まえに「火花」について書いたのは7月25日だった。読み返してみると、「完全に口語体にまで解体されることなく、古風かつ生硬な部分を留めつつ、それでもやっぱり総体としては口語を用いて、今の時代にぴったり則した《純文学》を創り上げたという点で、《火花》は画期的なのである。」 なんてぇことを述べている。あれから一ヶ月ちょっと経った今、これはいかにも過賞だったなあと思う。まるっきり的外れだとは思わないけれど、そこまで褒めるほどのもんでもない。口語体がどうのこうのと、大上段に構えずとも、ようするに、芥川や太宰といった近代の古典の格調の高さをほのかに漂わせる文章で、お笑い芸人という特殊だけれど身近な人たちの生態を描いて、いまどきの若い子たちにアピールする小説を書いたのはお手柄だったネ、と言っておけば済む話だったのだ。つい大げさな物言いをしてしまうのはぼくの悪い癖である。
だいたいあのとき、ぼくはまだ「火花」をラストまで読んでなかった。そもそも「火花」のテクストが手元になかったのである。駅前の書店で帰りに毎日ちびちび読んでいたのだが、芥川賞の候補になったとたんに完売となり、そののちは入荷しなかった。だから文藝春秋の9月号が出て、ようやく全編を通して読んだ。やはり書評ってのは全編を完読したうえで、テクストを手元に置いてじっくりと練り上げるべきものなのだ。当ったり前の話である。そんな基本をおろそかにしちゃいけません。受賞のさい、太田光が又吉本人よりもコーフンしていて間抜けだったなんて揶揄したけれど、太田光よりもっと無関係なワタシがさらに平静を失っていたようで、恥ずかしいかぎりでござる。それでまあ、改めて熟読してみて思ったが、文体のことはさておいて、これは果たして小説として成功しているんだろうか。ぼく自身の意見を述べる前に、選考委員の評価を書き写してみよう。
宮本輝「(……)しかし読み始めると、生硬な「文学的」な表現のなかに純でひたむきなものを感じ始めた。お笑い芸人である青年が私淑する先輩の芸論が、やがて少しずつ本来のところからずれていくことへの幻滅も、ほとんどが日の目を浴びずに消えていく若い芸人たちの挫折も、又吉さんは抑えた筆でよく書き切っている。/自分がいま書こうとしている小説に、ひたむきに向き合いつづけた結果として、「火花」のなかにその心があぶりだされたのであろう。」
川上弘美「(……)同じように、「火花」の「僕」を、そして「先輩」を、私はとても好きになりました。こんな人たちと同僚だったり血縁だったり親密な仲になったりしたら大変だよ、と内心でどきどきしながらも、それでも好きになったのです。人間が存在するところにある、矛盾と、喜びと、がっかりと、しょぼい感じと、輝くような何か(それはとてもささやかなものですが)が、二作の中にはたくさんありました。」(註……「二作」のうち、もう一作は「スクラップ・アンド・ビルド」)。
山田詠美「『火花』。ウェル・ダン。これ以上寝かせたら、文学臭過多になるぎりぎりのところで抑えて、まさに読み頃。<劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ。>ここ、泣けてきたよ。きっと、この作者の心身にも数多くの大事なものが吸収されているんでしょうね。」
小川洋子「『火花』の語り手が私は好きだ。誰にも攻め込まれない布陣で王将を守りながら、攻めてくる友だちは誰もいないのだ、と気づく彼がいとおしくてならない。神谷の元彼女、真樹さんを偶然見かける場面に、彼の本質がすべて現れている。他人を無条件に丸ごと肯定できる彼だからこそ、天才気取りの詐欺師的理屈屋、神谷の存在をここまで深く掘り下げられたのだろう。『火花』の成功は、神谷でなく〝僕〟を見事に描き出した点にある。」
高樹のぶ子「話題の「火花」の優れたところは他の選者に譲る。私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。作者は終わり方が判らなかったのではないか。」
堀江敏幸「最初からギアを使わないという選択肢もある。ただ歩くだけという原初的な方法に徹するのだ。又吉直樹さんの「火花」の火は、ギアからもエンジンからも出ていない。師匠の言動を記録する語り手の心は蒸留水のごとく純粋で、自他の汚れをほんの微量でも感知できる。描写の上滑りも、反復の単調さにも彼は気づいている。しかし最後まで歩くことで、身の詰まった浮き袋を手にしえたのだ。あとはその、自分のものではない球体の重みを、お湯の外でどう抱き抱えていくかだろう。」
村上龍「受賞作となった『火花』は、「文学」へのリスペクトが感じられ、かつとてもていねいに書かれていて好感を持ったが、積極的に推すことができなかった。/「長すぎる」と思ったからだ。同じテイストの筆致で、同じテイストの情景が描かれ、わたしは途中から飽きた。似たようなフレーズが繰り返され長々と続くジャズのインプロビゼーションを聞いているようだった。それでは、どれくらいの長さがもっとも適当だったのか、半分でよかったのか、それとも三分の二程度にすべきだったのか。問題は、作品の具体的な長さではない。読者の一人に「長すぎる」と思わせたこと、そのものである。皮肉にも、ていねいに過不足なく書かれたことによって、作者が伝えたかったことが途中でわかってしまう。作者自身にも把握できていない、無意識の領域からの、未分化の、奔流のような表現がない。だから新人作家だけが持つ「手がつけられない恐さ」「不思議な魅力を持つ過剰や欠落」がない。だが、それは、必然性のあるモチーフを発見し物語に織り込んでいくことが非常に困難なこの時代状況にあって、「致命的な欠点」とは言えないだろう。これだけ哀感に充ち、リアリティを感じさせる青春小説を書くのは簡単ではない。」
