ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『千と千尋の神隠し』のこと 03 ハクとカオナシ

2019-09-04 | ジブリ


 追記)2020.09.25
 サブカル批評の草分けの一人で、今やyoutuberとしても名を馳せる岡田斗司夫氏が、「ハクはじつは千尋の兄だった。」なる新説を唱えて界隈で話題をまいているようだ。幼い千尋が川で溺れたさいに彼女を助け、代わりに流されてしまった実兄。その魂魄が「神」に成り切れぬままあの世界に留まっているのがハクであるというわけだ。なるほど確かにそう考えると腑に落ちることも少なくないが、自分なりにこの説を検証するには改めて作品を見返さねばならず、当面はその時間がないのでこの件は自分としては保留としたい。とりあえずここでは、従来どおり「千尋が幼いころに溺れかけて、そのあと埋め立てられてしまった川の主」がハクなのだという見解に従って話を進める。


☆☆☆☆☆☆☆


 というわけで第3回は、みんなのアイドル・ハクとカオナシでございます。いや美少年ハクと不気味なカオナシを一緒にするなと言われるだろうが、「物語論」の見地からいえばこの両者、じつは極めて酷似した構造をもっているのだ。



 まず、どちらも最初に千尋を助ける。ハクについては見やすいであろう。彼の助力と助言がなければ千尋は湯婆婆のもとで働くことができず、ニワトリにでもされていただろう(パンフレットの中の宮崎監督の発言から)し、そもそも体が透けてあのまま消滅していただろう。あの異世界に千尋が居場所を見つけて生き延びるうえで、ハクはなくてはならぬ大恩人である。








 カオナシは、千尋がハクに連れられ油屋に向かって橋を渡るシーンで初登場する。ここで彼女は息を止めているため神々や他の従業員(蛙たち)からは見えないのだが、カオナシだけはじっと彼女を見送っている。つまりこの時点では、ハクとカオナシだけが千尋のことを認識できていたってことになる。そのあと雨中で庭に佇んでいたところを(千尋を追ってきたのであろう)、彼女に招き入れられて、油屋に足を(?)踏み入れる。




 この直後にたまたまオクサレサマ(じつは名のある川の主)騒動が起きる。これは千尋にとっての事実上の初仕事であり、そこで彼女はオクサレサマの浄化に貢献することで一躍株を上げるのだが、これにはもとより千尋自身の献身もあったにせよ、カオナシが番台から「薬湯」の札をくすねてどっさりと渡してくれたことが大きく与っていた。あの大量の札がなければ浄化は叶わなかったはずで、つまりカオナシも彼なりの仕方で千尋をいちどは助けているのだ(だから千尋も、あとで会ったとき「あの時はありがとうございます。」と、きちんと礼を言っている)。




 そこで「砂金」の威力を目の当たりにしたカオナシは徐々に異形化し、増長していく。ひとびとの内にある「欲望」を喚起し、それを弄ぶことで、周りの者たちを意のままに振り回す術を会得するわけだ。この中盤~後半に向けての展開は当初のプランにはなかったもので、作品づくりが進むにつれてカオナシの存在感が膨れ上がっていった、というのは有名な話である。作品のもつ力そのものが、カオナシというキャラを要請したわけだ。それはあるいは、「時代(あるいは社会)そのものの要請」であったかもしれない。




 これにつき、次作『ハウルの動く城』の公開時(2004年)に、「世に倦む日日」氏が見解を述べていた。この人、政治的に偏向しているように思えて近年は距離を置くようになったが、この2004年当時には毎日ブログを愛読してたのだ。このカオナシ論は今でも秀逸だと思うが、「千と千尋の神隠し カオナシ」で検索をかけても上位に出てくるわけでもなく、ネットの海に沈んだ格好になっているので、そのくだりだけ引用させて頂こう。原文はこちら。




