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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

akiさんからのコメント。20.04.11 + ぼくからのご返事。

2020-04-11 | 政治/社会


akiさんからのコメント


サブタイトル「世界帝国」
2020-04-10


 こんにちは。今回の返信では、色々考えながら書いては消しを繰り返していたので、またまた中国史関連ですw
 いつになったら経済の話ができるのやらw




>モンゴルについて


 色々見ながら考えていたのですが、


「モンゴルが残した『ワールドワイド』はチンギス・ハーンと軍事力のみ」という私の主張は、一部撤回します。
 上記に「平和と繁栄」を付け加えたいと思います。
 たとえその大部が軍事力に基づくものだったとしても、実際に存在した平和と繁栄を過小評価するのは公平ではない、と思いました。
 モンゴルによる平和・・・・「パックス・モンゴリカ」も、私が思っていたものよりも長期に渡ったようですね。
 中国においては、朱元璋の明に中原を追われたのが1368年。南宋滅亡後わずか90年。それ以前にも内紛と紅巾の乱によって支配はガタガタとなっていました。西方の各ハン国においても分裂・抗争によって平和な状態ではなくなっていましたから、実質的な「パックス・モンゴリカ」は数十年、というところでしょうか。それでも、地域的には政権が続いたところもあり、その残影は20世紀まで残り続けていたところもあったようです。


 ただまあ・・・・個人的な感想を述べるなら、やはり私はモンゴルが残したものよりも中国文明の方がはるかに上だと思います。
 私がモンゴルの歴史から学び感じ取るものがあるとすれば、それは「盛者必衰」の四文字のみ。
 フビライなど面白い人物もいるにはいるのですが、そもそもチンギス・ハーンにあまり魅力を感じないんですよね私は。
 それに対して、中国史からは、とてつもなく多くのものを学び、感じ、感動して日々を過ごしています。これはもちろん、日々触れていることによる「親近感」の部分も大きいでしょうが、それだけではないと思います。
 モンゴルの影響力はその大部を軍事力に依存していたために、軍事力が衰え失われると共に分解して消滅していきました。それに対し、中華文明の影響力とは「文明と文化」の力です。その影響力はたとえそれを担う漢民族の民族構成が変化し、あるいは消滅し、軍事力が失われても消えることなく、日本のような他民族にも連綿と受け継がれています。「中華文明は中原の領域に限定される狭い文明圏に過ぎず、世界を支配したモンゴルの方がはるかに優れている」のような論調には、全く同意できません。というか、アンタホンマに学者なのかと。学者のくせに軍事力を尊奉して、文化の力を過小に見るのかと。目が曇っとりゃせんか、との思いは変わりません。


 ついでに言うと、モンゴルは「史上空前の世界帝国」ではありましたが、「史上最初の世界帝国」ではありません。
 アッシリア帝国、ペルシャ帝国、ローマ帝国、アラブ帝国、唐帝国など、時代と状況に応じて「ワールドワイド」な帝国は存在しました。大モンゴル帝国の成立をもって「世界史の成立」とすることも、モンゴル史家の傲慢だと思います。




>「世界を変えた最強の戦闘指揮者30名」


 柘植久慶氏の文章は私もいくつか読んだことがあります。傭兵としての実体験から出る戦術・戦略論には見るべきところがありますが、歴史研究者というわけではないので、そこは差し引いて見るべきかもしれません。それにしても、「世界を変えた」か・・・うーむ。
 ヴァレンシュタインは卓越した組織運営力・戦略眼・指揮能力を備えた名将ではあるのですが、世界を変えたかどうかは疑問ですね。その括りで見れば、彼のライバルであったスウェーデン王グスタフ・アドルフ2世の方が、その後19世紀まで受け継がれる「歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦術」を完成させ、当時の戦場で無敵を誇った戦闘方陣「テルシオ」を破ったことで「世界を変えた」と言えるかもしれません。グスタフ・アドルフ死後のヴァレンシュタインは精彩を欠き、結局わずか二年後に皇帝によって暗殺されてしまうし。「狡兎死して走狗烹らる」の典型例です。
 項羽もなあ・・・・彼が「中国史上最強の武人」の候補に挙げられるほどの超絶的な指揮官だったことは疑いありませんが、「結局歴史を変えられずに敗北した悲劇の人」だし。秦の名将章邯を破って秦にとどめを刺したのはこの人だけど、その仕事の基礎固めは叔父の項梁がやったことだし。
 中国の歴史を動かした、という意味では、少し時代をさかのぼって秦の白起を挙げるべきなんじゃないかなあ。趙との間で戦われた長平の戦いが有名だけど、それ以外にも韓・魏・楚などを攻めて多分100万くらいの敵兵を殺してる。秦の天下統一を軍事的に決定づけた人。まあ私は好きな人物ではないですけどね。




ぼくからのご返事


サブタイトル「世界帝国。ほか。」
2020-04-11




 日頃の不勉強がたたって、今回のご返事は難渋しました。




 経済のお話も心待ちにしておりますが、今やっている話も、たんなる机上の知的ゲームではなく、現在われわれの置かれている状況をリアルに反映していると思います。とはいえこのやりとりは、ぼくにとっては、有段者と将棋を指しているような快い緊張感ですが。




 杉山さんにも岡田さんにも與那覇さんにも(この方はそもそも歴史学者ではないですが)楊さんにもそれぞれ立場の違いがあって、一緒くたにするのはまずいので、ここでは楊海英さん(肩書は「静岡大学人文社会科学部教授」です)を想定して述べますが、必ずしも「モンゴル族中心主義」にかられて「漢民族」を貶めているわけではなく、往々にして傲岸不遜となりがちな「中華主義」を批判して、どうにかして相対化すべく努めてらっしゃるのでしょう。とうぜんそれは今日の中国共産党が他民族に取っている仕打ちへの批判にもつながるわけで、『逆転の大中国史』は一読に値する本だと思いますよ。




 前にも書きましたけど、「中原サイド」の中国文化が後世に多大なる影響を与え、今読んでなお面白いのは、残された膨大な漢籍の為せるわざであって、それはあたかも戦後ニッポンがハリウッド映画(今ならばネットフリックスなんかも含むのでしょうが)を通じてアメリカに深く親しんできたのと似てるんじゃないかなあ。それが文化ってもののパワーであって、もし仮に「草原サイド」の知識人たちが自分たちの所業を思想や文学や史書のかたちで書物化できていたならば、それだけでぼくたちの知っている「歴史」は大きく書き換えられていたでしょう。それはまた、他の文化圏においてもいえることだと思うのです。
 いやその「膨大な書物」こそが「文化」じゃないかと言われたら、それはそうなんだけども、科学技術とか政治体制とか経済活動とか法制といった分野に関して、たとえばイスラーム圏の国々なんかも、けっしてひけをとってはいなかった。ぼくたちの興味はとかくヨーロッパや中国といった「有名どころ」に偏していて、ついつい他の文化圏を疎かにしてしまいがちだな、と自戒をこめて思う次第です。




 「世界帝国」の定義を、
 ①広大な領土
 ②他民族支配
 とするならば、たしかに最初にその称号に値するのはアッシリアですね。いま、帝国書院の『最新世界史図説 タペストリー』(15版)をかたわらに置いてるんですが、ぼくなんかが学生の頃よりずっと綺麗で見やすくなってて、眺めてるだけで楽しいです。
 図版を巻頭から順に見ていくと、文字どおり一目瞭然ですけども、これによると、
 BC10~BC7世紀……アッシリア
 BC6~BC5世紀……アケメネス朝ペルシア
 BC4~BC3世紀……アレクサンドロスの帝国
 という流れになります。むろん、人口がだんだん増えていくんで、あとになるほど拡がりますが。
 で、この「アケメネス朝ペルシア」こそが、真の意味での「最初の世界帝国」と呼べるかもしれません。
 この王朝のダレイオス1世は、「道路」「言語」「行政機関」「通貨」「農政」などを整えたんですね。のちのアレクサンドロスは、ほぼこのアケメネス朝ペルシアの達成した版図を基盤にして拡張したといってよいそうです。




 版図の大きさだけでいうならば、ローマ帝国はもちろん、その同時代のササン朝ペルシア、それらが滅んだのちには、7世紀のウマイヤ朝、8~9世紀のアッバース朝なども相当なものですけど、13世紀のモンゴル帝国が際立っているのは、やはり広域にわたる経済圏をつくりあげたところでしょう。
 これは上念さんの説にも通じるんだけど、<銀>をいわば基軸通貨として流通させた点が、今日の視点から、ことのほか大きく評価されてるようですね。それはやはりグローバリズムの趨勢にかなった新しい歴史観/歴史像なのであろうと思うのですが。
 チンギス・ハーンにはどうしても血なまぐささが付きまといますね。孫のフビライに至ってようやく熟してくる感じです。前回ぼくは「モンゴル帝国は航海技術をもってなかった」と書きましたが、これは誤りで、ちゃんと海路も開拓してました。ぼくの認識もまだまだザルです。ひきつづき勉強しようと思います。
 明と並行して中央アジアに版図をもっていたティムールは、永楽帝との決戦をもくろんでいたそうですが、遠征途上で病死しました。このあたりの絡みも、もっと突っ込んで調べたら面白そうです。




 『世界を変えた最強の戦闘指揮者30』(PHP文庫)は、たしかにこのタイトルですが、「世界を変えた」は保険の定款なみに小さいポイントで印字されていて、実質は『最強の戦闘指揮者30』です。たぶんこれが本来のタイトルで、それだけだとインパクトに乏しいので、編集者が「世界を変えた」を附したんじゃないかと思います。学術書とかだったら考えられないことですが、なにぶんPHP文庫なんで……。
 じっさい、いかに軍略の天才とはいえ、志半ばで斃れた項羽が世界を変えられるはずがありませんわな。
 なお、「北方の獅子」ことスウェーデン王グスタフ2世・アドルフも、ヴァレンシュタインと並んでリストアップされてます。それにしてもakiさんはあれですね、軍事史というか、そっちの話もそうとういけるクチなんですね。たいへん面白いので、またあれこれ語って頂ければと思います。







akiさんからのコメント。20.04.09 + ぼくからのご返事。

2020-04-09 | 政治/社会
 前回以降のやり取りをまとめて、ぼくからのご返事を添えてアップします。


akiさんからのコメント
サブタイトル「お返事」
2020-04-07


 こんにちは。昨日記事が上げられているのを拝見して早速お返事を書いていたのですが、いざ投稿ボタンを押すと記事アップに失敗してしまいましてw
 こういう時に限って文章を保存してなかったもんで、涙を呑んで書き直しました。


 まあちょっと表現が過激なところもあったかな、と思いましたので、推敲の機会を与えてくれたのだと思うことにします。(^^;




>「王および王佐の臣」の理想像として描いた麗しい寓話


 なんとなく、そういうご感想だったのかな、と予想してました。
 今回の管仲の話が本当にあったことかどうかを証明する手段はありませんので、私は今回の管仲の話が「歴史的真実である」と主張するつもりはありません。というか、それははっきり言ってどうでもいいです。「古典」の価値とは、「それが事実であるかどうか」ではなく「そこから自分自身が何を汲み取れるか」にあると思っています。『よりもい』のめぐっちゃんに心動かされたように、私はこの話の中の管仲に魂を揺さぶられました。その感動をこそ、eminusさんに聞いていただきたかったのだと思います。




>上念司氏について


 あの方のお話は金額の桁が文字通り違うので、無類の面白さと同時にうさん臭さを発散していますよねw
 ああ、中間納税・・・・確かにあったなあその話題。ただ、私自身が「中間納税」とは何のことかわかってないので、華麗にスルーしてましたw
 昨日安倍さんが「108兆円経済対策」を発表して、岸田案よりは大幅に規模が大きくなってはいますが、さて「真水」部分がいかほどあるのか。現状ではあまり期待できなさそうなんですよねえ・・・・。
 8年前に第二次安倍政権が発足したとき、新経済政策としてぶち上げた「三本の矢」の第一番目が「異次元の金融政策」(※今ホームページなんかを見ると「大胆な」という文言になってますが、当時はこう表現していたと記憶してます)で、日銀が市場に資金を供給することでインフレに誘導しようとしましたが、結局目標を達成できないまま今に至っています。そんなわけで現在はかなり強いデフレ基調の経済なので、多少お金を刷って市場に供給しても余裕は十分ある。年2%ほどのインフレ基調の経済状態の方が、人々の「貯めといてもお金の価値が下がるばかりだから、今使っちまおうぜ」というマインドを喚起して経済が活発になるので、むしろお金をバンバン刷って市場に回すべきだ、というのが上念さんの考え方ですね。
 私も基本的には上の考え方に賛成です。やりすぎは禁物ですが、今はそっちを心配する局面ではない。
 まあとはいえ、ほんの数年前までは、私自身も「財政健全化賛成派」でしたし、消費増税にも基本的に賛成でした。あまり他人のことは言えません。多くの論客の方の言によって蒙を啓かれた、というのが正直なところです。




>Zとは「とにかく絶対、日本国民を豊かにはしないぞ!」をどういうわけか至上命題にしている謎の機関


 これに関しては、私の考えは少し、というかかなり違います。
 バブル経済崩壊以後、政府の「無意味な公共投資」が連日のように報道されて国民から総叩きにあい、また官僚などへの「過剰な接待」や「天下り」など、政府と霞が関の金にまつわる問題がクローズアップされました。その結果、「税金の無駄遣いはご法度」という意識が定着し、現在はそれなりに厳しく支出について吟味されるようになりました。(それでも「法律の穴」というものはあるものですけど)