島田雅彦「「火花」は芸人仲間の先輩との交流を描いた「相棒(バディ)物語」だが、寝ても覚めても笑いを取るネタを考えている芸人の日常の記録を丹念に書くことで、図らずも優れたエンターテインメント論に仕上がった。さらに先輩とのふざけたやり取り、第三者を間に挟んだ駆け引き、禅問答を思わせるメールの交換などは、そのままコミュニケーション論にもなっている。漫才二十本くらいのネタでディテールを埋め尽くしてゆけば、読み応えのある小説が一本仕上がることを又吉は証明したことになるが、今回の「楽屋落ち」は一回しか使えない。」
奥泉光「(……)又吉直樹氏の「火花」も、若くして出会った重要な他者を一人称で描くという典型的な青春小説である。方法論に見るべきものはないが、作者が長年にわたって蓄積してきたのだろう、笑芸への思索と、会話のおもしろさで楽しく読んでいける。しかし二人のやりとりと状況説明が交互に現れる叙述はやや平板だ。それはかたり手の「僕」が奥行きを欠くせいで、叙情的な描写はあるものの、「小説」であろうとするあまり、笑芸を目指す若者たちの心情の核への掘り下げがなく、何か肝心のところが描かれていない印象をもった。作者の力量は認めつつも、選考会では自分は受賞とすることに反対したが、少数意見にとどまった。」
これらの選評を読むと、つい大げさな物言いをしてしまうのはぼくだけの癖じゃないんだなあと思って安心するが、川上、山田両氏の文章は感想であって批評ではない。宮本、村上両氏は「ひたむき」「ていねい」「(文学への)リスペクト」といった形容で作者又吉(およびその分身たる本作の語り手「僕」)の純真さと誠実さとを持ち上げている。宮本氏は持ち上げっ放しで、村上氏は持ち上げたあとで少し落としているが、まあ似たようなもんである。小川氏の評価もそれに近いが、ただ、神谷を「天才気取りの詐欺師的理屈屋」と決め付けるのが正しいかどうかは、意見の分かれる所じゃないか。少なくとも徳永は彼を真の天才と信じてきたわけで、もし神谷が詐欺師なら、徳永はカモってことになる。さんざ奢ってもらって世話になってるんだから、ふつうのカモとは違うけど、ふたりの関係性として、騙されてることに変わりはない。ほんとにそれだけなんだろうか。これは作品そのものの解釈にかかわってくる問題である。
高樹氏の評価は、それと密接に関連する。ラストの豊胸うんぬんは、ほんとうに「言葉と無縁」な行いであり、作者は小説の終わらせ方が判らなかったのだろうか。思えば熱海の花火会場で初めて出会った夜、舞台の神谷は「何故かずっと女言葉で叫んでいた。」ではないか。言葉(による笑い)で世界をひっくり返すことを目論む神谷は、結果として、自らの肉体を自らの言葉に捧げてしまったのかもしれない。もしそうなら、ラストのあの異様な挿話は逆に、作者の緻密な計算のたまものということになる。
これはひとつの仮説である。とはいえ、この解釈が正しかったとしても、すぐに作品自体が傑作ということにはならない。そもそも神谷は「破天荒で世界をひっくり返す言葉」なんてものを連発していたろうか? そりゃ徳永はそう言っている。神谷さんのセンスはまことに凄いと、執拗なほど強調している。ただ、じっさいにその物凄い言葉が作中に綴られているとは思えない。考えてみると、ぼくは神谷のせりふで一回も笑ったことがない(徳永のギャグではそこそこ笑えた。いとし・こいし師匠のネタがはっきりと明記されぬまま流用されているのには引っかかったけど)。神谷は芸論というか、「お笑いの哲学」みたいなものをしきりに繰り広げるのだが、それらは興味ぶかくはあっても別に可笑しいものではなかった。本来なら、その芸論ないし「お笑いの哲学」を語ること自体がすでにして話芸となり、聞く者すべてを抱腹絶倒させる、という離れ業を成し遂げてこその「天才」ではあるまいか。
堀江氏は、ぼくは大ファンなんだけど、残念ながら今回の選評はちょっと何いってんだかわからない。ギアうんぬんというのは、候補作5本のうちの「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(落選したが、選評を読むかぎりけっこう面白そうである)の中にギアの話が出てくるらしく、それに絡めたものなのだが、5本の作品すべてに無理やりギアの比喩を当てはめて論じているためによくわからないことになった。ぼくがバイクを運転しないせいもあるんだろうけど。
島田氏はこの小説が「優れたエンターテインメント論」になっているという。それは、ぼくが今年の6月、この作品を初めて(デパートの書籍売り場で)立ち読みしたときに感じたことだ。しかし今は考えが変わった。「優れたエンターテインメント論」になっているのは神谷が語る内容であって、この作品そのものではない。言い換えると、神谷の言葉はあくまでも考察ないし分析であって、「芸」になってはいない。本当の意味で作品のなかに溶け込んではいない。畢竟それは、上に述べたのと同じことである。また、「そのままコミュニケーション論にもなっている」のは、島田さんも承知のうえで書いてるんだと思うけど、そこは優れた小説ってものは全部そうなんだよね。ただ、お笑いを題材にしているがゆえに、より濃厚に出ているってことはある。しかしそれでもぼくにはまだまだ不十分、不徹底と思える。だから「一回きりしか使えない」どころか、むしろ次回作もその次も、又吉氏はこのテーマを追究し、拡充していくべきだと思う。
