ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

芭蕉と門人たち 02 枯野抄

2019-08-01 | 雑読日記(古典からSFまで)





 芥川が芭蕉に私淑しており、優れたエッセイを残したことは前回述べた。小説では「枯野抄」が有名だ。
 臨終の床に就いた師・芭蕉を囲んで最期を看取る門人たちの、それぞれに屈折を湛えた心情を辛辣に穿ってみせた短編。例によって巧すぎるほど巧く、昔はただただ嘆賞したが、この齢になって読み返すと、あまりの見事さにかえって興ざめた気分にもなる。でも名作には違いないので、もし未読であればこの機会にぜひ。


 青空文庫版テキスト
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/72_14932.html





 この作品の劈頭に、


丈艸(じょうそう)、去来(きょらい)を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟(どんしゅう)に書かせたり、おのおの咏じたまへ

  旅に病むで夢は枯野をかけめぐる

――花屋日記――


 なる一文が引用されている。「花屋日記」は、文暁という僧が1811年に刊行した二巻の書で、「芭蕉翁反古文」ともいう。上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送の模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めた……ものなんだけど、じつはぜんぶ創作であったと後の研究で判明した。芥川はどうも知らなかったらしい。芥川じしん、『れげんだ・おうれあ』という虚構の種本によって世を翻弄したことを思うとなんだか可笑しいが、とはいえ、集まった門人の顔ぶれなどは正確である。


 参考資料
一つの作が出来上るまで 青空文庫版
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3754_27334.html





 当のエッセイのなかで芥川は、


 「枯野抄」といふ小説は、芭蕉翁の臨終に会つた弟子達、其角、去来、丈艸などの心持を描いたものである。それを書く時は「花屋日記」といふ芭蕉の臨終を書いた本や、支考だとか其角だとかいふ連中の書いた臨終記のやうなものを参考とし材料として、芭蕉が死ぬ半月ほど前から死ぬところまでを書いてみる考であつた。勿論、それを書くについては、先生の死に会ふ弟子の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた。その心持を私は芭蕉の弟子に借りて書かうとした。(……後略……)




 と述べている。「先生の死に会ふ弟子の心持」がわかるというのは、もちろん、この3年ほどまえ漱石の死に接したからだ。




 「枯野抄」では、あたかも読者が劇の舞台を観客席から眺めるかのように、人物とセットが配置されている。まず「医者の木節(ぼくせつ。青空文庫版には「もくせつ」とルビがふってあるが「ぼくせつ」が正しい)」の名が挙がるが、これは「医者」ゆえにその場に呼ばれたのだろう。芭蕉の門下のなかでけして知られた人とは言えず、ほかでその名をみることはほとんどない。
 俗に「蕉門十哲」という。孔子の名だたる弟子を列挙した「孔門十哲」にあやかったものだ。ただ、この手のリストアップの常として、必ずしも一定はしていない。江戸期より既に、選ぶひとによって多少の異同があったのだが、それでも其角を筆頭に、嵐雪、去来、丈草までは外せない。これに次ぐのが杉風、凡兆、さらに支考、荷兮か。また惟然、野坡などをその癖の強さゆえ好む人もいる。「おくのほそ道」で同行した曾良を加える人ももちろんいる。
 これらの門人たちがみな芭蕉の最後に立ち会ったわけではない。来られなかった者、来なかった者も少なからずいる。そこにもまた秘められたドラマがあったと想像すれば興趣は尽きぬところだが、芥川いこう、蕉門に材をとった小説・芝居・映画・ドラマの類は意外なくらい見当たらない。
 堀切実・編注の『蕉門名家句選』(岩波文庫)の下巻に附された解説によれば、直接間接に芭蕉の教えを受けた門人の数は全国に二千余名、うち名の通った俳人だけでもほぼ一割の200名にのぼるそうだ。この日、大坂南久太郎町御堂ノ前・花屋仁右衛門貸座敷にて師の末期を見届けたのは(つまり「枯野抄」のなかで描かれるのは)、其角、去来、丈草、支考、維然、そして木節、乙州、正秀、之道の九名である。
 まえがきで、「旅に病むで……」の句を書き取ったとある呑舟はなぜか居合わせていない(この人はむしろ之道の弟子で、つまり芭蕉にとっては孫弟子にあたる)。本作の中の芭蕉はすでに意識がなく、句を詠んだのはその前である。だから「旅に病むで……」は辞世の句ではなく、あくまで「最後に詠んだ句」なのだ(厳密にいえば、そのあと「清滝や波に塵なき夏の月」に手を入れて、「清滝や波にちり込青松葉」に改稿しており、これが生涯の最終句ということになろう)。
 これら九名は、確執を生じているってほどでもないが、やはり和気藹々ってわけでもない。お互い腹に一物ある。そんな彼らが、もはや垂死となった病床の師を前にしながら各々の自意識に絡め捕られてうじうじ、ぐずぐずと内面で葛藤を演じるところが一編の眼目なのだが、芥川本人は、




(……前略……)芭蕉の呼吸のかすかになるのに従つて、限りない悲しみと、さうして又限りない安らかな心もちとが、徐に心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰も明方の寒い光が次第に暗やみの中にひろがるやうな、不思議に朗かな心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまふ。彼は師匠の魂が虚夢の生死を超越して、常住涅槃の宝土に還つたのを喜んででもゐるのであらうか。いや、これは彼自身にも、肯定の出来ない理由であつた。それならば――ああ、誰か徒に䠖跙逡巡して、己を欺くの愚を敢へてしよう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑みを浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。――




 と描写される内藤丈草(作中では丈艸と表記)に自らを仮託したといわれている。あらためて漱石とのことに思いを致すと、なかなかに業の深い話ではある。