 それそのものは正しいことだったと思います。何しろ国民から預かった血税なのですから、使い道を厳しく吟味・監視することは当然のことです。
 ただしそのことが、政府の収入と支出を管理する財務省に、ある種のトラウマというか使命感を植え付けてしまった。すなわち、


「国民から預かった税金を管理し、守っていくことこそ我が使命。人気取りのために何かとお金を使いたがる政治家の手綱を取り、財布のひもを締めて貯蓄を増やし、政府の財政を健全化させることこそ、我らが国民の負託に応える道である。どれほど批判を浴びようと、それこそが公僕としての我らの正義である」


 という美学です。
 特権意識に胡坐をかく狭い世界で、上のような美学に酔うあまり、「政府が貧しくても国民が豊かになれば、結局国家は健全に運営されていく」という「財政の基本のキ」を、彼らは忘れているのです。
 前のコメントで、「あいつらは頭が硬い」と私が申し上げたのは、そういう含意です。
 その意味でも、「新しい風」を入れることは必要だ、と私は思うのですね。




>「漢民族」なんて概念そのものがフィクションであり、これまで「異民族」とみなされていた側こそが主人公なんだから、そちらの側から「中国史」を書き直すべきだ


 その前の部分に書かれていた、「「ユーラシア」の側から「シナ」の歴史を捉え直そう」という部分に関しては、有意義で興味深い視点だと思いますが、このお言葉に関しては、「それはいくら何でも暴論では?」と言わねばなりません。
 私はその本をそもそも読んでいませんので、主張の詳細を知ることができません。飽くまでこのeminusさんの要約から受ける印象のみを基に述べることをお許しいただけるなら、という但し書きつきではありますが。


 これをたとえて言えば、
「アメリカなんて移民の国でしかなく、そもそも『アメリカ人』などというものは存在しないんだから、「アメリカの歴史」もそこに移民を送り込んだイギリスなどのヨーロッパ諸国、中国ベトナムなどのアジア諸国、さらに大量に奴隷として連れてこられた黒人の歴史として書き直すべきだ」
 という主張と同義ではないでしょうか。
 アメリカ合衆国は確かに移民の国ですが、国籍を取得するに際し星条旗に対し宣誓して「アメリカ国民になる」わけです。自分のルーツである民族のアイデンティティを保持しつつも、彼らはアメリカ国民になり、アメリカ合衆国に対して忠誠を誓います。それを「アメリカ人」と呼ぶことに何の誤りがあるのでしょうか?


 同様に、漢民族はその成立過程からして様々な民族の混交体であり、その後の歴史の過程でも常に異民族の血を受け入れ遺伝子的には混血してきました。その意味で、大和民族のような「単一民族としての漢民族」が幻想であることは確かです。が、それが「漢民族などフィクション」という結論につながるとは、私は全く思いません。
 紛れもなく、「漢民族」は存在します。それは「大和民族」と同等の価値を持つ民族として、です。
 なぜか。答えは簡単です。
「彼ら自身が「我こそは漢民族」というアイデンティティと自負を持ち、過去から連綿と続く文化を継承しているから」です。
 私はこの「文化の継承」と「自負心」こそが「民族」を決定する第一条件であり、「血統」は二の次だと思います。
 たとえて言えば、この日本にも元外国人の方で日本に帰化された方々がいらっしゃいます。かれらは血統は大和民族のものではありませんから、「大和民族である」とは言いにくいですが、では彼らの子ども、孫はどうでしょう。
 日本人の中に溶け込み、自らも「ルーツは日本人である」と思い、日本の文化を継承してくれる人たちであるならば、彼らは日本人です。あえて「大和民族かどうか」など、論ずるに値しません。
 さらに世代が進んで五世、六世ともなれば、最早「大和民族の一部」と呼ぶことに何のためらいがいるでしょうか。


 前のコメントにも書きましたが、日本は島国であり、「大和民族」と言えばほぼ単一血統民族であるため(古代の渡来人の血統については諸説ありますが、ここでは議論しません)、この「血統」を重視しすぎるきらいがあります。が、その常識を他国にも当てはめようとすることは、重大な錯誤を生み出すと思います。




 ・・・・まあやはり、中国史が絡むとどうしても熱くなってしまいますね。極力論調を抑えようと努力はしたのですがw
 これでもまだこの問題については言い足りない部分がありますが、すでにかなり長くなってますので、いったんここでやめておこうと思います。



ぼくからのご返事 その1
サブタイトル「とりあえず中国関連のご返事を。 」
2020-04-07


 話題が多岐にわたってるんで、とりあえず中国関連のほうをやりましょう。


 「愚公の谷」(仮題)のエピソードのもたらす感動を共有できなかったのは遺憾ですが、なにしろこれまで「管仲」という方にまったく馴染みがなかったんで、いうならばまあ、知らない人がいきなり脇からわっと出てきた塩梅なんで……あっ、この「塩梅」ってのも中国の故事からきてるようですけども……、そこはご勘弁のほど。でもちょこちょこ調べてみて、それなりに親しみがわいてきましたよ。管仲さんにも桓公にも。
 『説苑』という書物の存在もこのたび初めて知ったんですが、家にある本をかき集めたなかに、自由国民社から出た『中国の古典名著・総解説』というのがありまして、むかし古本屋で見つけて買ってほったらかしにしてたんですが、埃を払って読んでみたら、この項目がありました。劉向という人は儒家なんですね。
 「人を諭し、説得するための説を集めたもの。君道・臣術・健本・立節・貴徳・政理などテーマ別に20巻に分かれ、天子を諫めることを主たる目的とする。内容は、人君たるもののありかた、臣下たるものの心得、一般的な処世訓、の3つに大別される。」
 との解説があって、いくつか挿話が紹介されてます。
 残念ながら桓公・管仲のものはなかったんですが、夏王朝をひらいた禹と、楚の荘王のエピソードが載ってます。荘王のやつは後にいろいろ翻案されてますね。太宰治にもあったんじゃないかな。
 いずれも名君が蒼氓(そうぼう)や臣下を温かく、かつ濃やかに思いやる話で……「仁恕」っていうんでしょうか、西欧でいえばプラトンの「哲人政治」とか、哲人皇帝と称されたローマのマルクス・アウレリウスなどが思い浮かぶところですけども、人民の頂点に立つものが骨身に沁みてもっておくべき心のありようを的確にあらわしたエピソードであることは、もちろんよくわかります。
 だけどいざ現実に目を転じると、そのギャップってものがあまりにねえ……。




 『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』(文春文庫)の著者・楊海英さんはモンゴル出身なんですよ。だからこの本そのものが、歴史書とはいえ「政治的」かつ「挑発的」なものであるのは間違いないですね。
 冒頭の一部を引用しましょう。


 いわゆる「中国史」に対して、モンゴル出身の私は少なからぬ違和感をおぼえてきた。
 曰く、古代より広大なアジア大陸に、ほかとは隔絶した高い文明をきずきあげてきた「漢民族」(この「漢民族」についての誤認識の数々については第一章でくわしくのべる)。その豊かさゆえに、しばしば北方から、戦争はつよいが、「野蛮な」遊牧騎馬民族が襲来し、一時的にはかれらが支配者となるが、圧倒的な漢文明によって「漢化=文明化」されると、アイデンティティをうしなっていく。かくして王朝の主はかわりはするが、偉大な「中華文明」のかがやきは普遍的かつ不変のものとしてうけつがれてきた。
 ざっとこんなストーリーだ。中国人ばかりか、日本人のあいだでも、大枠でこうした「中国史」をまなんできた人は少なくないのではないだろうか。
 しかし、こうした「中国四千年の歴史」は、いわば中国人の天真爛漫な願望や空想をのべたものにすぎず、実際に、あの地域(以下シナ地域とよぶ。なお、シナという言葉の使い方については第二章参照)でおきた歴史とはおおきくことなっている。
 (……中略……)
 さらにいえば、「ユーラシア史」という観点からすると、「中国史」が蛮族と位置づけてきた遊牧民が、東はシベリアから西はヨーロッパ世界にまでひろがり、文化的・人種的にも混じりあい、世界史をうごかしてきたのに対し、「漢文明」がひろがりえたところは、華北と華中のいわゆる中原を中心としたローカルな地域にとどまっていた。そもそも現在では中国でもっとも経済的に発展している南部の長江(揚子江)流域でさえ、五世紀の南北朝時代になって、やっと本格的な開発がはじまったほどだった。「漢文明」は普遍的な世界文明のひとつというよりも、ローカルな地域文明だと考えたほうが実態に近いのではないだろうか。




 ざっとそういう趣旨なんですね。「漢民族という概念そのものがフィクションだっ!」とまでは、もちろん、この方は書いておられません。そこは私の粗っぽすぎる「超訳」ですが、超訳ついでにいうならば、「周縁」に生きる知識人として、「中心」に居座って傲岸にふるまう人々に対して、「お前ら正系ぶってるけど、元をたどれば結構いいかげんじゃねえか!」と言いたがってるようには感じますね。あくまでぼくの感想ですが。
 もうすこし真面目にいいますと、いわゆる「草原の民」の側から中国史を……というか世界史を読み直そうというのは、べつにこの本の独創ではなく、いまの歴史学にとってはわりと定跡みたいですね。杉山正明氏の『遊牧民から見た世界史』(日経ビジネス文庫)や岡田英弘氏の『世界史の誕生』(ちくま文庫)などがそうです。
 もちろん、だからといって、いわゆる「漢民族」の遺した豊穣な「文化」の偉大さがいっかな揺らぐものではないことは、今回のご返事の前半部からも明らかですが。



ぼくからのご返事 その2
サブタイトル「それでは経済のほうを。 」
2020-04-07


 それでは経済のほうを(……いや、よく知らないんですけどね)。
 108兆円のうち、真水は16兆円と上念さんはいってますね。今回のは「景気浮揚」のためのばら撒きじゃなく、非常事態において、当座を凌ぐための「還付」なんだから、これでは話になりませんな。
 「一世帯30万円(大嘘ですが)」も、手続きがむやみな煩雑なうえに抜け穴だらけという愚策で、誇張ではなく、文字どおり「やらないほうがまし」というやつでしょう。


 Z団については、知り合いがいるわけではないし、どこまでも伝聞に基づく想像なので薄っぺらい話になっちゃうんだけど、さすがに「過剰な接待」は今はやってないかもしれないけれど、「天下り」は相変わらずやっている、というか、それこそがZ団の本質(のひとつ)だと私は思ってますけどね……。
 ぼくがいっても説得力がないですけど、高橋洋一さんも同じことを(とうぜんもっと詳しく緻密に)述べてらっしゃいます。
 ネット上から引用させていただきます。




増税を主張する官僚の本音 資産が「天下り」に使われている現実
2019年03月04日 公開
高橋洋一(嘉悦大学教授)


※本稿は、発売中の高橋洋一著『「消費増税」は嘘ばかり』(PHP新書)より抜粋・編集したものです。




増税よりも政府のスリム化が先
日本の財政は基本的には問題ありませんが、資産と負債の圧縮によるスリム化を阻んでいるのは、天下りを狙っている官僚たちといわざるをえません。「借金がこんなに多い」などというのは完全なまやかしであり、政府関係機関を完全民営化すれば、借金は大幅に減らせます。


私は日本の財政状況は大丈夫だと考えていますが、それでもなお「財政健全化が必要だ」と主張するのなら、「消費税の増税」をやるよりも前に、まず「政府の資産で売却するものは売却し、民営化できるものを民営化する」ことによって、政府のスリム化をすべきではないでしょうか。「財政健全化のために消費増税をする」のはそれからのことでしょう。


財務官僚以外の誰が考えても、順番がおかしいといわざるをえないはずです。


政府関係機関の民営化への抵抗がいかに強いか、私は身をもって経験しています。


私は財政投融資のALM(アセット・ライアビリティ・マネジメント、金融リスク管理の手法の一つ)システムをつくる際、日本政府のバランスシートを作成しました。そこで日本政府だけが資産、負債とも突出して多いことを把握しました。


しかしこの資料を幹部に見せて「資産を売れば財政問題は解決します」というと、「高橋、これだけはやめてくれ」という。


理由を尋ねると「国家運営上、このくらいの資産は必要だ」というので「こんなに資産をもっている国はほかにありません。他国は資産を売っても十分、国家運営ができています」と答えました。


すると、日ごろは国際比較が大好きで「こんなに日本は遅れている」といっている人が、今度は「わが国は違う」と言い出すのです。


資産と負債の圧縮は簡単です。政府関係機関を完全民営化すれば、出資金を回収できて関係機関への貸付金も必要なくなるため、負債を減らして資産、負債ともに小さくすることが可能です。


小泉改革で郵政民営化を行なったあと、経済財政諮問会議で資産圧縮の方針を出したところ、財務省だけでなく、各省庁が大騒ぎになりました。


各省庁は、政府関係機関の保有は政策目的だ、といっていました。しかし政策目的は他国にもあるから、この論法が正しければ海外にも同様の政府関係機関があるはずです。


ところが現実には、日本のような国はありません。幹部は「郵政民営化までは許すが、これだけは駄目だ」という。残念ながら、結果として政府関係機関の民営化はほぼすべて潰されました。


これほど抵抗が強いのは、各省庁が政府関係機関をコントロールし続けたいということで、天下りの生命線でもあるからです。


普通の国であれば、負債が大きくならないように資産を売って負債を返し、資産と負債の両方を圧縮していく。これがスタンダードな考え方です。


ところが日本の場合、資産も負債も膨張したままで、資産に手をつけようとしない。


日本の純資産は「資産220% - 負債238%」=「対GDP比マイナス18%」。ドイツ、カナダ、アメリカよりは純資産額が少ないですが、フランス、英国、イタリアよりは純資産額が多い。