奥泉氏の評価が、いまのぼくの考えにもっとも近い。語り手の「僕」が奥行きを欠いている。これが最大の欠陥なのである。漫才に見切りをつけた後の、引退記念のライブハウスでの感傷とか、そこはもちろん直木賞作品ならいちばんの泣かせ所になるわけだけど、純文学としてはそんなもん、大したことじゃないのである。ふだん純文学を読みなれてない読者はあそこで喜ぶんだろうけど(山田詠美もかい!)、昔の芥川賞なら気難しい老骨の選考委員から「通俗じゃあ」と言って切り捨てられたところだろう。純文には、もっと力を込めてがっちりと書き込んでおくべきことがあるのだ。それが「笑芸を目指す若者たち(とくに僕=徳永)の心情の核への掘り下げ」であり、「肝心のところ」なのである。そこがほとんど描かれていない。まさにぼくもそう思う。もとよりそれは、折にふれてそこここに書き込まれてはいるし、神谷との交流の中でしぜんと滲み出してもいる。その程度にはもちろん、又吉さんは巧いんだけど、しかしまだまだ足りないのだ、掘り下げが。
芸論のほかにも神谷は随所でユニークな発言や鋭い発言をするのだが、蝿川柳に代表されるとおり、残念ながらそれらもけして笑えるものではない。しかしこれは当然であって、もし彼の言動がふつうに笑えるものならば、やっぱり神谷は売れちゃうわけで、そうなるとこの小説の展開自体が変わってしまう。違う話になってしまう。神谷は生活破綻者ではあるが、戦前の或る種の芸人みたいに完全にイッちゃってるってほどでもないから、「芸そのものはむちゃくちゃに面白いけれどクスリに溺れたり刃傷沙汰に及んだりして表舞台から姿を消す」という顛末にもできない。神谷が売れないのは、あくまでも、彼の笑いが一般受けしないからである。だけど「一般受けしない笑い」って一体なんなんだろう。神谷が芸人として、また人間として一定の魅力を放っているのはぼくにもわかる。しかし彼の笑いが徳永と、真樹さんと、あとはせいぜい相方である大林くらいにしか理解されないのだとしたら、たとえばチャップリンが天才だという意味では、彼を天才とは呼べないだろう。せいぜい「鬼才」といったところか。だがしかし、鬼才は鬼才なのであり、ただの「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とは別だ。売れないという点で社会的には大差はないが。
そんな神谷を徳永は師匠と見込んで付いていく。ふつう、誰かが誰かに師事するのは、相手の技やセンスを自分のものにするためである。神谷と徳永とのやりとりは、一瞬一瞬が「笑い」のための丁々発止の駆け引きとなっている。それはこの師弟(?)にかぎらず、作中に出てくるすべての芸人同士のやりとりがそうだ。プロ棋士を目指す奨励会員が、顔を合わせると対局をしているようなもんだろう。だが、徳永が神谷を慕うのは、そんなうわべのことよりも、神谷といると自分がいちばん安らげるからなのだ。この作品のなかで、ぼくが何よりも印象に残ったくだりは以下だ。長くなるけど引用したい。事務所の後輩たちが企画したライブに出た「僕」が、芸歴が最長なのにもかかわらず、八組中六位という成績に終わって落ち込みながら打ち上げの席に就いているところ。全編のちょうど中ごろ、文藝春秋版だと362ページからである。
ライブの打ち上げは渋谷の鉄板焼き屋で行われた。今まで事務所ライブで積極的に打ち上げが行われたことなどなかったかもしれない。週末ということもあり、店内は若者や酔客でごった返していた。静かなのよりはましだった。隅に座った僕の前には女性の社員が座った。
「徳永君、大阪選抜だったんでしょ? なんでサッカー辞めちゃったの?」
この人は、いつも僕達に笑顔で接してくれるけど、僕達のことを微塵も面白いなんて思っていないのだろう。この人にとって、僕などはここに存在していなくても別に構わないのだ。どこかでサッカー選手にでもなっていたら、こいつは幸せだっただろうと軽薄に想像する程度の人間でしかないのだ。そして、それはこの人に限ったことではない。
十代の頃、漫才師になれない自分の将来を案じた底なしの恐怖は一体何だったのだろう。上座で構成作家や舞台監督と呑んでいた相方の山下が便所に行った帰り、僕の側に来て、「舞監(ぶかん)さんが、隅で呑んでんと作家さんとかに挨拶した方がいいよ、やって」と囁き自分の席に戻って行った。この舞台監督は何かと僕達のことを気にかけてくれる優しい人物だった。僕はビールの入ったグラスを持ち、重たい腰を持ち上げて上座に歩いて行く。こんな夜でさえもそうなのか。上座の作家や舞監や山下を相手に後輩達は健気に立ち回り、場は盛り上がっている。自分の存在が水を差さないかと怖かった。笑顔を貼りつけたまま上座に辿り着いた僕には誰も気づかない。
僕は全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしていた。僕は何なのだろう。
こんな時、神谷さんの唱える、「気づいているか、いないかだけで、人間はみんな漫才師である」という理論は狂っていると理解しながらも妙に僕を落ち着かせてくれるのだった。今、明確に打ちのめされながら神谷さんとの日々が頭を過(よ)ぎる。僕は神谷さんの下で成長している実感が確かにあった。だが、世間に触れてみると、それはこんなにも脆弱なものなのだろうか。言葉が出てこない。表情が変えられない。神谷さんに会いたくなるのは、概ね自分を見失いかけた夜だった。
