――浩さん、帰りましょう。……今日は有難う。先生、油田を見たの始めてなのよ。
と、上林先生は早くもここでまとめに入る。煩悶を続けてきた浩にすれば、ああ嘘がばれなかった、よかったよかった、と胸を撫で下ろし、さっさとこの場を離れるべきところだ。しかしなぜかこの少年、
――二階にはなにがあるんでしょうか。
などとおかしな探求心を発揮して、自分からわざわざ深みへ嵌り込んでいくのである。空気を読まぬこと山の如しだが、それは例えば、E・A・ポーがあのおっそろしい「黒猫」なんかで描いたような、心に疚しいところがある人間に特有の「あまのじゃく」な心情として読める。
ここで帰路に着いてしまうのは、三島の「雨のなかの噴水」でいえば、ふたりして公園までは来たものの、肝心の噴水の前まで行かずに帰ってしまうようなものだ。それでは文字どおり「お話にならない」。
物語の構造、ないしは物語の文法がそれを許さない。純文学とはいえど、「物語」の桎梏から完全に逃れることはできない。明男はどうしたって噴水の前まで行ってあの壮大な観念遊戯に耽らなければならないし、浩もまた、奥の奥のまで踏み込んで、自らが向き合うべきものと対峙しなければならないのである。
だから浩にこういう言動をとらせるのは、もはや作者の筆というより、物語のもつ力そのものというべきであろう。
二階にはなにが、と言って浩は先生を見るのだが、ここでの彼女の所作がなかなかに意味深だ。「彼女は建物の影の外にいて、右手の人差し指になにかを引っかけ、くるくる廻していた。紐のついた鍵のようだった。」
文字どおり、カギを握っているのである。このあたりから、先生の存在がいちだんと謎めいた感じになってくる。
――二階なんか、見なくていいわよ。
と彼女は言うが、むろんこれは本心ではあるまい。現に浩は、
――折角来たんだから、登ってみます。
と梯子の所まで行く。見るなと言われりゃ見たくなる。古今東西、あらゆる神話や民話に頻出する、「見るなの禁止」というやつだ。これまでずっと浩を先導してきた上林先生だが、ここではもはや、物語の力に従って、彼を意のままに操っている感さえある。
――怖い人がいるわよ。
梯子を登っていく浩を見上げて、眩しい笑顔とともに彼女は言う。いや先生あなたもけっこう怖いです。
「地下への下降」というテーマは、たとえば村上春樹の「井戸」みたいに変奏されて現代文学でも多用されるが、「二階へ登る」というのはあまり多くはないだろう。これは現代における住環境の変化にも因ると思うが、昔の家屋には屋根裏部屋というものがあって、梯子を掛けてそこに登るのは珍しい光景ではなかった。ぼくが尊敬してやまない「小説の女王」こと皆川博子の近作『蝶』『少女外道』(ともに文春文庫)は、戦前の旧家を舞台にした短篇が大半を占め、しかも「二階」をモチーフにしたものが少なくない。そこではほぼ、「二階」はそのまま「異界」である。地下室とはまた趣を異にしているけれど、それも一種の異空間には違いないのだ。
いま浩が梯子を伝って登りつつあるこの「採石の小屋」の二階も、まさしくそんな感じである。軽々しく踏み込んではならない、踏み込んだらただでは済まない異空間。じつはぼく個人としては、初めて読んだ時からずっと、つげ義春の「ねじ式」に出てくる奇怪な建物のイメージでビジュアライズされているのだが……。
浩は二階の床の上に顔を出す。そこで彼が目の当たりにする光景こそが、この短編のクライマックスである。これはぜひ「戦後短篇小説再発見」の第一巻をご購入のうえお読みください、と講談社のために宣伝をして終わりにしたいところだが、ここまで一年近く延々と書いてきて、さすがにそれでは収まらない。もし版権者から苦情が出たらただちに削除することにして、この鮮烈なシーンを書き写させていただこう。
……そこは下で想像したのとは違って、掃除の行きとどいた清潔な場所だった。河口に向けて広い窓があって、彼がいつか見学したことのある漁船の操舵室を思わせた。床に、海軍士官の制服をつけた華奢な青年が寝ていた。その向うにすりガラスの嵌った下窓があったので、浩のとこからは、島のようにその人の真横の姿が見えた。帽子が、いがぐり頭から蓋がとれた格好で、上を向いて落ちていた。浩がそっと首を引っこめようとした時、その人の唇から赤い紐のような血が流れるのが見えた。
さらにその口から垂れた血は、「蔓草の成長ほどに」、わずかずつ、わずかずつ、小止みなく伸びていくのである。もしも映像に仕立てるならば、周りを全部モノクロームにして、その一筋の血の流れだけに彩色をして表現すべきところだろう。想像するだにインパクトに満ちたシーンだ。
連載の当初から申し述べているとおり、ずいぶん変形されてはいるものの、これはエディプス・コンプレックスに基づく三角関係を描いた短篇である。この青年が誰なのかは、浩にも、そして読者にももうわかっているのだけれど、それでもやはり浩としては、いかに相手が屍体の姿で出てきたにせよ、いちおうは、きちんと正面から正対しなければならない。すなわち、「うわーっ」などと無様に叫んで逃げ出すわけにはいかないのだ。
――苦しいんですか、と浩はいって見た。予期した通り、反応はなかった。彼は床へ上がって士官を見下ろした。凛々しい顔立ちの青年だった。血の気の引き切った顔は生きているものとは思われなかった。それでも、
――どうしました、と浩はききながら胸を見つめていた。そして、そこが固くなっていて、瀬戸物のようだ、と思った。彼は今更のように袖章に眼をやって、
――海軍少尉だ、と呟いた。
浩は戻ろうとして梯子に足を掛ける。そのとき彼は、「世の中の運行が、また従来の調子を甦らせたように感じ」るのだが、そこで階下から、先生の声が聞こえてくる。二階と一階、それぞれに分かれて、お互いを視認せぬままの緊迫したやりとりがここから始まる。この問答がまた、難しい。