であれば、「まず資産を売って負債を減らす」のがバランスシートを保つための優先策のはずです。


では、なぜ日本の(財務省の)常識は違うのか。財務官僚が愚かで、会計の基本に気付かないからではありません。何よりも財務省が「資産」を抱え込むことが、同省の官僚に大きなメリットをもたらしているからです。


そのメリットは、「天下り先の確保」です。政府資産の大半は金融資産で、天下りに使われているものです。したがって資産の売却は天下り先を減らし、官僚の人生設計に狂いを生じさせます。彼らは自分の再就職先を守るため、「資産は売れない」と異を唱えているのです。


<引用ここまで>






 結局こういうことだと思いますね。日本という国そのものよりも、自分たちの利権が大事なんですね。おっそろしい話だけども、これが事実なんだと私は思っております。




 90年代半ばくらいまではマスコミがさかんに「天下り」を糾弾してまして、それがふっつり途絶えたもんであたかも無くなったように感じますけど、あれは新聞社や放送局がいろいろと弱みを握られて、糾弾ができなくなったんですね。そのかわりに、Z団みたいな高級官僚ではなく、一般の「公務員」に非難の矛先をマスコミは転じたわけです。それを最大限に利用したのが小泉純一郎氏で、その地方版が橋下徹氏だとぼくは考えています。



akiさんのコメント
サブタイトル「勇み足でしたね^^; 」
2020-04-08


 こんにちは。昨日の夜、中国関連のお返事を先に拝見して返事を考えてましたので、まずはそちらについて。


>管仲について


 これは結果的に、「私の書き込みがeminusさんを中国古典の世界に引きずり込んだ」ということになるのでしょうかw
 それはそれで私個人としては喜ばしいことですが、eminusさんには要らぬご負担をお掛けしてしまったようです。ここに至ってようやく、「やはり勇み足だったかな」と反省しております。
 もう少し心の構えを下げて、ゆっくり行こうかいなと思いました。(^^;


 禹王の逸話というと、黄河を治めるために奔走した結果、ついに足が動かなくなった、ということくらいしか私は知らないですね。まあこれはほぼ、戦国時代に想像された伝説であろうと思いますけれども。「王としての理想像」がそこに表れていることは確かです。
 楚の荘王の逸話で「臣下を思いやった」ものと言えば、「絶纓(ぜつえい)の会」のお話でしょうか。私としては「鳴かず飛ばず」の故事が好きですが、この人は紛れもなく名君なので、そういった逸話に事欠かない人です。


 「現実に目を転じると・・・」というのは、恐らくいつの時代、どこの国でもそうなのだと思います。現実が理想に追いつくことはありません。ですが、現実を理想に近づけるために努力することはできるわけで、それこそが「人が生きる」ことなのだと思っています。
 だからこそ、古典は現代人にとって必要なのです。・・・eminusさんなら、そこは「神話は」とおっしゃるかもしれませんね。(^^)




>『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』について


 今回のご説明で、かなりの部分は得心できました。引用いただいた前文の中の、


『しかし、こうした「中国四千年の歴史」は、いわば中国人の天真爛漫な願望や空想をのべたものにすぎず、実際に、あの地域でおきた歴史とはおおきくことなっている。』


 の続きをこそ、ぜひ聴きたいところですが、全体に受けた印象をぶっちゃけるなら、「ひがみ根性から出てきた強がり」に見えてしまいましたw
 モンゴルが残した「ワールドワイド」って、チンギスハーンと軍事力以外に何かありましたっけ・・・・?
 ユーラシアの東西を連結したことは歴史的偉業と言うべきですが、それとて「卓抜した軍事力」抜きには成し得なかったことでしょう。


 中華文明が残したものと言えば、「紙」一つを挙げるだけでモンゴルの影響力を数倍数十倍の規模で塗り替えるものです。
 その他、孔子による儒学、三國志などの文学、孫子の兵学、中国が国家事業として漢訳した仏典など、東アジア地域の文化に与えた影響の大きさは計り知れません。そのうちのいくつかは、現代においても西洋の言葉に翻訳され、影響力を広げていると言って間違いではない。
 まあ現代中国の影響力は負の側面が大きすぎて、大いにケチがついてしまいましたが。


「私情が入ると目が曇る」のは学問の世界においても真理でしょうね。




 経済については、今夜か明日にでもお返事を書かせていただきますね。(^^)



ぼくからのご返事
サブタイトル「『漢民族』と遊牧民。 」
2020-04-08




 「結果的に」というか、ストレートに、直截に、もろに影響をこうむってますね。でも、「引きずり込まれた。」というのは烏滸がましいかな。なにぶん奥が深すぎるんで、「ざっと表面をかい撫でしている。」といったところでしょうか。ほんとに入門書・啓蒙書の類を読んでるだけです。
 この国で文学をやってて、「中国の古典のことはよう知りまへんねん。」なんてのはありえないんですよね本来。だから「いつかはやらねば。」と思って、かき集めたら一山できるほどの本も買ってたんだけど、ろくに目を通さぬまま、いつしか腐海の底に沈んでいました。こういうきっかけを頂いて、それらの本がようやく日の目を見たわけで、感謝しております。


 『中国の古典名著・総解説』の「説苑」の項に載っている禹王のエピソードは、
「外で罪人を見かけるたびに、車を降りて語りかけ、涙を流した。側近が理由を尋ねると、『堯・舜の世には、ひとはみな堯・舜の心を自らの心とし、不義を犯すことはなかった。しかるに私が天子となってからは、人々はめいめいに自分勝手な心を抱くようになった。これが悲しまずにおられようか。』と答えた。」
 というものです。
 楚の荘王のものは、ご推察のとおり「絶纓(ぜつえい)の会」の逸話です。ここには「絶纓の会」とは書かれてませんが。なお、前回ぼくはこの翻案が太宰治の作品にあったはずだと書きまして、あとで調べたら、『新釈諸国噺』の第一話「貧の意地」がそれだったんですが、直接の元ネタは井原西鶴で、そんなには似てなかったですね。「翻案」ってより「アイデアを拝借した。」くらいかな。
 「鳴かず飛ばず」も含蓄がありますね。「佯狂」とは少し違うかもしれないが、「あえて愚者を演ずる。」というのは、ハムレットなども連想させて興味深いです。しかし王の賢愚が定かならぬ時に、臣下がこれを諫めるのは命がけだから、自分がそっちの立場だったらヤダなとは思いましたが。ともあれ、今更こんなこと言うのもアレですが、中国の故事は人生訓・処世訓であると同時に物語の宝庫でもありますな。史実と綯い交ぜになった豊穣なる物語の集積だと思います。
 では、どうして私のような物語マニアが今までこれに冷淡だったかと言いますと、ギリシア神話をはじめとする西欧の「神話≒物語」の類型に比べて、中国のそれはエロティックな要素に乏しいせいでしょう。エロティックというより、あきらかにモラリスティックですね。ぼくにとっての「神話」とは、官能性と不可分なんですね。




 で、『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』のことですが。
 前回の引用文のなかで(……中略……)とした部分には、そんなたいそうなことは書いてないです。akiさんには先刻ご承知のことが述べてあります。
 ……そうですね……岡田英弘氏の『世界史の誕生』(ちくま文庫)は、1206年、モンゴル高原北部の草原にて、多数の遊牧民の部族が集まり、モンゴル族の首領テムジンに「チンギス・ハーン」という尊称を授けて、自分たちの最高指導者に選出した。というエピソードで幕を開け、「これが『世界史』の誕生の瞬間だった。」とあります。なかなかに劇的な構成をもった歴史書です。
 そのココロは、それまで各地域に分かれてそれぞれに独自の発展を遂げてきた「文明圏」が、「チンギス・ハーン」の出現によって有機的なつながりを持つ時代に入った……ということでしょう。その余波は「ユーラシアの東西」に留まらず、まさに世界全体に及ぶわけです。ここでの「つながり」とは、「軍事的な侵攻」をも含むわけですが。
 その「軍事力」でいいますと、『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』には、


 中華思想の色メガネでみてしまうと、「遊牧民族の軍事力=野蛮で粗野で乱暴」というイメージがかたまってしまうが、実際にはおおきくことなる。「軍事力」とは、その当時の科学技術や社会システム、集団としての結束力、情報収集能力など多種多様な要素の総合体なのだ。たとえば、いま世界で最強の軍隊をもつのは疑いもなくアメリカだが、そのつよさを「野蛮だから」と説明する人はまずいないだろう。


 との一節もあります。こういった視点は、杉山正明さんの『遊牧民から見た世界史』(日経ビジネス文庫)にも通底します。
 コメントのなかでご指摘のあった「製紙技術」(ハード)をはじめ、「儒学」「文学」「兵学」「漢訳仏典」(ソフト)などのすべてにかかわることですが、いわゆる「中原」を中心とした「中華文化圏」の影響力は、「漢字」の力だと思うんですよね。「漢字」を持っているか否か。それが「漢民族」と「遊牧民」との決定的な相違であろうと。
 そういう意味で、「漢民族」の文化が世界史に果たした影響は絶大なもので、ギリシア哲学、ローマ法、キリスト教にも匹敵するでしょう。しかし遊牧民たちは、よりダイナミックかつダイレクトに、「世界史」を動かしたのだ、ということでしょうね。『逆転の大中国史 ユーラシアの視点から』もそうだし、『世界史の誕生』も『遊牧民から見た世界史』も、そういう発想で書かれています。





akiさんのコメント
サブタイトル「中国関連」
2020-04-09


こんにちは。あんまり時間がないので駆け足のご返事になるかと思いますが、よろしくお願いします。




>「感謝しております」


 こう言っていただけるのは有難いですが、ご負担をお掛けしたことは確かですので、以後は少し自重しようと思います。
 ・・・つっても多分またなんか書くんだろうなとは思いますがw




>モラリスティック


 官能的な話も嫌いではありませんが、私はその人の生きざまが鮮烈に表れているような話が好きですね。従って、「モラリスティックであるがゆえに中国古典を好む」というのとは、少し違うかもしれません。
 中国の古典では「個人の命の価値」が恐ろしく軽いですが、それは「公のため」という概念がそこにあるからで、「そういう概念に殉じる生き方を選んだ」ことがモラリスティックに映る、ということはあるかもしれません。
 まあでも私は西洋で言えばナポレオンとかアレクサンドロス大王とかも好きですし、特にアレクサンドロスはモラリスティックとは言い難いですしね。
 ああ、後西洋史ではアルプレヒト・ヴェンツェル・フォン・ヴァレンシュタイン。(ドイツの人なのでドイツ語読みするべきかもしれませんが、何となく英語読みで)あの人の混沌とした生き方は実に興味深いです。




>杉山正明先生


 実は学生時代に杉山先生の講義は受けていました。(笑)
 ただし私は不真面目学生だったので、授業は取っていましたが出席することはほとんどなく、何回か顔を出して試験を受け、ちゃっかり単位だけ頂いたという不届き者だったわけですが。(爆)
 で、その試験の題が「『世界史』という言葉の妥当性について論じよ」というもの。かなりうろ覚えですが、「『中国史』『ドイツ史』『フランス史』などそれぞれの地域で独立した歴史は存在したが、『世界史』と言える歴史が成立したのはモンゴルによるユーラシア征服以後のことである」という、正に今回の話題に連なる答えを書いて及第点を頂戴した記憶があります。
 まあ現在は、「『ドイツ史』も『中国史』も『世界の一部の歴史』ということで『世界史』と言ってもいいんじゃね?」と思ってますし、モンゴルとて東西ユーラシアを連結しただけで、インドやアフリカの大部分には力が及ばず、南北アメリカ大陸やオーストラリアはもちろん手つかずだったわけですから、それをもって「世界史の成立!」とぶち上げるのは烏滸がましいんじゃないかと思います。(※もちろん、「東西ユーラシアを連結した」歴史的意義の重大さは理解しています) 厳密な意味における「世界史の成立」は、イギリス世界帝国の成立を待たなくてはならないのではないでしょうか。


 モンゴルなど遊牧民族の軍事力が「野蛮」であるかどうかは、これまた意見が分かれるところでしょうね。科学的機能的に洗練された軍隊であったことは間違いありませんが、例えば使者を殺したサマルカンドを徹底的に破壊して住民を虐殺したことなど、「報復の凄まじさ」は正しく「野蛮な悪魔」と呼ぶにふさわしいでしょう。北中国を征服したとき、モンゴル貴族の一人が「全土を更地にして遊牧地とし、捕虜とした中国人は皆殺しにしよう」と言ったのを耶律楚材が押しとどめ、戸籍を作って中国式の税制を導入し、安定した収入を得た、との話もあります。(これは中国側の記録なので信憑性には疑問符がつくかもしれませんが)
 フビライは降伏してきた漢人武将を積極的に許して厚遇し、先鋒として使うことで征服の速度を上げていますが、これは中国式のやり方を導入した結果、と言えるでしょう。




 ああ、返事だけで早くもこれだけの分量に・・・・しかも時間切れですw
 経済についての返信はまた夜にでも。(^^)







ぼくからのご返事
サブタイトル「世界帝国。」
20.04.09





 モラリスティック(道徳的)と述べたのは、儒者の重んじる「仁」とは即ちそういうものであろう、と思ったからで、管仲さん自身は法家に分類されているわけですが、劉向さん描くところの管仲像には、そのような面が色濃く打ち出されている……と感じましたね。
 「公のために殉じる。」というのは、およそ近代的な「ヒューマニズム」からは敬遠……というか危険視されそうな理念ですけども、これは「道徳的」と言えるかな。難しいとこですね。ただ歴史小説などで読むぶんには、ぼくもその手のやつは好きです。司馬遼太郎さんの『項羽と劉邦』(新潮社)の中に、劉邦のことが好きで好きでたまらぬくせに悪口ばかり言っている紀信という屈折した男が出てきて、最後は劉邦軍を逃がすために囮となって、項羽を罵りながら火刑に処されるんだけど、なぜか忘れがたいですね。この人のばあい、「公に殉じた。」ってほどでもないですが、自軍のために「滅私」したのはまちがいない。