お笑い芸人がどうこうという以前に、この人は社会人として大丈夫なんだろうか、と不安をかきたてられる一節である。まるで組織に向いてない。そしてまたこれは、「純文学」の世界には、主人公として基本のように立ち現れる人格でもある。およそ純文学なんてのは、「全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしている」ような自意識のありようからこそ生まれ出ずるものなのだ。欧米人ならおそらくそこでキリストと向き合うこともできるのだろうが、「神」を持たない、というか、あまりに多くの「神」を持ちすぎている日本人は、絶対者としてのジーザスと向きあうこともままならない。だからそれぞれに急場しのぎの「神」を希求する。それは特定の人格とは限らない。かつては「自然」がそのポジションに据えられることも多かった。でも昨今の都会人にはそれも不可能だ。徳永にとっては、それが神谷であったのだ。
だから神谷の真の魅力は、「僕」と神谷との関係性において初めて鮮烈にスパークするわけで、それが世間に伝わらぬのも致し方ないことなのである。そこはまあ、いいんだけども、問題は、このような性格をもった「僕」が(80年代バブル用語ではネクラと呼ぶ)、なんでまたお笑い芸人なんてのを目指しちゃったんだよ、というところなのである。それこそが、本当ならばこの作品の根幹のテーマとなるべきことだったはずなのだ。
「全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしている」ような性分の青年が「もしなれなかったらどうしよう」と「底なしの恐怖」を覚えるくらいお笑い芸人に憧れたのは、もちろん、笑いを通してしか他者なり世間なりと関わる術を持たなかったからである。彼はおそらく小学校の教室においても浮くか沈むかしていた。……たぶんまあ、沈んでたんだろう。しかしそこで、言葉を通して級友(さらには先生や家族)を笑わせることを覚えた。自分にはその方面の才があることを知った。あとは中学、高校、おおむねその路線でやってたんだと思う。その延長線上に、「お笑い芸人として食っていく」という進路が、ほぼ絶対のものとして立ち上がってきたに違いない。
奥泉氏が(ついでにぼくも)「掘り下げが足りぬ」と言っているのはそこで、そういった経緯や心情がまったく書かれていないために(それはミスというより、作者の計算づくだと思う。さほど本質的でもない、幼年期の「貧乏ネタ」が妙に細かく書かれていたりもするからだ。これは肝心なことを書かないための手法でもある)、個々の文章や会話やエピソードはそれなりに面白く読めるにもかかわらず、作品全体としてはいまひとつ土台がしっかりしていないというか、どこか上滑りなものに終わってしまっているのである。いま気づいたけど、村上氏が「単調で長すぎる」というようなことを言っているのも同じ意味なんだろう。キツい言いかたをするならば、作者は「僕」=徳永と対峙することを避けたいがために、神谷というキャラをつくったようにさえ見える。自分のことを掘り下げるより、他人を描くほうがラクだからだ。
もうひとつ、選考委員各位がわざと書き落としていることがある。この作品が否応なしに町田康を思い起こさせることだ。これは芥川賞の選考だから気を使って言わないだけで、もしこの「火花」が匿名で文學界の新人賞に投稿されていたならば(そのばあい、受賞にまで至ったかどうかは判らぬが、最終選考までは残ったと思う)、たぶん選考委員の全員が、そのことを指摘したはずだ。「受賞者インタヴュー」の中で又吉氏は、はっきりと町田康の影響を認めているけれど、べつに本人の証言がなくとも、すこし本を読んでいるひとなら誰にでも見て取れることである。6月の記事でぼくは「火花と町田作品は、似ているようで似ていない」なんて書いたけれども、あそこのくだりは全面的に撤回したい。はっきりいえば、「火花」は、それこそ「鬼才」すれすれの「天才」というべき町田康の世界を、作者又吉が芸人生活で蓄えたディテールを生かして、大衆向け、若者向けに甘ったるく「翻案」したものといってもいいくらいだ。
結論をいうと、「火花」は秀作ではあるけれど、昔なら、つまり純文学業界がこれほど逼迫してない時代なら、候補にはなっても受賞とまではいかず、「もう一作、様子を見てみよう」ということに落ち着いていた作品だと思う。その「次の一作」が出せずに消えていった作家はいっぱいいる。だから上にも書いたけど、又吉直樹さんにはもう一歩さらに踏み込んで、「笑いを通してしか他者と、世間と関わることのできない男」をよりいっそう掘り下げて頂きたい。そんな作品だったらぜひまた読んでみたいもんです。
追記 2018年6月18日
後にこの作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、ぼくは観ていないのでそちらについては語れない)。
製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。
「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」
ぼくは全話通して観たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
作家としての又吉さんが、そんな欠点を補って、より成熟の度を増したのかどうか。二作目の『劇場』をまだ読んでない(文庫になっていないから)ので、今の時点ではわからない。