世に倦む日日 『ハウルの動く城』(4) - 暗喩と象徴 
https://critic.exblog.jp/1303839/


 『千と千尋の神隠し』のテレビ広告では、宮崎駿自らが自分の言葉で「みんなの中にもカオナシはいます」とメッセージを投げていた。
 この言葉はインパクトがとても大きくて、映画の中でもカオナシの存在に強烈な衝撃を受けたものだ。作品は全編にいろんな意味と暗喩が宝石箱のように散りばめられていて、物語の中身も深く濃いものが感じられたが、何より見た者が考えるべきはカオナシの意味であり、そこには現代の日本が見事に映し出されていた。他人とコミュニケーションがとれず、金で人を操ろうとして、物事が思いどおりにならないと暴れ狂う幼児的な男。自立性も協調性もなく、感情のまま自己主張を喚き散らす未熟な人間。そういう人間がここ十年ほどの間に世代を超えて増殖していた。それは自分とは無縁な他人事の話ではなく、カオナシ的な状況が社会を――メディアを政治を学校を職場を――侵食し影響を強めていく環境の中で、ひとりひとりがカオナシ的プロトコルに接触、感染し、自己弁護的に言えば免疫抗体を体内生成するように、カオナシと通信するインタフェースを具有しつつあるという実感、すなわち自分もカオナシ化しているという問題の自覚でもあった。
 日本人のカオナシ化。映画を見た者は誰しも同じ思いを持っただろう。カオナシはまさに(名前からしても意味深く)シンボリックな存在であり、われわれは現代の社会状況を語るときに、一言「カオナシ」と言えば、百万語の心理学や社会学の専門用語の動員を省略して、問題の本質を察知したり思考を膨らますことができる。この表現と問題提起は宮崎駿の社会科学的快挙であり、画期的な成功であったと言える。『千と千尋の神隠し』は極端に言えばカオナシの映画だ。カオナシはジブリ作品に精通した宮崎ファンでなくても一般的にその象徴的意味を理解できる。それは日本人だけでなく、世界の人々にも同じだったのではないか。同様の問題状況が社会的に発生しているに違いない。カオナシは諸外国の観客にとって理解不能な日本の特殊なキャラクターではなく、現代世界の問題状況を射抜く普遍的な象徴装置であり、その監督の手腕に世界の人々が感動したのだろう。前作への世界の評価は単にアニメ映像の芸術美や想像力だけではなかったはずだ。




 引用ここまで。いま読むと毒気が強すぎて、あまり同意はできないけれど、ひとつの社会批判として傾聴に値するご意見だと思う。




 さて。カオナシが砂金(ただの土くれであったと後にわかるが)を振り撒いて豪遊しているころ、ハクは湯婆婆の命を受けて「銭婆」の家に忍び込み、魔女の契約印を盗み出そうとしたのが発覚して、紙製の形代の群れに襲われながら逃げ帰ってくる。そのときの彼は龍体であり、痛みのために我を忘れて猛り狂っている。つまりカオナシが千尋に拒絶されて異形化し、やがて暴走を始めるのに先んじて、ハクもまた異形の姿となり、暴走していたわけである。




 そして、この両者を救うことができるのは千尋しかいない。まず階上の湯婆婆の部屋へ行き、銭婆(の魔力の宿った形代)によってあわや殺されようとしている瀕死のハクをかばい、ダストシュートを通って釜爺のいる一階のボイラー室まで墜落する。そこで再び猛り狂う龍体のハクを宥めて、川の主からもらったニガダンゴの半分を食べさせ、契約印と共に呪いの毒虫(見た目はススワタリと変わらぬくらい可愛いが)を吐瀉させることで、ハクを人間の姿に戻し、ひとまずの小康を得る。ちなみに「吐瀉」というのは「千と千尋」のキータームかもしれない。






 千尋がハクに成り代わって銭婆の家まで行き、ふかく謝罪することを決意して釜爺から片道切符を貰ったあと、リンが千尋を呼びに来る。カオナシが従業員(蛙男と蛞蝓女)3人を呑み込むなどして狼藉のあげく、「千を呼べ」といって聞かず、湯婆婆ですら持て余しているというのだ。ハクの助命嘆願のために「恐ろしい魔女」のところに(片道切符で)単身乗り込むという大仕事を控えていながら、自分が招いたことの責任を取るべく、決然としてカオナシのもとに赴く千尋は、すでにここではナウシカにも引けを取らない凛々しき宮崎ヒロインといえる。








