルを扱う際でも、妙にくだけたりせず、かといって固くもなりすぎず、「ストリートっぽさ」と「アカデミック」との程よい頃合いでやってのけるのがいいところである。このたびも、執筆者は知らない名前ばかりだけれど、熱のこもった論考ぞろいで、おおいに参考になった。現時点における「新海誠論集」として必携の一冊かと思う。
 これはまあ、プロによる本格的な批評だけれど、ネットには、先述のとおり山ほどの感想、分析、考察などがあふれている。ぼくももちろんその一人だが、観たあとで、どうしてもあれこれと語りたくなる作品なのだ、「君の名は。」は。
 じつはこのほかにも、角川文庫からは別の作家による公式のスピンオフ(外伝)も出ていて、ぼくはまだ読んでないけど、「裏設定」みたいなものが色々と述べられているらしい。ネットにあふれる分析や考察には、それを元にしたものも少なくないようだ。
 それはもちろん、作品への理解をふかめるうえでいいことなのだろうと思うし、たんに「知的遊戯」としても面白いかと思うけれど、ぼく個人は、あまり裏設定には深入りしたくはない。
 「君の名は。」は、「エヴァンゲリヲン」とは違うのである。観れば誰しもが心を打たれ、感動できる作品なのだ。ややこしい「謎解き」なんて必要ない。もっともっと、できるだけ多くの方に見てもらいたいので、へんな感じにマニアックになって、敷居が高くなっては困るのだ。
 とはいえ、観たあとで、すんなりと納得できないところがあるのも確かだろう。そう思い、とりあえず、多くの方が引っかかるんじゃないかと思う2点についての見解を、「ダウンワード・パラダイス(裏)」のほうに書いた。ところがあちらは、以前にすべての記事を消してしまったため、ほとんど誰も訪れてくれず、なんだか悲しい。それで、こちらに転載させていただこうと思う。
 念のために繰り返すが、これはまったく「謎解き」なんかではない。できるだけシンプルに、常識的に考えて、「おかしいな、と感じる件も、こういうふうに考えれば、整合性が見いだせるんじゃないか。」という提言である。このようなことで、あの優れた作品が軽んじられてはもったいないからだ。それでは、どうぞ。






疑問001   なぜ町長(三葉の父)は彼女の説得に応じたのか?