だいたいあのとき、ぼくはまだ「火花」をラストまで読んでなかった。そもそも「火花」のテクストが手元になかったのである。駅前の書店で帰りに毎日ちびちび読んでいたのだが、芥川賞の候補になったとたんに完売となり、そののちは入荷しなかった。だから文藝春秋の9月号が出て、ようやく全編を通して読んだ。やはり書評ってのは全編を完読したうえで、テクストを手元に置いてじっくりと練り上げるべきものなのだ。当ったり前の話である。そんな基本をおろそかにしちゃいけません。受賞のさい、太田光が又吉本人よりもコーフンしていて間抜けだったなんて揶揄したけれど、太田光よりもっと無関係なワタシがさらに平静を失っていたようで、恥ずかしいかぎりでござる。それでまあ、改めて熟読してみて思ったが、文体のことはさておいて、これは果たして小説として成功しているんだろうか。ぼく自身の意見を述べる前に、選考委員の評価を書き写してみよう。
宮本輝「(……)しかし読み始めると、生硬な「文学的」な表現のなかに純でひたむきなものを感じ始めた。お笑い芸人である青年が私淑する先輩の芸論が、やがて少しずつ本来のところからずれていくことへの幻滅も、ほとんどが日の目を浴びずに消えていく若い芸人たちの挫折も、又吉さんは抑えた筆でよく書き切っている。/自分がいま書こうとしている小説に、ひたむきに向き合いつづけた結果として、「火花」のなかにその心があぶりだされたのであろう。」
川上弘美「(……)同じように、「火花」の「僕」を、そして「先輩」を、私はとても好きになりました。こんな人たちと同僚だったり血縁だったり親密な仲になったりしたら大変だよ、と内心でどきどきしながらも、それでも好きになったのです。人間が存在するところにある、矛盾と、喜びと、がっかりと、しょぼい感じと、輝くような何か(それはとてもささやかなものですが)が、二作の中にはたくさんありました。」(註……「二作」のうち、もう一作は「スクラップ・アンド・ビルド」)。
山田詠美「『火花』。ウェル・ダン。これ以上寝かせたら、文学臭過多になるぎりぎりのところで抑えて、まさに読み頃。<劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ。>ここ、泣けてきたよ。きっと、この作者の心身にも数多くの大事なものが吸収されているんでしょうね。」
小川洋子「『火花』の語り手が私は好きだ。誰にも攻め込まれない布陣で王将を守りながら、攻めてくる友だちは誰もいないのだ、と気づく彼がいとおしくてならない。神谷の元彼女、真樹さんを偶然見かける場面に、彼の本質がすべて現れている。他人を無条件に丸ごと肯定できる彼だからこそ、天才気取りの詐欺師的理屈屋、神谷の存在をここまで深く掘り下げられたのだろう。『火花』の成功は、神谷でなく〝僕〟を見事に描き出した点にある。」
高樹のぶ子「話題の「火花」の優れたところは他の選者に譲る。私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。作者は終わり方が判らなかったのではないか。」
堀江敏幸「最初からギアを使わないという選択肢もある。ただ歩くだけという原初的な方法に徹するのだ。又吉直樹さんの「火花」の火は、ギアからもエンジンからも出ていない。師匠の言動を記録する語り手の心は蒸留水のごとく純粋で、自他の汚れをほんの微量でも感知できる。描写の上滑りも、反復の単調さにも彼は気づいている。しかし最後まで歩くことで、身の詰まった浮き袋を手にしえたのだ。あとはその、自分のものではない球体の重みを、お湯の外でどう抱き抱えていくかだろう。」
村上龍「受賞作となった『火花』は、「文学」へのリスペクトが感じられ、かつとてもていねいに書かれていて好感を持ったが、積極的に推すことができなかった。/「長すぎる」と思ったからだ。同じテイストの筆致で、同じテイストの情景が描かれ、わたしは途中から飽きた。似たようなフレーズが繰り返され長々と続くジャズのインプロビゼーションを聞いているようだった。それでは、どれくらいの長さがもっとも適当だったのか、半分でよかったのか、それとも三分の二程度にすべきだったのか。問題は、作品の具体的な長さではない。読者の一人に「長すぎる」と思わせたこと、そのものである。皮肉にも、ていねいに過不足なく書かれたことによって、作者が伝えたかったことが途中でわかってしまう。作者自身にも把握できていない、無意識の領域からの、未分化の、奔流のような表現がない。だから新人作家だけが持つ「手がつけられない恐さ」「不思議な魅力を持つ過剰や欠落」がない。だが、それは、必然性のあるモチーフを発見し物語に織り込んでいくことが非常に困難なこの時代状況にあって、「致命的な欠点」とは言えないだろう。これだけ哀感に充ち、リアリティを感じさせる青春小説を書くのは簡単ではない。」
島田雅彦「「火花」は芸人仲間の先輩との交流を描いた「相棒(バディ)物語」だが、寝ても覚めても笑いを取るネタを考えている芸人の日常の記録を丹念に書くことで、図らずも優れたエンターテインメント論に仕上がった。さらに先輩とのふざけたやり取り、第三者を間に挟んだ駆け引き、禅問答を思わせるメールの交換などは、そのままコミュニケーション論にもなっている。漫才二十本くらいのネタでディテールを埋め尽くしてゆけば、読み応えのある小説が一本仕上がることを又吉は証明したことになるが、今回の「楽屋落ち」は一回しか使えない。」
奥泉光「(……)又吉直樹氏の「火花」も、若くして出会った重要な他者を一人称で描くという典型的な青春小説である。方法論に見るべきものはないが、作者が長年にわたって蓄積してきたのだろう、笑芸への思索と、会話のおもしろさで楽しく読んでいける。しかし二人のやりとりと状況説明が交互に現れる叙述はやや平板だ。それはかたり手の「僕」が奥行きを欠くせいで、叙情的な描写はあるものの、「小説」であろうとするあまり、笑芸を目指す若者たちの心情の核への掘り下げがなく、何か肝心のところが描かれていない印象をもった。作者の力量は認めつつも、選考会では自分は受賞とすることに反対したが、少数意見にとどまった。」
