ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「新自由主義」もまた危険である。

2021-09-25 | 戦後民主主義/新自由主義









 文中敬称略。


 昨年(2020年)の12月に、3回にわたって「「社会主義」はなぜ危険なのか。」という記事を書いた。あのときは大統領選挙の経緯をめぐって全米が騒然となっており、トランプに不利な投票結果が民主党サイドの不正な工作によるものだという風説が、youtubeなどのネットメディアで大量に流れていた。日本でも、主に「ネトウヨ」と総称されるジャンルの人たちがほぼ総がかりといった勢いでそこに乗っかっていたものだ。


 米大統領選において不正がうんぬんされるのは別に珍しい話ではなく、2000(平成12)年にも訴訟沙汰にまでなっていて、日本版wikiにも「ブッシュ対ゴア事件」として載っている。あのケースは逆に共和党側の不正が問題になったわけだが、いずれにしても公明正大とは言いきれぬものであるのは確かなようだ。「アメリカは民主主義の総本山」といった先入観からすると、ちょっと驚く話ではあるが。


 当時は負けたゴアの側があっさりと引き下がったから大きな騒ぎにはならなかった。しかし20年後の今回はもっと根が深くて、「中国」というファクターが加わったことで事態がこんがらがった。民主党候補のバイデンが子息ともども中国と縁が深かったために、「不正工作に中共が加担していたのではないか。」という疑惑が囁かれたからだ。


 ぼく個人の意見をいうと、「不正があった。」というところまでは事実であろうと思っている。しかしそれに中国がかかわっているというのは「憶測」の域を出ず、すでに「陰謀論」の域に足を踏み入れている……と言わざるを得ない。あまつさえ、「ディープステート(アメリカのみならず世界全体を裏で操る支配層)」といった存在まで持ち出すとなると、これは世界規模の都市伝説というか、国際謀略伝奇SFのようなもので、とてもじゃないが当ブログでは扱えない。


 2020年12月の時点でのぼくはコロナの発生源となった(しかもそのことを謝罪するどころか認めさえしない)中国に対して腹を立てており、親中といわれたバイデンよりも対中強硬派のトランプを心情的に応援していたわけだが、見ていると、大統領が代わったところで米国の対中姿勢に大きな変化はなかった。それで、自分のなかでは米大統領選の件はひとまず終わった。


 「「社会主義」はなぜ危険なのか。」を書いた時から9ヶ月が過ぎて、ぼくのなかでいちばん変化したのは自民党および7年8ヶ月にわたって総裁/首相を務めた安倍晋三に対する意識だ。これまでは「なんだかんだ言いつつ、そこそこうまくやっているのではないか。」と思い込んでいた。のんきなもんだったのである。そうでなければ延々とプリキュアの話なぞしない。


 しかし、菅首相に代わってのオリンピック強行のプロセスと、そこから露骨に浮かび上がった腐敗っぷり(独善性・縁故性・閉鎖性・傲慢さなど)を目の当たりにして、「とんでもねえぞこれは。」と思った。予算および人事、そしてマスコミ(テレビ業界と広告代理店)を掌握することで、官界と世論とをほぼ完全にコントロールしている。まさに一党独裁といわざるをえない。これはいけない。アメリカの心配をしている場合ではなく、中国に対して腹を立てている場合でもなくて、わがニッポンそのものが問題だったのである。


 「社会主義」が危険なのは、それが口では「民」の最大幸福を謳いながら、実態においては「民」を徹底して踏みつけにしているからだ。すなわち「民主主義」を蔑ろにするからである。しかしそれはひとり「社会主義」だけの通弊ではなく、然るべき政権交代のない一党独裁のもとで格差を広げ、中間層を潰して、一握りの富裕層と大多数の貧困層とに国民を二極化するあからさまな「新自由主義」もまた危険きわまりないものだ。ベクトルが逆方向にむいているだけで、結果として民が不幸になり国力が衰退するのは同じなのである。


 歴史を紐解けば、かの古代ギリシアも、さらにはローマも、衰亡の主因は結局のところ「中間層の没落」であった。なにも遡って他国に範を求めずとも、明治維新とて、つまりは「四民」をできるだけ平準化して「中間層」をふくらませるためのものであったと要約できるし、戦後の日本があれほど劇的に再興できたのも、占領軍が(いろいろと良からぬこともやったけれども、その一方で)旧財閥を解体したり、農地解放を断行したり、女性に参政権を与えたり、労働組合を解禁したり、教育制度を改革するなどして、中間層を分厚くしてくれたからである。


 翻っていえば「中間層の復興」こそが、というかもうその一点だけが今日のニッポンにとっての喫緊事なのであって、竹中平蔵だの高橋洋一だのが何やら小難しいことを言おうと、ひろゆきだかホリエモンだかが変なことを言おうと、4人の総裁候補が何を言おうと、野党筆頭の枝野幸男が何を言おうと、「じゃあ、その政策を取り入れたとして、それで中~長期的にふつうの国民は豊かになるのか? ごく一握りの連中がパイプを作ってどばどばと手元に流し込んでいる莫大なマネーがちゃんと市場に還流するのか? 貧困層が減って中間層が分厚くなるのか?」という、ただその一点だけを毅然と注視していれば、いたずらに混乱することはないし、さほど大きく判断を誤ることにはならないはずだ。


 「社会主義」を標榜して暴力革命によって(あるいは大戦の混乱に乗じて)政権を奪取した国家は危険だけれど、いかに自由主義国家といえども「社会主義的」なイデオロギーを一掃してはいけない。それはまた別の災厄を呼び込むことになる。中庸こそが肝要なのだ。劇薬だって用い方によっては良薬となる。市場原理に基づく自由競争を前提としたうえで、そこで適宜に用いられる「社会主義思想≒平等の理念」は社会の健全さを保つために不可欠のものだ。