 軍人ってのはあけすけに言えば人を殺すのが職務なのだから、そもそも平時における道徳の理念が通じるのかどうか。信長は戦国乱世を収束させる道筋をつけたわけですが、そのかんにどれだけの殺戮をしたかと考えるとね……。これは現在にも通じる大命題だと思うけど、マイケル・サンデル先生はこのあたりを巧妙に回避しているように思います。
 それにしてもヴァレンシュタインとは渋い名前が出てきましたな。一瞬だれかと思いましたよ。この人から170年後くらいに生まれたドイツの偉大な劇作家/詩人のシラーが彼を主人公にした戯曲を書いていて(昔は「ワレンシュタイン」と訳されてましたけど。そんでぼくは読んでないですけど)、その件がなかったらピンとこなかったでしょう。改めて調べてみますと、興味深い人物ですね。傭兵出身の著述家・柘植久慶氏が「世界を変えた最強の戦闘指揮者30名」のひとりに挙げてます。ちなみにアレクサンドロス、項羽、チンギス・ハーン、ナポレオンもリストアップされてました。




 「不届き者」とご謙遜ですが、授業に何回か顔を出しただけで杉山学説の勘所を的確に掴み取り、模範解答をおつくりになったわけだから、それはたんなる要領の良さなんてものではないですね。
 あとで気づいたんですが、與那覇潤さんの『中国化する日本・増補版』(文春文庫)の67ページにこうあります。


 東西ユーラシア大陸にまたがる大帝国を築いたモンゴル軍団が、「野蛮な侵略者、文明の破壊者」であったというのは、実は当時のヨーロッパ人の記録に基づく単なる偏見で、むしろモンゴル帝国こそが<全世界的な市場統合の礎を築いたグローバリゼーションの原点>だったと見るのが、最近のグローバル・ヒストリー(大学では「世界史」のことをこう呼ぶ)の常識です。
 モンゴルが短期間にあれだけの広い地域を支配できたのは、自らの世界戦略に従う他の遊牧民を新たな「モンゴル」として次々に自部族に編入する一方、農耕文明に対しても<銀を国際通貨とする自由貿易>のルールに基づく<間接統治形式>をとり、現地の政権がその交易条件を飲めば万事安泰、むしろいざという時は蒙古騎馬軍団の力で守ってやる、反対に逆らう政権は徹底的に攻め滅ぼし、もって他勢力への見せしめにするという、短期決戦型の戦略を展開したからだといわれています。
 そう、たとえるなら、新移民を次々に自らに同化させ、強力な軍事力を持ちつつもそれを効率的に使用し、安全保障の供与とセットで自国主導の経済圏に世界を組み入れていく――<現在のアメリカ帝国の先駆>とさえいえる存在が、モンゴル帝国だったというのが、現在の東洋史学の見解です(杉山正明『遊牧民から見た世界史』)。


引用ここまで




 ぼくはこの『中国化する日本・増補版』という本に全幅の信頼をおいているわけではないですが、このくだりについては、ほかのいくつかの本と照らし合わせて、正鵠を得ていると思いました。前に名を出した岡田英弘氏の『世界史の誕生』も、そのような史観のもとに書かれています。


 このたびのコメントの中のサマルカンドなどの件は、引用文中の「逆らう政権は徹底的に攻め滅ぼし、もって他勢力への見せしめにする」の部分に該当するのでしょうが、ここだけ見ればそれはもう野蛮としかいいようがない。ただ、それが「通った後には草木も生えぬ。」といった類の劫略にとどまるものではなく、「自国主導の経済圏に周辺地域を組み入れて」いくためのプロセスの一環であって、結果として広域にわたる「平和」の状態をもたらした点で、前半で述べた信長の事例に通底すると思うのです(むろんこっちのほうがむちゃくちゃスケール大きいですけど)。
 ここまであからさまな残虐行為を伴わず、もう少し洗練されたかたちで広大な領域を版図に組み入れた点ではたしかに19世紀末から20世紀初頭の大英帝国は世界帝国の名にふさわしいですが(モンゴル帝国は航海技術をもってなかったですしね)、それよりも700年も前に「世界帝国」が成立していたという史観は、ぼくにはとても魅力的に思えます。







それでも、日本人は「戦争」を選んだ

2019-08-15 | 政治/社会



 

  名作アニメ『この世界の片隅に』が8月3日にNHKで放映されたせいもあってか、当ブログ内記事「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」へのアクセスが多い。あの映画を見れば、そりゃ誰しもがこの疑問を抱くであろう。そこでたとえば、「日本 アメリカ 戦争 なぜ」でgoogle検索すると、当該記事がいちおうトップページに出てくるわけである(いちばん下ですが)。


 ぼくも例年、この時期は『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)をひもといて先の大戦を偲ぶんだけど、前々から、ぜひ一冊の本を紹介したいと思っていた。加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。初版は2009年に朝日出版社から出ており、こちらも在庫ありなのだが、2016年に新潮文庫にも入った。文庫だから、よりお求めやすい価格になっている。


 東大で日本の近現代史を教える加藤さんが20名ほどの中高生および教諭を相手に日清戦争から太平洋戦争の敗北までをレクチャーしたもので、講義録に手を入れた稿でありながら、第9回、2010年の小林秀雄賞を受賞している。それほどの名著だ。ぼくのあの記事は太平洋戦争(ぼく個人は「日米戦争」と言いたくて仕方ないんだけど)開戦前夜だけしか扱ってないが、こちらの本は、上に述べたとおり日清戦争から説き起こしている。日本の軍隊(関東軍)が大陸に陣取ってたことが最大の要因なんだから、とうぜん、ここから説き起こすのが本筋に決まってるのだ。


 前に別の記事でも引用したが、あの立花隆でさえ、
「日本人はいまこそ近現代史を学び直すべきときなのである。日本の教育制度の驚くべき欠陥のために、現代日本人の大半が、近現代史を知らないままに育ってきてしまっている。
 私にしても、いちおう人よりは歴史に通じているつもりだったが、これ(『天皇と東大』の元になった連載のこと)を書きながら、どれほど自分が近現代史を知らなかったかを思い知らされた。そして、近現代史を知らずに現代を語ることの危うさを思い知らされた。」
 と述べている。すでに鬱然たる大家と見なされるようになった後の言である。立花さんでもそんななんだから、ぼくらレベルは推して知るべしだ。

 「日本の教育制度の驚くべき欠陥」はまったくそうで、たんに近現代史をまともにやらないってだけじゃなく、そもそも「軍事」にまつわる事柄の一切を黙殺してるんだからどうしようもない。すずさんのダンナが軍法会議の書記官で、義父が海軍航空廠の技師だったことからもわかるように、当時のニッポンは、経済活動から庶民の生活すべてが「軍事」と不可分一体だったのである。だから軍事のことを知らないと、近代史がまるで見えてこないし、ひいては、いまの日本もわからないって話になる。


 昭和が終わって平成も終わって令和になってなお一向に文科省はそんな歪んだ教育システムを是正する様子もないし、ここはやはり、自分で勉強するしかない。テキストとして「この一冊」というなら、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。たしかに粒ぞろいの優れた学生さんたちだけど、中高生がこの講義を理解できたんだから、私たちが尻込みしてたら情けないですよ。






「ハイテク社会と孤立」~akiさんからのコメント

2019-08-08 | 政治/社会
 折にふれてコメントを下さるakiさんから、7月27日の記事「ひきつづき、京都アニメーションへの放火事件について。」にご意見を頂いた。これが誠に素晴らしいので、ご了承を頂いたうえで独立した記事としてアップいたします。分量のこともあるし、そもそもコメント欄は、本編の記事が開かれぬかぎり来訪者の目にふれることがない。そんなところに押し込んでおくのはもったいない。
 とにかくこの文章、ぼくにはたいそう勉強になった。ぼんやりした考えに明確な形を与えられ、さらに先のビジョンまで提示してもらったというか……。ぼくは根が悲観的だし、じぶんの好きなことにしか関心がないので、どうしても意見が偏頗(へんぱ)になる。社会学的な分析として見ても、あきらかに、こちらのほうが本編の記事より充実しております。
 後半でAI(人工知能)の話が出る。ぼくは「人工知能が孤独なひとの友人や恋人になりうる社会がくるかも……」とばくぜんと夢想していただけだが、ここではもっと多面的に、「それが社会そのものをどう変えうるか」について、いろいろな可能性が想定されている。
 ただ、akiさんご自身も述べておられるとおり、これは「現代の病理である『孤立・孤独』を解決する手段」についての考察であって、「凶悪犯罪を防ぐ方法」についてのものではない(そこもまた独立した記事にする理由なんだけど)。それでこのようなタイトルにさせて頂いた。
 ほかに、ディスプレイ上での読みやすさを考慮して、文頭を一字ずつ下げ、段落ごとに一行あけた。あと、冒頭を一部カットして、最初の段落の一ヶ所だけ、すこし表現を和らげさせていただいた。「原文」のほうは、当該記事のコメント欄でみられます。
 それではどうぞ。


 まず、今回の事件についてですが、様々な環境要因はあったにせよ、原因の多くの部分は「本人の資質」にあったと思います。容疑者と同じような状況にある人は日本全体で何十万・何百万といるはずですが、彼らが全員犯罪者になるわけではありません。(その点で、テロと今回の事件は明確に分けて考えるべきだと思います)ネット上ではそこを混同して「オタク」「ニート」に対してひどい書き込みをする人が多く見受けられますが、これこそ人権侵害であり、他者への冒涜というものでしょう。そこは切り離して考えるべきだ、と私は思います。


 従って、私は「現代の病理である『孤立・孤独』を解決する手段」については考察しますが、「凶悪犯罪を防ぐ方法」については考察しません。その両者は全く別の問題であり、アプローチの仕方も解決策も全く異なるものであるべきです。
 ただし、今回や前回の記事でeminusさんが繰り返し書かれている通り、「孤立・孤独」という環境要因がもし今回の事件で取り除かれていれば、結果が全く異なったものになったであろうこともまた事実でしょう。その意味で、「孤立の解決」がもたらす副産物の重要な一つが、「犯罪の未然阻止」であることは確かだと思います。ですが、あくまで「副産物」であって、「主目的」と混同しては、問題の本質を見失うと思います。
 では「孤立の解決」の主目的とは何か。


 それは、「孤立から脱却して社会復帰してもらうことで、その人の自己実現につなげてもらう。それを通じて社会全体の雰囲気をよくする」ということだと思います。
 その観点から、以下、意見を述べさせていただきますね。


 「現代の病理」と衆目の一致する「孤立・孤独」ですが、これは歴史の必然によって生み出されたものだと考えます。
 つまり、「より便利に、手軽に、そしてより安全に」という目的によって進歩してきた科学技術や社会そのものが、現在「孤立」を引き起こしている第一要因になっているということです。


 たとえば、科学の発展により、人は家事の煩雑さから解放され、一人でもそれなりに生活を営めるようになりました。「男は外へ出て働き、女は家で家事・育児を行う」という社会的要請も希薄となり、男女の職能が平均化されたことで、別に結婚しなくても社会生活に支障は来しません。もちろん、現在の未婚者増加は、若年層の貧困化が主原因ですので、「科学の進歩によって未婚者が増加した」というのはいかにも短絡的過ぎますが、ともかく「何が何でも結婚するべき」というような社会的圧力はずいぶん低下した。いい年をした大人が一人で生活していても、別におかしいとは思われなくなったわけです。その結果、孤立していても「あれはあの人の自由」という感じで見逃されることが多くなった。


 加えて、流通・通信の進歩によって本社機能は都心に集中し、支社を多く持つ大会社であれば出向や出張も普通にあって、人々は進学・就職・結婚などの節目以外でも居場所を移動することが多くなり、「生まれた場所で死ぬまで生きる」ということが極めて珍しくなりました。社交的な人であれば、引っ越しした先の人々とも積極的に交流して親しくなることができるでしょうが、そういう人ばかりではない。昔であれば、近所の人とも自然に関係を築けたのに、今は「本人の努力」がなければ近所の人と交流することも難しい状況になりました。特に人の出入りが激しい都会において、この傾向は顕著です。


 さらに孤立の重要な要素として、「娯楽の進歩」があるでしょう。ネットにつなげれば、さほどお金をかけずとも様々な映像コンテンツを楽しむことができ、ゲーム・スポーツ・アイドル産業・お笑いなど、多種多様な趣味に応じたコンテンツが山のように存在します。さらに、SNSなどで個人が情報発信する手段も発達し、人間にとって本質的な「癒し」である「人とのつながり」を代替することもできる。その結果、一人暮らしであってもあまり寂しさを感じずに済むようになった。


 これらの変化は、「家事を楽にこなしたい」「居ながらにして世界中の文化に触れたい」等々の欲求に応えて、科学技術が飛躍的に進歩した結果もたらされたものです。そしてその結果として、他人の助けを借りずとも、他人と無理に関わらなくても生きていける社会が現出し、「ならば面倒な人間関係に煩わされずに生きていきたい」と考える人が増加した。実際、「孤立」とまではいかなくても、大なり小なりそう考える人は多いと思います。