これらの選評を読むと、つい大げさな物言いをしてしまうのはぼくだけの癖じゃないんだなあと思って安心するが、川上、山田両氏の文章は感想であって批評ではない。宮本、村上両氏は「ひたむき」「ていねい」「(文学への)リスペクト」といった形容で作者又吉(およびその分身たる本作の語り手「僕」)の純真さと誠実さとを持ち上げている。宮本氏は持ち上げっ放しで、村上氏は持ち上げたあとで少し落としているが、まあ似たようなもんである。小川氏の評価もそれに近いが、ただ、神谷を「天才気取りの詐欺師的理屈屋」と決め付けるのが正しいかどうかは、意見の分かれる所じゃないか。少なくとも徳永は彼を真の天才と信じてきたわけで、もし神谷が詐欺師なら、徳永はカモってことになる。さんざ奢ってもらって世話になってるんだから、ふつうのカモとは違うけど、ふたりの関係性として、騙されてることに変わりはない。ほんとにそれだけなんだろうか。これは作品そのものの解釈にかかわってくる問題である。
高樹氏の評価は、それと密接に関連する。ラストの豊胸うんぬんは、ほんとうに「言葉と無縁」な行いであり、作者は小説の終わらせ方が判らなかったのだろうか。思えば熱海の花火会場で初めて出会った夜、舞台の神谷は「何故かずっと女言葉で叫んでいた。」ではないか。言葉(による笑い)で世界をひっくり返すことを目論む神谷は、結果として、自らの肉体を自らの言葉に捧げてしまったのかもしれない。もしそうなら、ラストのあの異様な挿話は逆に、作者の緻密な計算のたまものということになる。
これはひとつの仮説である。とはいえ、この解釈が正しかったとしても、すぐに作品自体が傑作ということにはならない。そもそも神谷は「破天荒で世界をひっくり返す言葉」なんてものを連発していたろうか? そりゃ徳永はそう言っている。神谷さんのセンスはまことに凄いと、執拗なほど強調している。ただ、じっさいにその物凄い言葉が作中に綴られているとは思えない。考えてみると、ぼくは神谷のせりふで一回も笑ったことがない(徳永のギャグではそこそこ笑えた。いとし・こいし師匠のネタがはっきりと明記されぬまま流用されているのには引っかかったけど)。神谷は芸論というか、「お笑いの哲学」みたいなものをしきりに繰り広げるのだが、それらは興味ぶかくはあっても別に可笑しいものではなかった。本来なら、その芸論ないし「お笑いの哲学」を語ること自体がすでにして話芸となり、聞く者すべてを抱腹絶倒させる、という離れ業を成し遂げてこその「天才」ではあるまいか。
堀江氏は、ぼくは大ファンなんだけど、残念ながら今回の選評はちょっと何いってんだかわからない。ギアうんぬんというのは、候補作5本のうちの「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(落選したが、選評を読むかぎりけっこう面白そうである)の中にギアの話が出てくるらしく、それに絡めたものなのだが、5本の作品すべてに無理やりギアの比喩を当てはめて論じているためによくわからないことになった。ぼくがバイクを運転しないせいもあるんだろうけど。
島田氏はこの小説が「優れたエンターテインメント論」になっているという。それは、ぼくが今年の6月、この作品を初めて(デパートの書籍売り場で)立ち読みしたときに感じたことだ。しかし今は考えが変わった。「優れたエンターテインメント論」になっているのは神谷が語る内容であって、この作品そのものではない。言い換えると、神谷の言葉はあくまでも考察ないし分析であって、「芸」になってはいない。本当の意味で作品のなかに溶け込んではいない。畢竟それは、上に述べたのと同じことである。また、「そのままコミュニケーション論にもなっている」のは、島田さんも承知のうえで書いてるんだと思うけど、そこは優れた小説ってものは全部そうなんだよね。ただ、お笑いを題材にしているがゆえに、より濃厚に出ているってことはある。しかしそれでもぼくにはまだまだ不十分、不徹底と思える。だから「一回きりしか使えない」どころか、むしろ次回作もその次も、又吉氏はこのテーマを追究し、拡充していくべきだと思う。
奥泉氏の評価が、いまのぼくの考えにもっとも近い。語り手の「僕」が奥行きを欠いている。これが最大の欠陥なのである。漫才に見切りをつけた後の、引退記念のライブハウスでの感傷とか、そこはもちろん直木賞作品ならいちばんの泣かせ所になるわけだけど、純文学としてはそんなもん、大したことじゃないのである。ふだん純文学を読みなれてない読者はあそこで喜ぶんだろうけど(山田詠美もかい!)、昔の芥川賞なら気難しい老骨の選考委員から「通俗じゃあ」と言って切り捨てられたところだろう。純文には、もっと力を込めてがっちりと書き込んでおくべきことがあるのだ。それが「笑芸を目指す若者たち(とくに僕=徳永)の心情の核への掘り下げ」であり、「肝心のところ」なのである。そこがほとんど描かれていない。まさにぼくもそう思う。もとよりそれは、折にふれてそこここに書き込まれてはいるし、神谷との交流の中でしぜんと滲み出してもいる。その程度にはもちろん、又吉さんは巧いんだけど、しかしまだまだ足りないのだ、掘り下げが。
