ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『千と千尋の神隠し』のこと 04 6番目の駅

2019-09-12 | ジブリ
 分別盛り(である筈)の中高年による凶行が相次ぐ昨今、18年前(21世紀最初の年)に提起されたカオナシという表象は、繰り返し巻き返し、いつも何度でも、考察の俎上に乗せられてよい……と思う。たぶん職人的な手堅さでいえば高畑勲さんのほうが上なんだろうけど、じぶんのなかの妄想力を思う存分解放させてこのようなキャラを作り上げてしまう宮崎駿という作家はやはり「天才」と呼ぶに値する。




 さて。そんな天才が描き出した数多の作品の中の数知れぬ名シーンの内で、千尋とカオナシと坊ネズミ(公式名称)とハエドリ(公式名称)の4人(?)が電車に乗って「6番目の駅」こと「沼の底」へと向かうこのシークエンスがぼく個人はいちばん好きである。久石譲氏によるBGMの力も大きいが(楽理的には「四度堆積和音」というらしい)、その神秘的なまでの静謐さは、『銀河鉄道の夜』すら彷彿とさせる。「これはなんの暗喩だろう」「なにを象徴してるんだろう」と理性を働かせる前に、心のふかいところで感応してしまう。危ういほどの郷愁に包みこまれる。もともと『千と千尋の神隠し』という作品ぜんたいがそうなのだが、ことにこの電車のシーンは、ぼくたちのからだの底に眠る遠い記憶を凝縮したかのごとき感がある。



 「6番目の駅」はやはり「六道の辻」から来てるんだろうか。だとすれば終点の「中道」は「なかみち」ではなく仏教でいう「中道(ちゅうどう)」の含みを帯びる。あのシルエットみたいな乗客たちや、「沼原」駅に佇んで電車を見送っている少女のイメージなどとも併せ、あの道行から「死出の旅」を連想しないのは難しい。「行ったきりで帰ってこない」のであれば尚更だ。八百万の神々の集うあの温泉街がすでにして「異界」であったのに、そこからさらに深い処へと千尋は向かうわけである。「千と千尋」の作品世界はなかなかに複雑な構造をもっている。





 リンが千尋を盥(たらい)の舟で駅(「船着き場」という感じだが)まで送ってくれ、「お前のこと鈍くさいって言ったけど、取り消すぞーっ」の名台詞を吐いて、名曲「6番目の駅」がはじまり、千尋が坊ネズミ、ハエドリ、そしてカオナシを連れて乗り込む。水平線まで広がる景色が美しい。その景色も、少しずつ日が暮れると共に他の乗客が降りていき、ぽつんと座席に取り残されて、夜の底を走る車窓にネオンサインが流れ去っていく様子も、ぼく自身、かつて確かに幼い頃の夏休みに見た……気がしてならない。




 この鉄道は海原電鉄というらしい。「千と千尋の神隠し 6番目の駅」で検索をかけて上位にくる「海原電鉄(うなばらでんてつ)とは 【ピクシブ百科事典】 」によると、


踏切の通過シーンや線路を映したシーンから数学的に計算すると、海原電鉄の運行速度はおよそ60km/hであり、さらに千尋が油屋駅を午後1時に出発し、沼の底駅に午後7時に到着したと仮定したら一駅区間は60km、油屋から沼の底まで360kmほどの長大な路線であることが伺える。ちなみに360kmは東京から京都ほどの距離。


 とのこと。
 このシークエンスは進行方向をひたむきに見つめる千尋の横顔のアップでいったん切れるが、その間ほぼ3分50秒足らず。ここだけ切り取って「環境ビデオ」として繰り返し見ても飽きぬだろうなあ。べつにわざわざそんなことやらないけれども。






 このあとカメラはいったん油屋に戻り、ハクと湯婆婆との対峙を映す。絶大な魔力を誇る湯婆婆が、砂金がただの土くれに過ぎぬことはおろか、最愛の息子(?)である坊が入れ替わっていることにすら気づかない。これはラスト間際で千尋が「この中に両親はいない」ことを一目で看破するのと対をなしている。ただし、このあとの展開は率直にいってバタバタである。千尋たち一行が「沼の底」に着いた時には辺りはもう暗いのだが、本来ならば最難関であるはずのこのお詫び行脚が、拍子抜けするほど簡単に運ぶからだ。それは銭婆のキャラの豹変による。




 形代に宿って油屋までハクを追っかけてきた時の銭婆は、そのままハクを殺しかねない剣幕だったのに、今はもう、打って変わって、歩くランプを案内に寄こすほど親切だし、印鑑を返して詫びを入れる千尋を呵々大笑(かかたいしょう)してあっさり許す。カオナシにもとことん寛容で、同居人として受け入れてしまう。『千と千尋の神隠し』は古今東西のたくさんのファンタジーの要素を詰め込んだ作品と宮崎監督じしんがパンフレットでも言ってるけども、ここでの銭婆はグリム童話の「ホレおばさん」を彷彿(ほうふつ)とさせる。ホレおばさんは生意気な子、怠け者の子、平気で嘘をつく子などには徹底して残酷だけど、心根がきれいで善良な子にはあくまで優しい。ちょっと戦慄的なくらいの二面性をもつのだ。ああいうのは一神教的だなあと思う。


 それからハクが白龍の姿で迎えにきて、自らの本当の名(ニギハヤミコハクヌシ……「饒速水小白主」という字を当てる説が有力だ)と、かつて千尋と結んだ深い縁(えにし)を思い出すことで、ふたたび人間の姿に戻る。物語の定型としては、異形の姿に変えられた者が辛苦のあげく人間の姿を取り戻すところで大団円となるので、わりと手軽に自分の意志で龍→人間に往還できるっぽいハクの属性はいささか緊張感に欠けるようである。坊および千尋の両親も元の姿に戻るが、そちらも「付け足し」の感があり、まるでカタルシスを覚えない。主眼はむしろ「幼少期の記憶が二人を救う」ところにあるようだ。


 この「幼少期(あるいは前世)の記憶が二人を救う」というモティーフは次作『ハウルの動く城』へと受け継がれるわけだし、なんなら『君の名は。』にも影響を与えているといってもいいのだけれど、奔騰するイメージや、カオナシという突出したキャラや、郷愁に満ちたディテール(細部)によって素晴らしい作品に仕上がっていた『千と千尋の神隠し』に比べて、「ハウル」のほうはとかく破綻が目について、「巨匠の迷走」を思わせるものとなっていた。残念なことである。


















 



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