 一方で、現代はストレス社会でもあります。
 これもまた、科学の進歩がもたらしたもの、と言っていいでしょう。すなわち、蒸気機関の発明以降、それまで人力・馬力によって行われていた仕事は機械に置き換えられ、人類社会全体の仕事能力は飛躍的に増大しました。この流れは現代でも変わっておらず、人々は単純な肉体労働の労苦から解放されましたが、代わりに頭脳労働が多くなり、高度に発達した社会インフラを維持するために神経を使う管理の仕事が増え、「頭の悪い奴は使い物にならない」社会になりました。人の可能性は多様であると言いながら、その多様性が社会的に報いられるのは上位のごくわずかなスペシャリストだけに過ぎず、ほとんどの人は画一的な価値観による序列を強いられています。すなわち、「学校成績の上位者が社会的な勝ち組となり、下位者は負け組となる」という価値観です。(ただしこれについては、現在の技術水準の社会においても大いに改善すべき点があると感じています。特に日本は、個人の技術や特殊な才能に対して報いることの少ない社会です。その考え方こそが「一億総中流社会」と呼ばれる豊かさを生み出したという側面もありますが、同時に若者の夢を摘み取ってしまっている側面もあります。アニメ産業のブラックぶりを見ても、その一端は垣間見えるでしょう)


 「現代社会のストレス」に関しては、非正規雇用やブラック企業など現代日本特有の症状もあり、政治的方策によって解決できる部分も少なくありませんが、ともかく昔であれば、力持ちや様々な技能を持った者など、「頭の良い者」でなくても社会で尊重されることは可能であったのに、それらの技能の多くが機械によって上位互換されてしまった結果、人間の評価基準がより単純化されてしまったのは確かです。


 そして、こういう社会の在り方に疑問を感じ、あるいは順応することができず、あるいは様々なストレスに打ち勝つことができずにドロップアウトしてしまった人たちは、社会から孤立したままでもとりあえず生きていくことができてしまう。一度そうなってしまうと、現状を打破すべく行動を起こすことは極めて至難であり、また現代日本社会にはそういうドロップアウトした人々を受け入れる素地がまだできていない。その結果、数十万、数百万と言われる「引き籠り」の人々ができてしまった。


 現時点でも、若年層、中高年層双方の雇用の創出・就労環境の改善など、やるべきことは多いです。が、一度引き籠りになってしまった人を社会復帰させるためにはそれでは足りない。今現在の各自治体の取り組みは、相談窓口を開設したり、就労支援センターを設置したりして「まず家から出るところから始めませんか」と呼びかけることなどですが、一度社会に出て失敗し、人間不信に陥った人々の心をこじ開ける作業は並大抵の苦労ではありません。
 また、最近はあまりメディアなどで取り上げられませんが、「高齢者の孤立」も依然として大きな社会問題です。(人口比率的にはこちらの方が大きな問題かもしれない)こういう高齢者のケアをどうするか、という問題もまた、現状は人力に頼らざるを得ず、根本的に有効な対策は打てていないのです。


 そこで、私が提出した「AI」という対策についてですが……。
 実はこれには、二つの意味があります。
①まず、社会インフラの維持・管理の仕事をAIに代替することにより、人々の仕事のストレスそのものを軽減する。
②執事AI(仮称)の開発により、人々の家事の負担をさらに軽減する。できれば汎用人型家事ロボット(仮称)を開発する。


 ①については、今現在AIのもたらす未来についての様々な考察が各所でなされていますので、私などがくだくだと言うことはないと思います。AIの普及によって人間の仕事が失われる、というネガティブな側面がよく強調されますが、コストの激減によって価格崩壊が起こり、あらゆる商品を入手しやすくなるか、あるいはベーシックインカムが導入されて将来の不安が軽減されるか、というプラスの影響も十分にあり得ます。


 ②は、主に独居高齢者を念頭に開発が進められる気がします。家庭内にセンサーを置いて住民を見守り、体調に異変があれば独自の判断で救急車を呼ぶ程度であれば、現在の技術でも十分に実現可能です。そこから発展して、高齢者の話し相手になったり、行政への書類提出などでのアドバイスや資料取り寄せ、各種商品の宅配依頼、日々の健康管理の助言などのできるAIの開発には、10年ほどかかるでしょうか。汎用家事ロボットができれば、高齢者の代わりに掃除や洗濯、炊事をしたり、町内会へ代わりに出席したり(これはさすがに無理か?)できるようになるかもしれません。個人的にはこの家事ロボットができればかなり有難いんですが、実現には30年くらいかかりますかねえ。(あ、私は専門家でもなんでもないです。勝手な想像ですので、この予想が外れる可能性はかなり高いです。できれば早い方向に外れてほしいw)


 科学の進歩の方向性は、今まで一貫して「より便利に」「より手軽に」「より安全に」そして「より楽しく」であり、これは人間の基本的な欲求に沿っていますので、これからも変わることはないでしょう。そういう方向性でAIの開発も進むはずですが、上記の機能の中でも「助言・会話機能」が、引き籠りの人にとって重要な意味を持つ可能性が高いです。引き籠りの人は、「他人」に対して不信感の塊になっていても、「道具」に対しては心を開く可能性が高いのです。彼らの多くがパソコンやスマホでネットに繋がり、SNSや掲示板で発言している状況を見ればそれは自明のこと。そしてAIとの会話の中で、社会復帰のための「リハビリ」を行い、すこし勇気を取り戻すことができれば、次はAIを通して他者(もちろんカウンセラーなどの他の人間です)とコミュニケーションを行い、やがて意を決して家を出て、少しずつ他者への耐性をつけ、新たな仕事に就いて社会復帰する・・・・。こんな感じで、私はAIを通しての社会復帰をイメージしています。


 肝心なのは、「癒しロボット(仮称)」という目的でロボットを開発しても、恐らくはうまく行かないだろうということ。人間関係でもそうですが、学校やサークル、仕事など、別の目的の下に集まった人々が、一緒に活動するうちにお互い理解を深め、友情を育んでいくように、道具でも別の目的を持って入手し、その副産物として「癒し」を得る、という在り方の方が自然なのです。……まあ、世の中にはストレートにそれ目的の道具も存在しますが、引き籠ってしまうような人々の気質は繊細ですから。


 さて、そんなわけで、私のイメージするAIは、「友人」や「恋人」と言うよりは「執事」「召使い」「メイド」「家政婦」的な存在なのですが、そういう存在との間に「友情」や「恋愛感情」が成立しないのか、というとそういうわけでもない、とも思います。実際、会話機能を持つスマホが発表されたときには、会話アプリのAIと「結婚したいねえ」という男性がニュースに出ていましたし、会話能力がさらに向上したAIであれば、そういった可能性も高まるでしょう。しかしeminusさんのおっしゃる「人の温もり」を持った、人間に限りなく近いロボットの開発となると、数十年で実現を見ることができるかどうか。まあ百年単位の年数がかかりそうです。肌のきめ細やかさ、滑らかな動き、微妙な表情変化などを実現するためには、まずは素材開発から進めなければなりません。「結局人体そのものが一番やんけ」と言うことで「生体ロボット」を開発するとなれば、今度は生命倫理の問題が立ちふさがるでしょうしね。
 この辺に関しては、過剰に期待せず、技術の進歩を楽しみに待つ、という姿勢でいいのかもしれません。



日本はアメリカに負けたのか。

2018-08-13 | 政治/社会
 8月になると必ず『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫 第1集・第2集)を読み返す。このことは毎年書いてると思う。
 2016年のブログをみると、

 ニッポンの夏は、とりわけ8月は本来、オリンピックでも高校野球の季節でもなく、ましてやポケモンGOに興じる季節でもなく、先の大戦を偲ぶ季節である。
 何よりもまずそれは、慰霊のため、鎮魂のための季節だ。旱天に鳴り響く蝉しぐれは、あれは無慮数百万の戦没者を弔う挽歌なのだ。
 ぼくは毎年、この時期になると岩波文庫の『きけ わだつみのこえ』を読み返す。広島にも長崎にも行かないし、靖国神社にも行かないけれど、ぼくなりの、それが慰霊ないし鎮魂の儀式なのである。

 と、かなりコーフン気味に述べている。『きけ わだつみのこえ』を読むと、どうしてもコーフン気味になるのである。
 きけわだつみのこえ? 何それ?という方もおられるかと思うので、長くなるけど、さらに続きも再掲しましょう。

 「きけ わだつみのこえ」は、あえて漢字で書くなら「聞け わだつみの声」だ。「わだつみ」とは、広辞苑には「わたつみ」として記載されているが、「海神」または「綿津見」と表記するそうで、読んで字のごとく「海の神」のことであり、さらにはまた、海そのもののことでもある。
 元ちとせの歌に「ワダツミの木」というのがあった。若い人にはそちらのほうでお馴染みだろうか。
 元さんには、「死んだ女の子」というショッキングな名曲もある。「ワダツミの木」は、やっぱり『きけ わだつみのこえ』が下敷きになっているのだろう。
(……中略……)
 この本の扉には、
 「なげけるか いかれるか  /  はたもだせるか  /  きけ はてしなきわだつみのこえ」
 と、どういうわけかすべて平仮名で、詩のごとき文句が記してある。
 漢字で書けば、「嘆けるか 怒れるか はた黙せるか 聞け 果てしなき ワダツミの声」だろう。嘆いているか、怒っているか、あるいはずっと沈黙を守りつづけるつもりなのか、それは定かでないけれど、それでもわたしたちは、「ワダツミの声」に耳を傾けなければならない、と、この本の編者は述べているわけだ。
 戦没学生たちの手記なのである。いや、学生とは限らないけれど、20歳くらいから、せいぜい25、6歳くらいまでの、あの十五年戦争で命を散らした若者たちの思いが、ここには言葉となって綴られている。
 ひとつひとつの文章は、どれも高潔で、知的で、真情にあふれている。兵卒として招集され、厳しい検閲を経ていながら、よくもこれだけ「生々しい肉声」が留められたものだ。その日本語の見事さには、読み返すたびに感銘を受ける。
 そしてまた、これほどの高い志と知性の持ち主が、ひとり残らず、あたかも城壁に卵を叩きつけるかのように、次々と死に追いやられていった事実を思い、そのことにただ暗澹とする。だから8月には、毎年ぼくは暗澹としている。


 といった具合で、コーフンしつつも暗澹としている。この本を読むと、だいたいまあ、いつもそういう気分になる。だからこの時期いがいはあんまり読まない。
 ただ、ぼくなんかのばあい、高校から20代前半くらいまでにかけて貪るように読み耽っていた作家たちがみな父親と同じか、さらにその上の「昭和ヒトケタ」世代だったから、ことさら「戦記もの」でなくとも、戦争体験の話はいわばデフォルトでしぜんと刷り込まれてきた。
 まず大江健三郎、井上ひさし、古井由吉、筒井康隆。もう少し上だと開高健、野坂昭如、五木寛之。そして丸谷才一、吉行淳之介、安岡章太郎、大岡昇平。
 もちろんまだまだたくさんおられる。
 三島由紀夫は昔から苦手で、ずっと敬遠していて、この齢になってなぜか夢中で読んでいるけれど、この人もむろん戦中派だ。石原慎太郎は今も昔も嫌いで、『わが人生の時の時』(新潮文庫 絶版)を除いていまだに読む気がしないけど、この人だってそうである。
 『きけ わだつみのこえ』に手記を留める若者たちは戦火に散り(という紋切り型の表現は、カッコよすぎて、本当は慎むべきかもしれないが)、わずかにその心情や思想の断片だけを遺した。上にあげた作家たちは生き延びて、戦後社会でモノカキとして身を立てた。
 その違いは、紙一重とまではいわないが、それほど大きなものでもないような気がする。
 『きけ わだつみのこえ』の中の文章の多くに、ぼくは激しく感情移入するし、だからこそコーフンもすれば暗澹ともさせられるわけだが、今年はすこしアタマを冷やして、「なんでこの有為な青年たちが戦没せねばならなかったのか。ていうか、そもそもなんであんな負け戦を始めやがったんだよボケが」ということを考えた。
 じつは2015年の8月に「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」という記事を書いており、「太平洋戦争に踏み切るまでの経緯」についてはまとめた。これもさっき読み返したが、山のように不満はあるにせよ、ひとつのレポートとしては、まずまずそつなく纏まっていると思う。
 だが、じつをいうと、何というかもう、問題の立て方そのものに根本的な誤りがある……との感も否めない。この3年で、ぼくもいくらかは成長したようだ。
 「太平洋戦争(日米戦争)」をメインと見なし、「日中戦争」をその「前段」と見なしているところ。これがどうにも間違ってるんじゃないか。
 むしろ「日中戦争」こそが……というか、「日清~日露戦争いらいの日本と中国との関わり方」そのものに根源的なもんだいがあって、その延長として、アメリカ(その他)との戦争に踏み込んでしまったのではないか。
 與那覇 潤さんの『中国化する日本 増補版』(文春文庫)はものすごく面白い本だが、タイトルが誤解を招きやすいので、ぼくはカバーをかけて、表紙に「明快 日本史講義」と自己流の題をつけている。ようするにそういう本だ。
 この本の230ページに、こう書かれている。


  要するに、「あの戦争」とは日本と中国という二大近世社会が文字通り命がけで雌雄を競った戦いだったのであり、そして日本はアメリカに負ける前に中国に負けたのです。だって、アメリカとも戦わないと中国との戦争を続けられなくなった時点で、すでに負けじゃないですか。
  『あの戦争になぜ負けたのか』式の著作は山ほどありますが、負けた相手をアメリカだと書いている時点で、まったくわかってないのと同じ。対中戦争と対米戦線の両方を含んだ「あの戦争」をいかに呼ぶかについては、右派好みの「大東亜戦争」から左派好みの「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」まで諸案がありますが、私の授業では『日中戦争とそのオマケ』と呼べと指導しています。対米開戦以降の太平洋戦争自体が、それまでの日中戦争の敗戦処理なのです。
(與那覇 潤『中国化する日本 増補版』文春文庫より)