芸論のほかにも神谷は随所でユニークな発言や鋭い発言をするのだが、蝿川柳に代表されるとおり、残念ながらそれらもけして笑えるものではない。しかしこれは当然であって、もし彼の言動がふつうに笑えるものならば、やっぱり神谷は売れちゃうわけで、そうなるとこの小説の展開自体が変わってしまう。違う話になってしまう。神谷は生活破綻者ではあるが、戦前の或る種の芸人みたいに完全にイッちゃってるってほどでもないから、「芸そのものはむちゃくちゃに面白いけれどクスリに溺れたり刃傷沙汰に及んだりして表舞台から姿を消す」という顛末にもできない。神谷が売れないのは、あくまでも、彼の笑いが一般受けしないからである。だけど「一般受けしない笑い」って一体なんなんだろう。神谷が芸人として、また人間として一定の魅力を放っているのはぼくにもわかる。しかし彼の笑いが徳永と、真樹さんと、あとはせいぜい相方である大林くらいにしか理解されないのだとしたら、たとえばチャップリンが天才だという意味では、彼を天才とは呼べないだろう。せいぜい「鬼才」といったところか。だがしかし、鬼才は鬼才なのであり、ただの「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とは別だ。売れないという点で社会的には大差はないが。
そんな神谷を徳永は師匠と見込んで付いていく。ふつう、誰かが誰かに師事するのは、相手の技やセンスを自分のものにするためである。神谷と徳永とのやりとりは、一瞬一瞬が「笑い」のための丁々発止の駆け引きとなっている。それはこの師弟(?)にかぎらず、作中に出てくるすべての芸人同士のやりとりがそうだ。プロ棋士を目指す奨励会員が、顔を合わせると対局をしているようなもんだろう。だが、徳永が神谷を慕うのは、そんなうわべのことよりも、神谷といると自分がいちばん安らげるからなのだ。この作品のなかで、ぼくが何よりも印象に残ったくだりは以下だ。長くなるけど引用したい。事務所の後輩たちが企画したライブに出た「僕」が、芸歴が最長なのにもかかわらず、八組中六位という成績に終わって落ち込みながら打ち上げの席に就いているところ。全編のちょうど中ごろ、文藝春秋版だと362ページからである。
ライブの打ち上げは渋谷の鉄板焼き屋で行われた。今まで事務所ライブで積極的に打ち上げが行われたことなどなかったかもしれない。週末ということもあり、店内は若者や酔客でごった返していた。静かなのよりはましだった。隅に座った僕の前には女性の社員が座った。
「徳永君、大阪選抜だったんでしょ? なんでサッカー辞めちゃったの?」
この人は、いつも僕達に笑顔で接してくれるけど、僕達のことを微塵も面白いなんて思っていないのだろう。この人にとって、僕などはここに存在していなくても別に構わないのだ。どこかでサッカー選手にでもなっていたら、こいつは幸せだっただろうと軽薄に想像する程度の人間でしかないのだ。そして、それはこの人に限ったことではない。
十代の頃、漫才師になれない自分の将来を案じた底なしの恐怖は一体何だったのだろう。上座で構成作家や舞台監督と呑んでいた相方の山下が便所に行った帰り、僕の側に来て、「舞監(ぶかん)さんが、隅で呑んでんと作家さんとかに挨拶した方がいいよ、やって」と囁き自分の席に戻って行った。この舞台監督は何かと僕達のことを気にかけてくれる優しい人物だった。僕はビールの入ったグラスを持ち、重たい腰を持ち上げて上座に歩いて行く。こんな夜でさえもそうなのか。上座の作家や舞監や山下を相手に後輩達は健気に立ち回り、場は盛り上がっている。自分の存在が水を差さないかと怖かった。笑顔を貼りつけたまま上座に辿り着いた僕には誰も気づかない。
僕は全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしていた。僕は何なのだろう。
こんな時、神谷さんの唱える、「気づいているか、いないかだけで、人間はみんな漫才師である」という理論は狂っていると理解しながらも妙に僕を落ち着かせてくれるのだった。今、明確に打ちのめされながら神谷さんとの日々が頭を過(よ)ぎる。僕は神谷さんの下で成長している実感が確かにあった。だが、世間に触れてみると、それはこんなにも脆弱なものなのだろうか。言葉が出てこない。表情が変えられない。神谷さんに会いたくなるのは、概ね自分を見失いかけた夜だった。
お笑い芸人がどうこうという以前に、この人は社会人として大丈夫なんだろうか、と不安をかきたてられる一節である。まるで組織に向いてない。そしてまたこれは、「純文学」の世界には、主人公として基本のように立ち現れる人格でもある。およそ純文学なんてのは、「全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしている」ような自意識のありようからこそ生まれ出ずるものなのだ。欧米人ならおそらくそこでキリストと向き合うこともできるのだろうが、「神」を持たない、というか、あまりに多くの「神」を持ちすぎている日本人は、絶対者としてのジーザスと向きあうこともままならない。だからそれぞれに急場しのぎの「神」を希求する。それは特定の人格とは限らない。かつては「自然」がそのポジションに据えられることも多かった。でも昨今の都会人にはそれも不可能だ。徳永にとっては、それが神谷であったのだ。
だから神谷の真の魅力は、「僕」と神谷との関係性において初めて鮮烈にスパークするわけで、それが世間に伝わらぬのも致し方ないことなのである。そこはまあ、いいんだけども、問題は、このような性格をもった「僕」が(80年代バブル用語ではネクラと呼ぶ)、なんでまたお笑い芸人なんてのを目指しちゃったんだよ、というところなのである。それこそが、本当ならばこの作品の根幹のテーマとなるべきことだったはずなのだ。