 ただ、カオナシのような存在を相手にきちんと対峙して話をしようとする千尋はまことに立派だけれど、ぼくなんかから見れば、やっぱり子どもだなあとも思う。世間には、「ぜったいにコトバの通じない相手」ってものが確実におり、そういう人と何かの間違いで関わりを持ったらこれはもう速やかに逃げ出すよりほか仕様がないのだ。カオナシの本性がそこまで凶悪でもクレイジーでもなかったことは千尋にとって幸いであった。そこはさすがに「家族で見られるファンタジー」である。


 「『千と千尋』はカオナシの映画だ。」という極論にもし従うならば、あの「風神雷神図」みたいな鬼の絵が描かれた大広間で千尋とカオナシが向き合うシーンこそが「全編のクライマックス」ってことにもなろう。まさに「杯盤狼藉(はいばんろうぜき)」という熟語どおりのあの食い散らかしの惨状は、バブル狂乱の宴の果てのようにも視えるし、飽食ニッポンのグロテスクな戯画のようにも視える。その中でカオナシは、手のひらからざらざらと砂金を湧出させて、けんめいに千尋の気を引こうとする。しかもその砂金とて幻が解ければじつはたんなる土くれなのである。


 もとより若い観客たちは千尋とハクとの清純でかわいらしいラブロマンスに心を惹かれるんだろうけど、ある年齢を過ぎた人間にとってはカオナシがどうにも気にかかるのだ。だから千尋がここできっぱりと述べる「私の欲しいものはあなたには出せない。」という言明こそが、全編を通じての随一の名ゼリフってことにもなる。千尋が本当に欲しいもの。それは別のシーンで釜爺(CV・菅原文太)がいう「愛だよ、愛」にほかならない。


 愛とは無償の贈与であり、一切の見返りを求めることなく相手のために為すべきことを為すことだ。物欲を喚起することでしか他人の関心を得られず、しかも執着の対象を「所有」することしか念頭にない(千……欲しい……千……食べたい……)カオナシにそんなもの出せるはずがない。そもそも理解もできないだろう。ゆえに千尋はだんぜん正しいのだが、カオナシからすればこれは手ひどい拒絶にほかならない。当然ながらショックを受けたカオナシは、ここからさらなる暴走を始める。


 千尋は怯えながらもニガダンゴの残り半分をカオナシに呑ませ、そこでカオナシは番頭蛙の「兄役」(CV・小野武彦)と蛞蝓女とを吐瀉して、急速に退縮する。そのあとなおも暴れるが、油屋の外(膝のあたりまで水没している)に出てから最後のひとり(?)の青蛙(CV・我修院達也)を吐き出し、そのあとはもう、気弱で引っ込み思案な感じの、元の姿に戻っていく。



 つまりハクとカオナシは千尋のくれるニガダンゴを結果的にそれぞれ半分ずつ分かち合うわけだし、それによって体内の異物を吐瀉することで平穏な元の姿を取り戻すわけだ。ぼくが「ハクとカオナシとは物語論的構造においてほぼ同一の存在」と述べたのはここのところであり、両者は正面きって向き合うことこそ一度もないが、千尋を介して「光」と「影」の間柄といっていい。シンボルカラーも「白」と「黒」で、わかりやすく対照になっている。



 なお、千尋は「名のある川の主」から貰ったニガダンゴをハクとカオナシのために使い切ってしまうわけだが、あのニガダンゴが「両親を人間の姿へと戻すためのアイテム」ということが作中において明確に定義されないために(とりあえず、千尋がそう思い込んでるだけなのだ)、ハクとカオナシに対する千尋の心情の深さがいまひとつ伝わってこない憾みはある。こういった脚本の瑕疵は他にもいくつか散見される。










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