 これを読んだのは2014年の暮れだったけど、「さすがに言い過ぎだろう」と思った。けど、それからいろいろ資料をあつめて目を通し、自分でも「なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。」みたいなのを書いたら、「いやどうもそう考えるのがいちばん正しいぞ」という気になってきた。
 日本の本土にいっぱい爆弾を落とし、沖縄に攻め込んできたのはアメリカの軍隊だけど、そもそも日本はその前に、大陸で中国に(と呼べるほどには主体を備えた「国家」ではまだなかったんだけど。でもって、そのせいでいよいよ話がややこしくなってたわけだけど)敗北を喫していたのである。
 「膠着状態」とはいうけれど、たんなる膠着じゃなくて、ずっと消耗しつづけてるんだから長引けば長引くだけジリ貧なのだ。短期決戦で勝負がつかず、「持久戦」にもつれこんだ時点で本当は負けてたわけだ。大陸スケールの「戦術」を、島国の尺度で量っていたゆえの錯誤であったか。
 軍部も政府も官僚も、もちろん一般庶民も、その事実上の「敗北」を認めることができず、結果として大日本帝国は展望もないままずるずるずるずる中国への派兵を続けた。そのあげくのハルノートであり、真珠湾だった。
 もろもろの要素を捨象して、思いきって一筆書きでやってしまえば、そういうことになる。
 アメリカではなく、中国とのかかわりを軸に、近代史を読み直してみよう、と思っております。


『この世界の片隅に』と『何とも知れない未来に』

2018-08-10 | 政治/社会





 こうの史代(ふみよ)原作/片渕須直(かたぶちすなお)監督のアニメ『この世界の片隅に』は素晴らしい作品で、上映から2年経った今も多くの人から愛されている。松本穂香・松坂桃李のお二人が主演するドラマ版も好評のようだ。2011年にも北川景子さん主演でドラマ化されているのだが、その時は2時間の単発スペシャルだった。
 思えば2016年はたいへんな年で、『君の名は。』『シン・ゴジラ』、そしてこの作品と、ニッポンの表現史を画する秀作が3本も顔をそろえた。偶然には違いないけれど、あの震災から5年を経て、それぞれの作り手が受けた衝撃の記憶が熟して作品のかたちになった、という言い方はできるかもしれない。まだ世に出ていない人も含めて、この3本はこれから先も、数多くのクリエイターに末永く影響を与えつづけるだろう。
 『この世界の片隅に』は、ご承知のとおり太平洋戦争下の呉の町が舞台となっているわけだし、原作の連載は2007年から2009年までだったから、あの震災とは直接のかかわりはないのだが、どうしてもそこに何かしらの巡り合わせを感じないではいられない。
 アニメ『この世界の片隅に』は、何よりもまずひとつの作品として素晴らしい。そして、「銃後」の暮らしを描いた記録としても秀逸だ。10代から20代はじめくらいの若い人で、これまでにほとんど戦争を描いた小説や映画にふれたことがない観客がいたら、まっさきにお勧めしたい作品である。内容にはもちろんシビアなところもあるが、絵柄が優しいし、主人公のすずさんがほんとうにすてきな女性だからだ。
 高畑勲監督の『火垂るの墓』ももちろん必見の一作だけど、「とっつきやすさ」でいうならば、『この世界の片隅に』のほうだろう。今は「とっつきやすさ」がとても大切な時代なのである。
 もう少しきちんとした言葉でいえば、「訴求力」ということになろうか。
 このところずっと、「訴求力」について考えてるもんで、文学ブログでありながら、ついついアニメの、それもプリキュアの話なんかしている。ブンガクの話を書くよりも、プリキュアの話のほうがとりあえずアクセス数は増えるのだ。アクセス数のためにブログやってるんじゃないけれど、やはり読まれないよりは読まれたほうがいい。
 ヒロシマとナガサキへの原爆投下をモチーフにした短篇(と詩)のアンソロジーで、『何とも知れない未来に』(集英社文庫)という本があった。編んだのは大江健三郎さんだ。刊行は1983年で、1990年代の半ばごろまでは店頭でふつうに手に入った。
 同じ集英社文庫のアンソロジー『太平洋戦争 兵士と市民の記録』とあわせて、いつも手近なところに置いている……つもりだったが、今なぜか見当たらない。記憶とネットを頼りにして、収録リストを記しておこう。
 原民喜「心願の国」「夏の花」
 井伏鱒二「かきつばた」
 山代巴「或るとむらい」
 太田洋子「ほたる」
 石田耕治「雲の記憶」
 井上光晴「手の家」
 佐多稲子「色のない画」
 竹西寛子「儀式」
 桂芳久「氷牡丹」
 小田勝造「人間の灰」
 中山士朗「死の影」
 林京子「空罐」
 どれも胸に沁みる良作で、こういう本がいつでもだれでも買いたい時に買えるニッポンであって欲しいと切望するが、どうも思うに任せない。東野圭吾や綾辻行人は山積みになってるのに、『何とも知れない未来に』や『太平洋戦争』は絶版だ。そのくせ変なウヨクっぽい言説だけはあふれている。「あの戦争」のことを折にふれて考え続けることが、「愛国」的なふるまいであるとぼくなんか思うけどなあ。なんだかなあ。
 たとえば井伏さんの「かきつばた」なんて、それこそ最新の技術でアニメ化すれば、まことに美しく切ないものに仕上がるだろうな……と夢想してみる。商業ベースに乗るかどうかは微妙ながら(いやここがいちばん肝心なんだが)、珠玉のような作品ができあがるのは間違いない。原作のほうは絶版になっても、アニメなら多くの人に観てもらえる。それが訴求力だ。
 しかし、夢想はあくまで夢想である。宮崎駿さんの『風立ちぬ』でさえ採算ラインに届かなかったというし、たとえ優れたアニメでも、いんうつで地味な戦争ものはなかなか動員を見込めないだろう。だからこそ『この世界の片隅に』のヒットがますます喜ばしいわけだ。

 「何とも知れない未来に」というタイトルは、収録された原民喜「心願の国」の一節からとられている。


 ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。
 だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みてゐたやうな気がする。


 重苦しい主旋律が、ラスト2行でほのかな希望に転調する。このくだりは、『この世界の片隅に』終幕近くのすずさんの台詞に通じているようにも思う。


「8月15日も、16日も、17日も、9月も10月も11月も来年も再来年も。
 10年後も。ずっと。ずっと。」

「晴美さんはよう笑うてじゃし。晴美さんのことは笑うて思いだしてあげよう思います。この先わたしはずっと、笑顔の入(い)れもんなんです。」

 のん(能年玲奈)さんのアテレコが、声質も台詞回しもほんとにぴったり。書き写すだけで、じわっとナミダが滲んでくる。




狼は生きろ 豚は死ね ~戦後史の一断面

2015-10-24 | 政治/社会
2025(令和7)年
 
まえがきのまえがき。
 
この記事は、サブタイトルのとおり、「狼生きろ 豚は死ね」というキーワードを軸にして、この国の戦後の一断面を切り取ったものであり、石原慎太郎の同タイトルの戯曲について紹介なり解説をしたものではありません。慎太郎の戯曲『狼生きろ 豚は死ね』の内容などを知りたい方は、時間を無駄にしないよう、ほかのサイトを当られることをお勧めします。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
2015(平成27)年
 
まえがき。
 
 
 「狼生きろ 豚は死ね」という警句は、わりと人口に膾炙しているようだ。ただ「狼は生きろ 豚は死ね」と思っている人が多いのではないか。一般にはこちらのかたちで流布している。
 
 
 もともとは「狼生きろ 豚は死ね」が正しい。「オオカミイキロ・ブタハシネ」で、七五調なのである。古代の長歌、中世の和歌から江戸の俳諧、近代の短歌へと至る日本古来のリズム(韻律)に則っているわけだ。
 
 
 これが「狼は生きろ~(以下略)」に転化したのは、高木彬光の原作をもとに作られ、カドカワ映画が1979年に公開した『白昼の死角』の宣伝用テレビCMにおいて、「狼は生きろ、豚は死ね。」とのキャッチコピーが繰りかえし流されたからだ。主演は夏木勲(夏八木勲)だった。
 
 
 気鋭の社長・角川春樹ひきいる当時のカドカワ映画の勢いたるや誠にすさまじいもので、その宣伝攻勢も、ちょっとした社会現象を形成しかねぬほどだった。ぼくなども、じっさいに劇場に足を運んで本編を観たことはないが(小学生だったんでね)、テレビで見かけた予告映像は今でもよく覚えている。『犬神家の一族』(1976年公開)の、湖面から二本の脚がニョッキリと突き立っているイメージなど、忘れようとしても忘れられるものではない(のちに同じ市川崑監督によってリメイクされた)。
 
 口に出せば分かるが、「おおかみはいきろ」と一息で言って読点(、)を挟むと、これが8文字で「字余り」になっていることは気にならず、わりとしぜんに「ぶたはしね」に続く。やはり助詞を省くと気持がわるいこともあり、むしろ「おおかみはいきろ、ぶたはしね」のほうが語呂がいい気さえする。
 
 こちらのほうが広まったのも宜なるかなと思えるが、とはいえ本来はあくまで「狼生きろ」なのだ。もともとは、1960(昭和35)年、28歳の青年作家・石原慎太郎が劇団四季のために書きおろした戯曲のタイトルなのである。それをカドカワ映画(の宣伝部)が約20年後に引っ張ってきて、一部を手直ししたうえで使ったわけだ。
 
 字句が変わった以上に重要なのは、意味そのものが変質したことだ。時あたかも「60年安保」の真っただ中、弱冠28歳で、まだ政治家にはなっておらず、しかもしかも「革新」のサイドに身を置いていたシンタロー青年は、「既存の体制の上にあぐらをかいた醜い権力者ども」を「豚」に、「それを打ち倒す真摯で精悍な若者たち」を「狼」になぞらえていた。
 
 それが今では「豚」は「弱者」で「狼」は「強者」、すなわち「弱肉強食」の意味で使われている。『白昼の死角』は、戦後の世相をさわがせた大がかりな詐欺事件(光クラブ事件)を題材に取った作品だ。今ならばさしずめ、「振り込め詐欺」にやすやすとひっかかる「情弱」の民衆が「豚」で、「それをまんまと誑かす連中」が「狼」といったところか。
 
 それはむしろ「狐」か「狸」ではないかという気もするが、いずれにせよ、本来の内容が転化して、「狼は生きろ、豚は死ね。」が「弱肉強食」を指すようになったのは、『白昼の死角』のみならず、当の石原慎太郎じしんの存在も大きいだろう。
 
 戯曲のタイトルとは知らずとも、この文章の出どころはシンタローだよってことだけは何となく薄々みんな知っており、あのシンタローが言うのなら、そりゃ「社会的弱者はとっとと死ね。で、強ぇ奴だけ生き延びろや」ってことだよなあと、誰しもが思ってしまうのである。
 
 それはつまり、かつて大江健三郎らと連帯をして「若い日本の会」などの活動をしていた石原慎太郎が、自ら政界に進出し、そこで現実の政治の汚泥にまみれることによってどう変節していったかの好例であるし、さらにまた、戦後のニッポンそのものの変節をあらわす好例でもあろう。
 
 さて。じつはこの稿、「旧ダウンワード・パラダイス」に発表したものがもとになっている。それを新たに書き直しているのだ。ここまでの記述と重複するところもあるが、より詳しく書いてあるので、以下、元の稿をそのままコピーしよう。
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
初出  2012(平成24)年
 
 
 「狼生きろ豚は死ね」というフレーズを、ぼくは長らく誤解していた。しかもその誤解は、かなり多くの人々に共通のものではないか……。この字面をパッと見たら、誰しもが「弱肉強食」という成句を連想する。ましてや政治家シンタローの「差別的」言動をさんざん見聞きしてきたわれわれならば……。もう少し知識のある人なら、「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ。」なんて文句を思い浮かべて(じっさいのソクラテスは、まあ、太っていたと言われているが)、「豚」とはたんに「捕食動物」の意味ではなくて、「ただ漫然と日々を生きている人。俗物」の寓意と考えるかもしれない。その伝でいくと「狼」は、「明確な目的意識にのっとって、毅然たる態度で日々を送っている人」みたいなニュアンスになろうか。じつはニーチェも、『ツァラトゥストラ』の中で、これに近い使い方をしている。
 
 「狼生きろ豚は死ね」は、浅利慶太が主宰する劇団四季のために、若き日の石原氏が提供した戯曲のタイトルである。じつは氏はこれを梶原一騎原作の劇画から取ってきたのだという説もあって、そういうことがあってもおかしくないとは思うが、確認はできない。しかし先述のニーチェの事例を除けば、ほかにネタ元と思しきものが見当たらないのも確かだ。このとき石原氏はまだ28歳。「太陽の季節」で一世を風靡してから四年のちだが、まだまだ青年といっていい年齢だ。
 
 時はあたかも1960(昭和35)年。まさに安保闘争の年である。GHQ占領下での数々の怪事件を取り上げた松本清張の「日本の黒い霧」が文藝春秋に連載されていた年でもあった。戦後史において際立って重要な年度に違いない。5月19日に強行採決、6月10日にハガチー来日(デモ隊に包囲され、翌日には離日)、6月15日が「安保改定阻止第二次実力行使」で、国会をデモ隊が取り囲む。あの樺美智子さんはこの時に亡くなった。新安保条約は19日に自然承認されるも、その代償のように、岸内閣は7月15日に退陣を余儀なくされる。
 
