ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「戦後民主主義。」の補足。

2016-09-06 | 戦後民主主義/新自由主義
 前回の記事「戦後民主主義。」を読み返してみると、なんだかどうも、戦前の「社会運動」の担い手が、あたかも共産党だけであったかのようにも取れた。もしそんなふうに受け取られたならば、ぼくの力不足である。ちょっと説明が粗すぎたようだ。すこし補足しておきたい。
 明治維新いこう、欧米から先端の思想が入ってきて、「維新」の恩恵から漏れた層を中心に、いわゆる自由民権運動が起こる。さらにそののち、より進歩的な(もっとはっきりいえば過激な)「社会主義」の思想も行きわたり、「社会主義者」の一団が生まれる。その多くはマルクスに依拠していたけれど、一部には、アナーキズム(無政府主義)などに傾倒している人もいた。
 1917(大正6)年にロシアで革命が起こり、それまではまだまだ理想主義の色合いが濃かったニッポンの社会主義思想にもいっぺんにリアリティーが加わって、社会主義の運動は力を増す。それは、世にいう「大正デモクラシー」をさらに「左」に推し進めたものともいえる。
 「共産主義者」たちの結社=党、すなわち共産党は、そんな動きを母体として生まれたわけである。
 「共産主義」は「プロレタリアート独裁」を掲げるので、基本的には議会制を認めない。じつに徹底してるのである。そのせいか、国内で「共産主義」の党が成立した後も、それが「社会主義」の信奉者たちを吞み込んでしまうということはなく、両者は併存をつづける。母体となった「社会主義」者たちは、「共産主義者」たちとは一線を画して、また別の流れを形づくり、いくつかの政党をつくった。
 社会主義者の政党は、「無産政党」と総称された。無産とは、横文字でいえば、つまるところプロレタリアートのことである。ただ、共産主義ほど徹底しているわけではないので、「独裁」を目指したわけではない。「資本家」を打ち倒そうというのではなく、「資本家」に対する「労働者」という枠組みのなかで、できるかぎりの待遇改善を図ったのだった。具体的には、組合を組織したり、ストを打ったりといったことだ。労働運動というか、当時のことばで「争議」と呼ぶのがやはり正しいか。
 こういった話に関心をお持ちの方がおられたら、岩波文庫の『寒村自伝』(上下)をお勧めしたい。著者の荒畑寒村は、大杉栄とほぼ同年の生まれにもかかわらず、戦後も長らく存命で、議員にもなり、瀬戸内寂聴さんとの交友などでも知られたが、ニッポンの社会主義者の草分けであると同時に、ずばぬけた文才の持ち主でもあって、大正文学史の一角にも名を刻んでいる。『寒村自伝』は、近代史の勉強になるという以上にとにかく読んで面白く、一個人の自伝として、これほど中身が詰まって面白い本は古今東西そうざらには見当たらない。
 さて。「日本社会党」をはじめとするそれらの無産政党は、日中戦争、さらには太平洋戦争へと向かうにつれて弾圧のために解散なり変質なりを余儀なくされ、結局のところ最後にはまとめて「大政翼賛会」へと編入される。このときに孤塁を守ったのが共産党だけだったことは確かである。しかしもちろん、これも激しく弾圧されて、ほとんど壊滅状態にいたる。
 これでもまだまだ粗っぽすぎるが、「近代日本左翼運動史」のひと筆書きとして、前回の記事の補足としたい。