このブログでは、「物語」という概念を当面の仮想敵として立てて、これに批判を加えている。ここでいう物語ってのは、まあ「人間が物事を認識するときに陥ってしまう根源的なパターン、準拠枠」といったような意味で、ふつうに用いられている「お話」という意味よりもさらに射程が広くて、深い。たとえば、神話というのは典型的な物語であって、物語の基本フォーマットはすべて神話のなかにある。これが流れ下って民話になったり伝説になったり童話になったり、中世のロマンスや説話や絵草子や戯作や読本になったり、はては今日におけるマンガやアニメやライトノベルになったり、ハリウッド映画になったりしているわけである。
このように書くと、なんやねん、物語、ええやんけ、おもろいやんけ、めっちゃ楽しいもんやんけ、なんも文句つけることなかばってん、なんで批判やら加えないかんと? と不審を抱かれる向きもあろうかと思うが、私はべつに、伊達や酔狂で物語批判をやってるわけじゃなく、えてしてこの、物語ってぇものが、ヤバい、あぶない、危険、と、同じことを三度言いたくなるくらい、いかにも厄介な代物なので、みすみす見逃してはおけないのである。なんの因果かわたくしは、十代の頃から文学というものに関わってきたせいで、世間一般のみなさんよりも、「物語」に対する知覚がいささか過敏であるらしく、しかも、気づいたことを文章にせずにはいられないので、カネにもならんのにこういうことを書いちまう。まことに損な性分である。
物語の危険性ってものは、そうだなあ、冒頭に述べたハリウッド映画を例にとればいちばん分かりやすいでしょうな。かつてジョン・ウェインが活躍していた頃の西部劇では、「インディアン」が見事なまでに明快な「悪役」として描かれていた。好色で残忍、徒党を組んで「白人」たちの駅馬車を襲い、殺戮や略奪を繰り返す。善良なる被害者としての白人と、悪しき加害者としての「インディアン」という図式である。むろん、歴史に即して冷静にみれば、もともとは彼らの土地であった所にむりやり押し入ってきて簒奪したのは白人の側であり、「インディアン」という呼びかた自体がすでに誤った蔑称であって、本来はとうぜん「ネイティブ・アメリカン」が正しい。
アメリカという国はむちゃくちゃなことも平気でするけど一方では聡明かつ生真面目なところもあるから、今日では、そんな西部劇は製作されない。では、ハリウッドは「物語」と手を切って、現実をていねいに見つめたリアリスティックな文芸作品を作るようになったかというと、なかなかそういうわけでもなく、憎むべき敵としての「悪」はやっぱり形を変えて出てくるし、ヒーローたちはそういう輩を殲滅すべく死力を尽くして戦うのである。ただ、死に物狂いで戦っても、けっして「悪」が一掃されることはなく、ゆえに問題がほんとうに片付くこともなく、ヒーローたちは報われぬどころか、かえって非難を浴びたりする。ここが昔と違うところだ。そこら辺りにアメリカという国の屈折ぶりが出ているわけだが、今回は映画の話でもアメリカ論でもないからこれくらいにしておきましょう。
「悪」と「善」とを仕分けてしまうということが、ひょっとしたら、「物語」のいちばん最初の機能かもしれない。これはもちろん人間の本質に関わってもいて、まだ人類が十分に社会化されず、小~中規模のグループに分かれて狩猟採取で暮らしていた頃には、「敵」としての「悪」と「味方」としての「善」とを見極めることが文字どおり生死に直結しただろう。「あいつら」と「おれたち」との二項対立。たぶん神話の起源もこのへんにあったのではないか。多くの民族の生んだ神話の中で、もっともその二項対立を鋭く感じさせるのはユダヤ民族による旧約聖書だ。第二次世界大戦のとき、ユダヤ人たちはヒトラーのナチス・ドイツ(ゲルマン民族)によって史上最悪というべき迫害を受けたが、しかるに今日、パレスチナにおいては他の民族を迫害する側へ回っている。民族(共同体)の二項対立がもたらす最も恐るべき事例といっていいかと思う。
ともあれ、引っ越し後の最初の記事(2014年9月16日付)から縷々述べているとおり、共同体主義の変種としてのナショナリズムはまさに「物語」であって、これに耽溺するのはつくづく危うい。ただ、ひとは「物語」なしでは物事を認識/判断/弁別/思索できない存在であり、また、何らかの共同体に属せずしては生きられぬ存在でもある。ゆえにナショナリズムとまったく無縁に生活するわけにはいかず、かくいうぼくにもナショナリストとしての側面はある。それは「旧ダウンワード・パラダイス」(引っ越しのまえにOCNでやっていたブログ。今はほかの場所に移してある)ではけっこう濃厚に出ていたと思う。しかし昨今の日本の情況を見るにつけ、当面はナショナリズムの「物語」性をしつこく指摘し、物語批判と併せてナショナリズム批判をする側に回っておかねばならないようだ。