 「狼生きろ豚は死ね」は、このような空気のなかで書かれ、上演されたわけだけど、それが「キャッツ」やら「オペラ座の怪人」などの商業演劇に専心している現今の劇団四季からは考えられない作品であったことは容易に想像がつく。しかしそもそも、なぜ石原青年が戯曲なんぞを書いたのか。ちなみにこのシナリオは、1963年に『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』として新潮社から出ている。60年代から70年代初頭くらいまでは、小説家がけっこう戯曲を書いており、それがまた単行本として出版されていたのだ。出版物としての戯曲が商業ベースに乗っていたらしい(今に残っているのは、井上ひさしを別格として、三島由紀夫や安部公房など、一握りの人のものだけだが)。「文壇」と「演劇界」との垣根が今よりずっと低かったのだろう。しかしさらに調べていくと、石原のばあいは、たんに「浅利慶太と仲がいいから頼まれた。」という話ではなかった。
 
 石原慎太郎青年は、1958(昭和33)年に「若い日本の会」という組織を結成している。この会のメンバーが今から見ると瞠目すべき顔ぶれで、大江健三郎、開高健、江藤淳、寺山修司、谷川俊太郎、羽仁進、黛敏郎、永六輔、福田善之、山田正弘等々とのこと。福田・山田両氏のことはぼくはまったく存じ上げぬが、ほかの方々の名はもちろんよく知っている。いずれも各々のジャンルで一家をなした、錚々たる文化人である。しかし1958年の時点では、いずれも20代かせいぜいが30代で、新進気鋭というべき年齢だった(ここで列記した人名はウィキペディアからの引き写しなので、フルメンバーを網羅しているかどうかは定かでない)。そして、浅利慶太もまたその中の一人だったのだ。石原氏の「狼生きろ豚は死ね」と同じ時期に、寺山修司も「血は立ったまま眠っている」を書き下ろして劇団四季に提供している。ただしこの時点での寺山は、大江・開高・石原といった芥川賞作家たちに比べ、ほとんど無名の一詩人に近かったらしいが。
 
 顔ぶれの豪華さから考えて、この「若い日本の会」のことはもっと知られていてもいいように思うが、まとまった研究書も出てないし、ネットの上にも有益な情報が置かれていない。こんなところにも、ニッポンという国の「過去の遺産を次の世代に継承しない。」悪い癖が表れている……。ただ、関係各位がこの会のことをあまり熱心に語りたがらないのも確かなようで、それはまあ、改めて指摘するまでもなく、メンバーの中にこのあと明瞭に「保守」のサイドへと参入していった方々が少なくないからだ。江藤、黛両氏はもちろん、浅利氏にしてもそうだろう。むろん石原氏は言うまでもない。「黒歴史」という表現がふさわしいかどうか知らないが、「体制」側に与したほうも、そうでない側に残った(?)ほうも、双方にとってあまり触れたくない「若気の至り」だったのかも知れない。
 
 言うまでもなく、「若い日本の会」は「反体制」のサイドに属するものだ。それが現実の政治運動の中でどれほどの力を持っていたのかはよく分からないけれど、そもそもが「当時の自民党が改正しようとした警察官職務執行法に対する反対運動から生まれた組織」であり、「1960年の安保闘争で安保改正に反対を表明した」組織であったのは事実である。国会を解散せよとの声明も出していた。文中のこの「」内はウィキペディアからの引き写しだけど、「従来の労働組合運動とは違って、指導部もなく綱領もない」というのはいかにも(そりゃそうだろうな……)という感じで、これだけ個性の強い売れっ子たちが集まって、指導部もなにもないだろう。まあ、「綱領」くらいは作ってもよかったんじゃないかと思うが、きっとそれも纏まらなかったんだろう。
 
 それにしても、その「狼生きろ豚は死ね」ってのはどんな芝居だったのか? しかしなんとも困ったことに、「若い日本の会」以上に、ほとんど資料が出てこない。先述の『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』はamazonで法外な値をつけているし、図書館で読むしかないのだが、さすがにぼくもこの件に関して、そこまで時間を費やすわけにいかない。困った困ったと言いつつネットを探して、やっと見つけたのが牧梶郎さんという方の「文学作品に見る石原慎太郎 絶対権力への憧れ――『殺人教室』」という論考。その冒頭にはこうある。「若い頃の作家石原慎太郎が、政治は茶番でありそれに携わる政治家は豚である、と考えていたことは『狼生きろ豚は死ね』に即して前回に書いた。」
 
 なんと! 「豚」とは「政治」という「茶番」に携わる「政治家」のことであった! まことにびっくりびっくりで、びっくりマークをあと二つくらい付けたい気分なのだが、これではそれこそジョージ・オーウェル『動物農場』の世界観ではないか。つまりこれは28歳の石原青年が披瀝した、諷刺小説ばりにマンガチックな世界観のあらわれだったということだ。とにもかくにも、「豚」というのが「弱者」ではなく「政治家」を意味していたとは、ぼくをも含め、世間の通念とは180°正反対の事実と言ってよいだろう。
 
 「政治は悪と考える純血主義が六〇年代には支配的だった……(後略)。いいかえれば六〇年代の学生運動は全然政治的運動ではなく、現実回避への集団的衝動であったということでしょう。」と関川夏央(1949年生)さんが自作の小説のなかで自分の分身とおぼしき男に語らせているが、「太陽の季節」を書いた青年作家石原慎太郎の1960年における感性(ちょっと思想とは言いがたい)は、ここでいう「純血主義」の見本みたいなものだったらしい。
 
 牧梶郎さんは「前回に書いた。」と記しておられるので、ぼくとしては当然、その「前回」の論考も探したのだが、あいにくネットの上にはなかった。ほかの論考も見当たらず、「文学作品に見る石原慎太郎」という連載エッセイの内で、どうやらたまたま「絶対権力への憧れ――『殺人教室』」の回だけがアップされているようだ。はなはだ残念ながら、ネット上ではこういうこともよく起こる。ともあれ、重要なのは「豚」とは「弱者」ではなく「政治」という「茶番」に携わる「政治家」のことであったということだ。これにはぼくもほんとに驚いたので、この場を借りて特大明記しておきたい。ところで、じゃあ「狼」のほうは何ぞやって話になるが、それはやっぱり、「権力の上にあぐらをかいてぬくぬくと肥え太る豚」どもを、その鋭い爪と牙とで打ち倒す「新世代の覚醒した若者」たちなんだろう。
 
 「安保闘争」の1960年から八年が過ぎた1968(昭和43)年、これもまた戦後史におけるもう一つのエポック・メイキングな年だが、36歳の石原慎太郎は7月の参議院選挙に全国区から立候補し、300万票余りを得て第一位で当選する。これが今日に至る政治家・石原慎太郎氏の軌跡の華々しい幕開けだったわけだが、この八年という歳月のあいだに、戦後ニッポン、および、石原慎太郎という「時代の寵児」の双方にどのような変化が起こったのかは、字数の都合で今回は触れることができない。
 
 しかしあくまで想像ながら、かなりの確信をもって言えることがひとつある。36歳の石原氏は、けっして「豚」となるべく国会議員に転進したのではなかろうということだ。そうではなくて、どこまでも氏は自らを「狼」と任じて政治家になったと思われる。つまり、「政治はすべて悪」と考える「純血主義」から、もう少しばかり大人になって、「政治の中には悪(豚)もあれば善(狼)も含まれている。」という認識に至った。そして自分は「狼」としてこの国の政治に関わっていく。心情としてはそういうことだったと思うのだ。もちろんまあ、現実にはもっともっとドロドロしたことが内にも外にも山ほどあって、そんな単純な話ではなかろうが、少なくとも心情としては、36歳の慎太郎青年はそう考えていたはずだ。
 
 
 そのように仮定してみると、1968年からかれこれ五十年近くに垂(なんな)んとする彼の政治活動の特異さの因って来たる所以がまざまざと見えてくるような気がしてくる。齢80歳を迎え、あれだけの権力を恣(ほしいまま)にするに至った現在も、あの人は自分を「豚」とは微塵も考えてはいない。いささか老いたりとはいえ、まぎれもない一匹の「狼」であると確信し続けているのであろう。だからこそあれほど矯激な言動を休むことなく取り続ける。もちろんこちらも、現実にはもっともっとドロドロしたことが内にも外にも山ほどあって、そんな単純な話ではないわけだけど、少なくともあの人の「心情」のレベルに即していえば、要するにそういうことだろう。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 

2015(平成27)年

あとがき。

 
 以上。おおむねこれが、3年まえ(2012年)に書いた元の記事の大綱だ。ベースとなった情報をネットに置いて下さっていた牧梶郎さんには改めて感謝しなければなるまい。「狼生きろ 豚は死ね」について言いたいことは大体こんなところだが、ちょっとした後日談がある。当の記事についてコメントを頂いたので、ぼくはこんな返事を書いた。
 
 
 
 
 そういえば『狼と豚と人間』という邦画があったはずだ、と思って調べてみたら、1964年の東映映画でした。監督は深作欣二で、出演は三國連太郎、高倉健、北大路欣也。ここでは狼が健さん、豚が三國さんで、人間が欣也さん。それぞれ、一人で生きようとする者、人に飼われて生きる者、人間らしく生きたいと願う者、という図式だそうです。
 
 1979年の『白昼の死角』の宣伝用コピーは石原戯曲のパクリでしたが、角川映画はその前年に、フィリップ・マーロウの名セリフ「(男は)しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない。」を、「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」と改ざんしたうえでパクッた前科があります。
 
 さらに、2002年の映画『KT』で、KCIAをサポートする富田(佐藤浩市)の「狼生きろ、豚は死ね」という言葉に対して、元特攻隊員で活動家くずれの新聞記者・神川(原田芳雄)が「豚生きろ、狼死ね」とやり返すくだりがありました。
 
 いずれにしても、権力者こそが「豚」なのだ、という「動物農場」的な発想がまったく見受けられないのは興味ぶかいところです。 投稿 eminus | 2012/11/16
 
 
 
 
 
 するとその後、この補足に対して、ほかのひとから、「翻訳の文章なんだから、どれがオリジナルかは一概に言えない。『改ざん』や『前科』は言い過ぎではないか」という主旨のコメントが来た。ここはけっこう重要だから、補足をさらに補足しておきましょう。
 
 
 「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」は、翻訳家で、映画の字幕の名訳者としても知られた清水俊二の手になる訳だ。ご存じレイモンド・チャンドラー『プレイバック』(ハヤカワ文庫)の中で、私立探偵マーロウが女性からの問いに答えての至言である。
 
 これと、『白昼の死角』のコピー「男は、タフでなければ生きていけない。優しくなければ、生きている資格がない。」はどう違うのか。なぜぼくは「改ざん」「前科」という強い言葉を使ったか。たんに清水訳のほうが早かったという理由だけではない。
 
 「しっかりしている」と「タフ」との違いはこの際どうでもいい。もっと大事な理由が2つある。ひとつめ。マーロウの名せりふの原文は、“If I wasn’t hard,Ⅰ wouldn’t be alive.If Ⅰ couldn’t ever be gentle, Ⅰ wouldn’t deserve to be.”だ。もういちど、清水俊二訳と「野性の証明」のキャッチコピーを見比べていただきたい。
 
 この台詞のキモは、「優しくなることができなかったら」という点にある。つまり、「タフでなければ生きていけない」のは大前提。そのうえで、「時と場合、つまり情況に応じて」「優しくなれる」ところがオトコの値打ちなんだぜ、と言っているわけだ。『野性の証明』のコピーは、その肝心なニュアンスを落としてしまっている。
 
 ふたつめは、この台詞に目をつけたのが、当時のカドカワ映画の宣伝部の手柄ではなかったということ。先駆者がすでにいた。もともとは丸谷才一がミステリ評論の中で紹介したのが最初で、それを生島治郎がいたく気に入り、「ハードボイルド美学の精髄」としてあちらこちらで引き合いに出した。ミステリ・ファンには常識といっていい話である。
 
 映画『野性の証明』が制作/公開されたのはそのあとで、しかもこの名セリフをキャッチコピーとして使うにあたり、関係者各位になにも挨拶はなかったらしい。それらの点から、ぼくも改ざんなどと書いたわけだ。いずれにしても、当時のカドカワ映画(の宣伝部)がかなり荒っぽいことをしていたという傍証になろう。
 
 ただ、「狼は生きろ、豚は死ね。」と転用するに当たって石原慎太郎に仁義を切ったのかどうかは知らない。慎太郎は弟(裕次郎)を通じて映画界にも太いパイプを持っているので、なんらかの挨拶はあったかもしれない。
 
 
追記①) 2017年11月
 その後ネットを見ていたら、戯曲「狼生きろ豚は死ね」につき、新たな情報を得た。現代劇ではなく、幕末が舞台の時代もので、「坂元龍馬の護衛をする久の宮清二郎という青年が、その龍馬と幕府老中の松平帯刀、商人の山井九兵衛、土佐藩士後藤象二郎らの権謀術数の中で、理想と政治と権力に振り回される話。」とのことだ。ブログ主さんの感想によれば、「ちょっと新国劇の香りがする」内容だったとのことで、石原青年が書いたんだから、そうだろうなあという気がする。あの人はもともとセンスが古いのである。
 「久の宮清二郎」を演ったのは、劇団四季の看板役者・日下武史。なお「久の宮清二郎」については、検索してもこれ以外ヒットしないので、架空の人物と思われる。
 