「全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしている」ような性分の青年が「もしなれなかったらどうしよう」と「底なしの恐怖」を覚えるくらいお笑い芸人に憧れたのは、もちろん、笑いを通してしか他者なり世間なりと関わる術を持たなかったからである。彼はおそらく小学校の教室においても浮くか沈むかしていた。……たぶんまあ、沈んでたんだろう。しかしそこで、言葉を通して級友(さらには先生や家族)を笑わせることを覚えた。自分にはその方面の才があることを知った。あとは中学、高校、おおむねその路線でやってたんだと思う。その延長線上に、「お笑い芸人として食っていく」という進路が、ほぼ絶対のものとして立ち上がってきたに違いない。
奥泉氏が(ついでにぼくも)「掘り下げが足りぬ」と言っているのはそこで、そういった経緯や心情がまったく書かれていないために(それはミスというより、作者の計算づくだと思う。さほど本質的でもない、幼年期の「貧乏ネタ」が妙に細かく書かれていたりもするからだ。これは肝心なことを書かないための手法でもある)、個々の文章や会話やエピソードはそれなりに面白く読めるにもかかわらず、作品全体としてはいまひとつ土台がしっかりしていないというか、どこか上滑りなものに終わってしまっているのである。いま気づいたけど、村上氏が「単調で長すぎる」というようなことを言っているのも同じ意味なんだろう。キツい言いかたをするならば、作者は「僕」=徳永と対峙することを避けたいがために、神谷というキャラをつくったようにさえ見える。自分のことを掘り下げるより、他人を描くほうがラクだからだ。
もうひとつ、選考委員各位がわざと書き落としていることがある。この作品が否応なしに町田康を思い起こさせることだ。これは芥川賞の選考だから気を使って言わないだけで、もしこの「火花」が匿名で文學界の新人賞に投稿されていたならば(そのばあい、受賞にまで至ったかどうかは判らぬが、最終選考までは残ったと思う)、たぶん選考委員の全員が、そのことを指摘したはずだ。「受賞者インタヴュー」の中で又吉氏は、はっきりと町田康の影響を認めているけれど、べつに本人の証言がなくとも、すこし本を読んでいるひとなら誰にでも見て取れることである。6月の記事でぼくは「火花と町田作品は、似ているようで似ていない」なんて書いたけれども、あそこのくだりは全面的に撤回したい。はっきりいえば、「火花」は、それこそ「鬼才」すれすれの「天才」というべき町田康の世界を、作者又吉が芸人生活で蓄えたディテールを生かして、大衆向け、若者向けに甘ったるく「翻案」したものといってもいいくらいだ。
結論をいうと、「火花」は秀作ではあるけれど、昔なら、つまり純文学業界がこれほど逼迫してない時代なら、候補にはなっても受賞とまではいかず、「もう一作、様子を見てみよう」ということに落ち着いていた作品だと思う。その「次の一作」が出せずに消えていった作家はいっぱいいる。だから上にも書いたけど、又吉直樹さんにはもう一歩さらに踏み込んで、「笑いを通してしか他者と、世間と関わることのできない男」をよりいっそう掘り下げて頂きたい。そんな作品だったらぜひまた読んでみたいもんです。
追記 2018年6月18日
後にこの作品はドラマになった(さらにそのあと映画化もされたが、ぼくは観ていないのでそちらについては語れない)。
製作から放映の経緯は、wikipediaによれば以下のとおりである。
「 2015年8月27日、有料動画配信のNetflixと吉本興業によって映像化されることが明らかになる。
同年11月上旬にクランクイン。全10話のドラマとなり、2016年春から、Netflixにて全10話一挙配信された。2017年2月26日から4月30日までNHK総合にて、約45分(最終回のみ50分)に再編集して放送された。」
ぼくは全話通して観たんだけれど、これがほんとに良い出来だった。原作を読んで感じた「物足りなさ」がことごとく丁寧に埋められ、情感あふれる青春ドラマに仕上がっていた。脚本も監督も、複数の方が分担で担当されていたらしいが、全体に筋が一本通って、冗漫なシーンはまったくなかった。主演の林遣都という青年がことのほか良くて、これまで見たテレビドラマの中でも五本の指に入ると思ったほどだ。
先輩芸人の神谷は、原作ではちょっと掴みどころがなく、芥川賞選者のひとり小川洋子さんなど、「天才気取りの詐欺師的理屈屋」とひどいことを言っておられたけれど、ドラマ版では、「才能はあるのに、性格が詰屈していて、客に媚びることができず、自分のスタイルにこだわりすぎて売れない」ところがきちんと出ていた。
ただ、波岡一喜という役者さんは、ぼくの思い描く神谷とはやや違っていた。ぼくの感じだと、あんなに鋭くはなくて、それこそ「天然ボケ」というか、もうちょっととぼけた空気を漂わせているように思うのだ。それでいて、滴るような色気がある。正直なところ、ぼくのなかでは、町田康さんのイメージが最初に読んだ時から確立していて、ほかのひとが浮かばないのである。これはまあしかし、極私的な思い入れです。波岡さん、スタッフの皆さん、ファンの皆さん、すいません。
ともあれ、よいドラマだったのだ。へんな話、あれを見たことで、原作に対する自分の評価が跳ね上がったのである。あのドラマを生む母体に、核(コア)になったのならば、『火花』はやはり名作だ。そう思った。
しかし、裏返していえば、それは小説としての『火花』が、あらためて弱さを露呈した、ということでもある。いわば大勢のスタッフやキャストたちとの「合作」によって初めて「作品」となりえた。文学作品として、独り立ちできてはいなかった。
作家としての又吉さんが、そんな欠点を補って、より成熟の度を増したのかどうか。二作目の『劇場』をまだ読んでない(文庫になっていないから)ので、今の時点ではわからない。