 この記事はネタバレを含む、というよりほとんど全部がネタバレなので、映画をごらんになっておられない方は、くれぐれもご注意ください。


 何よりもまず、圧倒的な映像美。たんに美麗というのではなく、現代日本画につうじる繊細さと奥深さ(じっさいに、現役の日本画家の方が美術スタッフのなかにおられるとか)。
 息をのむほど美しい、としか言いようのないあの光の使い方。そして完璧とも思える画面構成。
 それに加えて、アニメ映画の粋を極めたカメラワークと、編集。
 ほんとうに見事な作品だ。何度でもくりかえし鑑賞したくなる。ただ、その映像のもつ訴求力・説得力のため、観ているあいだはひたすら没入してしまうのだけど、後からつらつら鑑みると、「どうにもわからぬ」ところもある。
 たとえば「エヴァンゲリオン」や「ハウルの動く城」、あるいは浦沢直樹の「20世紀少年」が「難解」である、という意味では、「君の名は。」はけっして難解ではない。とてもストレートで、力強い作品だ。パズルを組み立てるためのピースは、すべて、ぼくたちに与えられている。ただ、「複雑」な作品には違いない。それは、時間の流れが込み入っているからだ。
 たんに「三年まえ」と「現在」とが入り混じっているためだけでなく、編集によって、時系列が入れ替えられたり、省略されたりしている。しかもそこに、「意識の入れ替わり」が絡まるのだから、ややこしくならないはずがない。
 また、町長(三葉の父)が最後の最後になぜとつぜん態度をひるがえし、町民の強制避難を敢行したか、といった、登場人物の「心理」にかかわる疑問もいくつか残る。そういった雑念がさまたげになって、この素晴らしい作品への評価が曇らされては残念なので、まことに大きなお世話ではあるが、この場を借りて、自分なりの「辻褄あわせ」をしてみたい。
 それでは、順序は大幅に前後するが、初めにそこを考えてみよう。
 なぜ町長(三葉の父)は、とつぜん態度をひるがえし、町民の強制避難を敢行したか。
(まあ、このもようは同時進行では描かれず、後からの「ニュース記事」みたいなかたちで手短に示されるのみだが。)
 これは、「時空を超えた瀧(たき)の声によって励まされた三葉が、揺るぎない意志をもって、父を説き伏せた」からだ。
 父である町長の側からいえば、「傷だらけになってもまるで動じることなく、信念に満ちて語る娘のことばを信じたから」ということになる。
 意識が互いのからだに戻るまえ、三葉のからだで、住民避難のために(テッシーと共に)奔走していた「瀧」は、いちど町長の説得に失敗し、「俺じゃだめだ……三葉でなきゃだめなんだ」という意味のことをつぶやく。
 ひとびとを救うのは、あくまでも、三葉でなければならない。瀧は、その手助けをするだけである。だから三葉が、自分のことばで、実の父親を説得したのである。
 まことにシンプルな解釈ではあるが、結局のところ、これが作品のテーマにもっとも即している。
 ただし、この点につき、あるブログで、たいへん深い解釈をみつけた。
 祖母の一葉は、「自分にも、少女の頃に≪入れ替わり≫の夢をみた覚えがある」と言い、それを聞いた瀧(からだは三葉)は、「それは宮水家の巫女に伝わる資質ではないか、今日のこの災厄を回避するために、それが代々受け継がれてきたのではないか」と考える。
 それはつまり、三葉の母(二葉)も、その力をもっていたということだ。
 では、二葉の≪入れ替わり≫の相手は誰だったのだろう。それはやっぱり、ほかならぬ町長のあの父ではないのか。
 ここからさらに進めて、その方は、このような推理を繰り広げておられた。
 そもそも父は、妻(三葉の母、すなわち二葉)の死後、なぜ政治家に転身したのか。
 それは、若き日に二葉との≪入れ替わり≫を経験するなかで、この夜の災厄を知り、そのことが、記憶の底にうっすらと残っていたせいであろう。それで、無意識のうちに町長を目指した。来るべき災厄の日に、町民を強制避難させられるのは町長だけなのだから。
 瀧が三葉のからだで乗り込んできたとき、父は「お前は誰だ?」といっている。そのあと、ほんとうの三葉が彼女じしんのからだで乗り込んだときに、父は≪入れ替わり≫に気づいた。
 正確にいうと、≪入れ替わり≫のことを思い出した。そして、自分が何のために町長の職を志したのかも思い出した。だから、ただちに説得に応じたのだ。
 ……繰り返しになるが、たいへん深い解釈である。
 とはいえ、ぼくは、これは「深読み」が過ぎると考える。「君の名は。」は、あくまでも、「三葉」と「瀧」とのお話なのだ。これだとなんだか、三葉の父母の話のほうが、ドラマチックになってしまう。
 父は、瀧が三葉のからだで最初に乗り込んできたときに、「妄言の家系か」と吐き捨てている。たしかに、二葉がこのひとに対して何かしら超自然的なことを話したことはあったのだろう。しかしそれは、彼にとっては「妄言」でしかなかった。
 むしろ、そういう迷信だの因習だのが、愛する妻の死を早めた、と思って憎んでいた節さえある。いくら「忘れてしまう」とはいっても、このひとが≪入れ替わり≫の相手とは思えないのだ。
 いや、それより何より、万が一、父が二葉の≪入れ替わり≫の相手であったとしても、彼はべつに「未来」のひとではないわけだから、そもそも災厄を知ることなどできようはずもないのである。
 だからやっぱり、最初に述べたシンプルな理由が正解なのだ。
 しかし、こんな解釈があながち牽強付会(こじつけ)とは言い切れぬくらい、「君の名は。」が豊かな作品であることは間違いがない。