「在日」の問題について、文学サイドからとりあえず申し述べておくならば、戦後この方わが国には日本語で書かれた「在日文学」というジャンルがあって、芥川賞の受賞者も少なからず出ている。たんに話題性ばかりでなく、優れた作品ももちろん多い。いっぽう、日本人作家の手によって、「在日」の人との関わりが丹念に描かれた作品は意外なくらい稀少である。されど本当は、これぞ「純文学」が真っ先にやっとかなければならないことだったはずなのだ。ここに日本の戦後(文学)の大きな歪みを見て取ることもできるだろうし、今になってそれを怠ってきたツケが回ってきたともいえる。いずれにしても、まだまだ「文学は死んだ。」などと軽々しく言えるものではない。最後は妙にマジメになったな。
大江さんも岩波書店もこの本を絶版にしていないのだから、「今もなお読み継がれるべきものである。」との自負があるのだろうし、ぼくもそれには賛同しますが、やはり半世紀近くも前のものである以上、批判すべきところは批判して、時代に即した新しい読みを試みていくべきであろうと思います。まあ一種の古典ですね。
ところで、知念ウシの『シランフーナー(知らんふり)の暴力』(未來社)を、ぼくは読んではいないのですが、タイトルなどから類推するに、≪被害者としての沖縄≫が≪加害者としての本土≫にたいへん腹を立てている、という内容の本だと思っていました。じっさいのところはどうなのでしょうか?
このスタンスで知念ウシを読むと、大江の態度は正しい望むべきヤマトンチューの反省態度なのです。おのれの罪を自覚しろ責任を取れという知念ウシの言葉には沖縄以外の日本人は「ハイ、すみません。全て気が付かなかった私が悪いのです」とうつむくしかない。
ただ、それが少数者である沖縄は独立しなければ誇りや自主性を保てないまでになると、(実際に沖縄独立論が普通に聞かれる言葉になっています)その独立のエネルギーが被害者意識に基づいている、被害者意識は排外性を含み、「アイデンティテイ」も本質を見失いこの確執に拘りつづけることが、進むべき方向を見失う事になりかねない事態になっています。
「米軍基地の76%が沖縄にある事が不当だ・日米安保の負の部分は全て沖縄に押し付けている」という怨念は辺野古新基地を推進する防衛局と政府に対してのみ突き付ける刃でなければならないと思います。
「沖縄」と「本土」という二項対立は、これは事実として確かにある。ただ、「本土」に属する人間をすべて一括りにして、「沖縄」の側から非難したり指弾したりするのはよろしくない。そういったところでしょうか。
あるカテゴリに属する人たちを粗っぽく一括りにして、「外部」からやりこめるのはおしなべて良くないですね。仮にそれが、「少数派」から「多数派」に向けられたものであろうとも。
「あるカテゴリに属する人たちを粗っぽく一括りにする。」ことそのものが、もっとも「文学」に反する振る舞いであると思います。
あえて二項対立の線引きをするなら、おっしゃるように、「為政者(権力者)」と「庶民(ただの一般ピープル)」という分け方のほうが正しいでしょう。とはいえ今は、こういう二項対立を設定すること自体が「サヨク」的だとかいって否定されがちなんですよね。どこがサヨクなんだよ馬鹿を言うなといいたい気分ですけども。権力批判は民主主義の根本理念のひとつなのに……。ふつうの民主主義までが「左」になっちゃあ世も末だ。
沖縄が独立するというのは、返還前の状態に戻るということですよね? ぼくなんかの耳にも、「沖縄独立論」という言葉はちょくちょく届いてきますけど、実際はどれくらい広がっているのでしょうか?
ただ、この人の資金源は地元の大手建設会社を親に持ち、地元の宮古島に自衛隊と米軍共有の基地を誘致した(実際に国会議員の時に)ことがあるし、アメリカの軍事関連の諮問機関とも懇意にしているのでこの言葉の裏にある作為が透けて見えます。知事になったらアメリカの自治領になると言われても驚かない(笑
ただ、独立はそれほどポピュラーな概念になりつつあります。
まえに「通販生活」がこの問題で小特集を組んでいて、さっき切り抜きをやっと見つけ出したんですけど、ここではもっと突っ込んだ話をしてますね。
この意見が主流になることはないと思います。しかし今年はスコットランド独立の是非を問う選挙もあった。「シランフーナー」を決め込んでいる(それどころか、知らんふりをしている自覚すらない)「本土」の者たちは、負担を強いられ続けている地域が「独立」を本気で叫ぶ可能性について、低くはあってもけしてゼロではないことを胸に留めておくべきでしょう。