疑問002  なぜふたりは、入れ替わっているあいだ、3年という時間のずれに気がつかなかったのか。

 ひきつづき、この記事はすべてがネタバレですので、映画をごらんになっておられない方は、くれぐれもご注意ください。



 それでは、多くの方が真っ先に抱くと思われる疑問、
「なぜふたりは、入れ替わっているあいだ、3年という時間のずれに気がつかなかったのか。」
 について考えたい。
 これについては、またまたシンプルすぎる回答ながら、
「入れ替わった先の生活に夢中で、それどころではなかった。」
 ということでいいのではないか。
 この作品ではスマホが大きな役割をもつが、どのスマホの画面にも、デフォルトで年度(西暦)は表示されてはいなかった。
 ぼくはまだ一回観たきりだけど、ディスクを買って穴のあくくらい見返しても、たぶん発見できないと思う。
 さらに、カレンダーや新聞など、年度(西暦)を明示するメディアも、注意ぶかく画面の中から排除されていた(追記・じつは1ヶ所だけありました)。
 テレビはあったが、それは三葉のほうの世界(3年まえ)で、「ティアマト彗星接近」のニュースを告げていただけである。
(ちなみにティアマトとは、メソポタミア神話の女神で、破壊と再生とを司るという。)
 それでもお互い、家族も友人もいるわけだし、日々の会話のなかで気づくのではないか、とも思うが、しかしなにしろ、「入れ替わり」自体がおそろしく異常な事態だし、それに伴う「まったく別の生活への適応」のほうに忙しくて、年度(西暦)に対する違和感などは、取り紛れてしまったとしてもおかしくない。
 むしろぼくなどは、そのことよりも、「せっかく日記アプリや、ふつうのノートなんかを使って情報交換できるんだから、どうしてもっと、お互いのことをきちんと伝達しておかないのか。」と、そちらのほうにもどかしさを覚えた。
 しかしこれも、ふたりの気持ちに思いを致せば納得がいく。つまりふたりは、入れ替わった先での暮らしを心から満喫していたのである。
 「東京のイケメン男子」としての生活にあこがれていた三葉はもちろん、瀧のほうも、三葉の住む地の豊かな自然に魅了され、「組み紐」のような伝統や、お祖母ちゃんの話にもつよく心を動かされていた。
 そのことは、新海誠さん自身の手になる小説版のほうを読めばはっきりとわかる。
 だからふたりは、どちらも「入れ替わり」を楽しんでいた。そして、入れ替わっている自分の行動によって、相手を取り巻く人間関係が好転していくことを、とてもうれしく感じてもいた。はっきりとそう自覚してはいなかったけれど。
 三葉のほうは、瀧が奥寺先輩と親密になっていくのを喜んでいたし、瀧にしても、どことなく萎縮して「胸を張る」ことができていなかった三葉が、周囲から見直され、一目おかれるようになっていくのを心地よく感じていた。
 だから、入れ替わり先での自分の(相手の体を借りての)行動を、けんめいに日記アプリに残したのだ。自分の情報を相手に伝えることよりも、そのほうがずっと大事だったから。
 奥底ではもう惹かれ合っていたのに、そのことにはまるで気づいていなかった。
 そもそも、ふたりが「週に2、3度」という頻度で入れ替わっていたのは、どれくらいの期間なのだろう。
 先にも述べたとおり、この作品からは「歳月」を明示するものが意図的に省かれている。だから日々の推移もはかりがたい。
 ただひとつ、明確な手掛かりとなるのが「季節」である。この映画では、すべての物や事象が異様なまでの美しさで描かれるけれど、ことに天空のもようと、日本独自の「季節のうつろい」の描写は比類がない。
 小説版を読むと、「入れ替わり」の第一日目には、三葉のほうではひぐらしが鳴いている。夏の終わりだ。そして、あの彗星落下は「秋祭り」の夜である。
 「三葉」の世界と「瀧」の世界とが「きっかり3年」ではなく「2年と数ヶ月」くらいのズレである可能性もあるが、ここではそれは黙殺しよう。「三葉」の世界と「瀧」の世界とのズレは「きっかり3年」で、時間の経過も即応していると見なす。
 だとすれば、ふたりのからだが入れ替わっていたのは、せいぜい2ヶ月弱か、下手すると1ヶ月そこそこかもしれない。
 「週に2、3度」ならば、多くて15、6回、ひょっとしたら、たかだか10回くらいのものではないか。
 しかもふたりは、最初のうちはたんなる「夢」だと思ってたわけだし、なんといってもまだふつうの高校生だし、ふたつの暮らしを行ったり来たり、何だかバタバタやってるうちに、あっという間にタイムリミットが来てしまった、というのが実際のところなのではなかろうか。