 
 追記②) 2020年7月
 この記事の元となる原稿を書いたのは8年前で、そのとき石原慎太郎という政治家はまだ現役だった。この頃ぼくはかなり批判的な感情を込めて石原氏のことを見ており、それはこの文章にも色濃く反映されている。ところがこのたび、中国発のコロナウィルスの世界的蔓延ということがあり、そこであらわになった一党独裁体制の弊害を目の当たりにして、石原氏に対するぼくの評価は少し変わった。たしかにいろいろと問題もあったと思うが、じつは氏は先見の明を持った政治家だったのかもしれない。いずれまた石原氏については資料を集めてきちんと考えてみたい。
 
 
 追記③) 2023年11月
 そのご、2019年11月25日に、「シリーズ・戦後思想のエッセンス」の一冊として、中島岳志『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか』が出た。「若い日本の会」についてもかなり詳しく言及されている。ぼくが上で長々と述べたことも、あながち的外れではなかった。またユリイカも2016年5月号で慎太郎特集を組んだが、こちらは未読。






 
 
 
 
 
 
 

ネオ・リベラリズム

2015-10-07 | 政治/社会
 まえの「ダウンワード・パラダイス」ってのは、とにかく色んな話柄が雑多に詰まったブログだったんで、引っ越し後のこちらではブンガクに特化というか純化するつもりでいたし、現にそのセンでやってるんだけど、もとより文学ってのは文化の一部でありまして、その文化なるものは、どうしたって経済や政治に大きく左右されるわけですな。従属するとは思わない。そうはけっして思わないけれど、政治やら経済と、文化とを比べて、さあどっちが強いかっつったら、それゃあもう答ははっきりしてる。悔しいけれどしょうがない。本を齧っても腹はふくれないもんね。むしろお腹こわすわな。
 それでまあ、文学ブログとしてのダウンワード・パラダイスは、必要最小限、万やむを得ざる範囲内でのみ政治とか経済を扱う。といま決めましたが、そこで現在、このニッポンが採用してるというか、いや違うな、「もろもろの必然としてそうなっちゃってる」状況とは、新自由主義=ネオリベラリズムというやつです。だから「火花」なんてのも、ネオリベの文学なんですよね。一見するとネオリベの真逆をいってるようだけど、そこも含めて結局はネオリベの市場で消費される文学なわけだ。
 敗戦から70年、サンフランシスコ平和条約から63年経ってもなお、わが国がアメリカなしでは立ち行かないことは、先日の安保法制を見ても明白なんだけど、今も昔もアメリカってのは世界でいちばん面白い国だと思います。911およびイラク戦争以降、「軍事国家」としての本質が前面に出てきて相当コワモテになってるけども、そこも含めて面白い。怖わオモロい。20世紀、さらには21世紀の狂気も叡智もテクノロジーも、結局はぜんぶアメリカから出てるわけでしょう。日本がその対抗原理となることはありえない。EUもロシアもだめ。対抗原理になりうるとしたら、せいぜい中国かイスラームだけですよね。そうなっちゃあ大変だぞ、ってことで、安保法制になっちゃったわけですが。

 というわけで、アメリカについて書いた記事を「旧ダウンワード・パラダイス」から転載します。1960年代から70年代前半にかけてのカウンターカルチャー、ヒッピー・ムーブメントが、70年代後半のミーイズム(個人主義)を経て、露骨きわまる格差社会を生み出すラットレース的競争主義、市場原理バンザイ主義へと変遷していくプロセスを簡単に、ごく簡単にまとめたものです。「ホール・アース・カタログ」に代表されるカウンターカルチャー、ヒッピー・ムーブメントの精神はひょっとしたらこの21世紀における唯一の(!)希望かもしれないなんてことを私は妄想してるんで、これについてはいずれまた、ゆっくりと考えてみたいとは思ってるんですけどね。それではまず、「リベラリズム」についての軽い考察から始めて、本編へ。


 ネオ・リベラリズム
 初出 2009年12月06日


 フランス革命(1789 寛政1年)の有名なモットー「自由・平等・友愛」のうち、「平等」の理念を至上とするのがコミュニズム(共産主義)だとすれば、「自由」を至上とするのがリバタリアニズム。ざっくりと要約すればそうなる。リベラリズム(自由主義)を極限まで推し進めたものとして、絶対自由主義、と訳されたりもする。

 リバタリアニズムはほんとうに極限の概念なので、これを徹底すると「国家」そのものまで消えてしまう。真逆であるはずのコミュニズムと同じことになる。両極端はぐるっと回って合致するのだ。それではいくらなんでもということで、これを本気で追求している国家なんてない(自らの消滅を追求する共同体なんてあるわけがない)。ただ、「小さな政府」や「規制改革」「民営化」を叫ぶのは方向としてはリバタリアニズムである。しかしそれならば税金は下げねばならぬのに、税だけは取って保障はどんどん切り下げる。このような立場を新自由主義、横文字でネオ・リベラリズムという。庶民にはいちばん迷惑な話だ。

 ネオ・リベラリズムはむろんリベラリズムを母体としている。これは私たちにも馴染み深いものだが、ヨーロッパとアメリカとでかなり意味が変わるので、時に混乱を生じる場合がある。整理しておくに越したことはない。

 世界史が急激にスピードを速めた、すなわち「近代」が始まったのがイギリスの産業革命とフランス革命からだというのは定説といっていいかと思うが、じつは、逆説的ながら「保守」という概念もまたこの時に明確になった。つまり「保守主義」は、そもそも「反動」として成立した。

 大革命が起こるや否や、海峡を隔てたイギリスの思想家エドモンド・バーク(1729 享保14年 ~1797 寛政9年)が、痛烈にそれを批判したのだ。この批判に端を発するヨーロッパ型保守主義は、「進歩」を疑い、理性による社会設計を否定し、伝統の破壊を憤り、経済の目まぐるしい革新を好まない。その代わり、緩やかな階級的秩序を重んじ、オーソドックスな権威を尊び、家族・共同体・国家の役割を個人の上位に置く。だからヨーロッパで「リベラリズム」と言えば、それはこの保守主義と正反対の、個人を重んじる自由主義を意味する。

 いっぽう、移民によって創られ、いきなり近代から始まったアメリカという国の保守主義は、これとはずいぶん違っている。自主独立の気風が強いから、「平等」の概念を重視せず、初めから「自由」をすべての価値の最上位に置く。自らの力で人生を切り開く、独立した個人を中心に据え、制約のない市場の中での、能力を生かした競争原理を旨とする。とうぜん進歩やテクノロジーを信奉するし、絶えざる革新や創造的破壊を推進することにもなるだろう。片や政府はなるべく小さくして、所得の再分配や福祉政策は必要最小限にとどめる。働かざる者食うべからず。つまり平等が嫌いなのである。だからアメリカで「リベラリズム」といえば、アメリカ的な自由主義/競争原理に反対するもの、すなわち左寄り、ヨーロッパでいう社会民主主義に近いものとなる。

 だからヨーロッパ型の保守を「保守」と呼ぶのはすんなり納得できるが、アメリカ型のそれは、そもそも「保守」とは言い難いものに思える。政治的にはおそらく、「共和主義」と呼ぶのがふさわしいのではないか。南北戦争の際、奴隷制廃止を主張したのは共和党のほうだった。それは「人種の平等」を重んじたという以上に、奴隷制度が経済発展を阻害していると分かっていたからだ。そして、経済的な面からいうならば、まさにこれこそ「新自由主義」だろう。つまりアメリカという国は、たとえ民主党が政権の座に就こうと、その本質において「新自由主義」な国家なのだし、さらに言うなら、「軍事国家」でしかありえないのである。

 そこで新自由主義/ネオ・リベラリズムだが、これは格差拡大の元凶として、小泉=竹中政治を批判するうえで繰り返し俎上に乗せられたから、たいていの方はご承知であろう。何よりも市場原理を重んじ、政府はなるべく小さくして、国家や公共によるサービスを縮小し、大幅な規制緩和によって、民間業者どうしの競争を激しくしようとする考え方だ。このたび仏大統領の座に就いたサルコジ氏も、この路線を目指すと言って選挙に勝った。ドイツのメルケル首相も同じ考えらしいから、先進諸国のアメリカ化は、欧州においても顕著であると見ていいだろう。

 いっぽうでアメリカは、とても人権意識の高い、世界に冠たる「リベラル」な国だともいわれる。先にも書いたが、思想のひとつの形態として見れば、個人の「自由」に最大の価値を置く点で、「ネオ・リベラル」と「リベラル」とは同根だ。しかし経済面における「新自由主義」的傾向と、政治・社会面における「リベラリズム」的傾向とは、相容れない面のほうが多い。先述のとおり、経済面での「新自由主義」がいかにもアメリカ的な理念であるのに対し、政治・社会面における「リベラリズム」は西欧型の理念なのである。

 だからアメリカにおいても、新自由主義は社会的強者、ないし強者たりうる自信に満ちた層に支持され、リベラリズムは社会的弱者やマイノリティー、または弱者というほどではないにせよ、激しい競争を好まない層(概して文化的なインテリが多い)に支持される。現代アメリカ史において、少なくとも70年代までは、双方のバランスが割合うまく取れていた。これが崩れてはっきり強者寄りへと傾いたのが、80年代の特徴かと思う。

 小泉=竹中内閣の構造改革の原点は、1980年代の中曽根行革にある(国鉄をJR各社へ、電電公社をNTTへと、それぞれ民営化)。それはイギリスにおけるサッチャリズム、アメリカにおけるレーガノミクスと共に、先進主要国のネオ・リベラリズム的潮流の中での政策だった。中でいちばん徹底していたのはサッチャー女史だが、ここではアメリカに話を絞る。1981(昭和56)年に米大統領に就任したロナルド・レーガンは、社会福祉費の大幅な削減と、大規模な企業減税とを打ち出した。この二本柱に軍事費の拡大がきっちりセットになっているところが、アメリカのアメリカたる所以なのだが。

 この時のレーガンの政策は、国内における保守派の本格的な巻き返しとして、「保守革命」と呼ばれたりもする。保守革命とはあたかも「黒い白鳥」と言うがごときだが、保守というのがもともと反動であったという先ほどの話を思い起こして頂きたい。裏返して言えば、それまでのアメリカは、色々と曲折はあれ、「大きな政府」のもとで、「リベラル」な空気を謳歌していたということだ。そのあいだ、保守派のグループは苦々しい気分を抱き続けていたわけである。

 その端緒はじつは戦前にまで遡る。1929(昭和4)年、ウォール街での株価暴落に始まる恐慌は、アメリカ全土をかつてない危機に陥れたが、フーヴァーに代わって1933年に大統領に選ばれたF・ローズヴェルト(民主党)は、周知のとおり、ニューディール政策によってこれに対処した。税金を投じて銀行や農家を救済し、政府企業によるテネシー渓谷の総合開発に取り組み、さらに労働者の団結権・団体交渉権をも認めたこの政策は、当時のアメリカという国の政治体制の中で、最大限にケインズ的な実験を試みたものといえるだろう。つまりこれこそ、アメリカ的な意味での「リベラリズム」の実践であった。

 ニューディール政策についての評価は、じつはまだ定まっていない。ひとつには、途中から第二次大戦が始まったために、政治・経済・軍事面において、戦争の影響があまりに大きく、政策そのものの効果が測りにくいこともある。しかし明瞭に言えるのは、アメリカの各州ならびに利害の錯綜する諸集団(ビジネス・農民・労働者・消費者など)を調整するための機関として、連邦政府の力がそれまでになく拡大したことだ。すなわちここに、「大きな政府」が確立した。貧困層は依然として貧しいままだったが、それでも労働組合が増員したり、アフリカ系アメリカ人の人種差別禁止命令が出されたりと、社会的弱者の権利も少しずつ認められるようになった。ただしその一方、「軍産複合体」といわれる国家中枢と大企業との癒着が、この時期に始まったのも事実なのだが。

 アメリカという国が終始一貫して軍事国家であり、国家としてのロジックの根幹に軍事を置いていることは少し注意深く見れば明らかだが、それでもなおあの国がかくも魅力的なのは、ファッションや映画やロックをはじめ、世界に向けてポップでヒップなカルチャーとライフスタイルとを発信し続けてきたからである。その源泉となってきたのが、多様な民族から成る民衆たちの逞しい活力であり、それこそが戦後アメリカの「リベラル」な空気そのものだった。軍事一色でガチガチになり、国民を一つの色に染め上げてしまえば共産主義国と変わらない。そんなアメリカを誰が好きになれるだろうか。

 ニューディールのあと、戦時下ではとうぜん共和党が盛り返してリベラル派はいったん後退したし、ローズヴェルト急死の後を受けたトルーマン大統領は「トルーマン・ドクトリン」によって冷戦構造を戦後世界のパラダイムの基調に据えた。国内でもマッカーシー旋風が吹き荒れ、共産主義者はもちろん、穏健なリベラル左派まで攻撃された。50年代には朝鮮戦争も勃発した。戦後のアメリカにおいて、軍事費が切り下げられたり、大企業の権益が抑えられたりしたことは一度だってない。それでもリベラリズムの水流は途絶えることなく、少しずつ勢いを増して広がっていく。むしろ戦争や経済成長に促されるようにして、マイノリティー、ことにアフリカ系アメリカ人の権利意識は高まった。1960(昭和35)年にJ・F・ケネディーが大統領の座に就いてのち、その水流は公民権運動となって全米を揺るがす。

 ケネディーが暗殺されてから、アメリカはヴェトナムの泥沼に足を取られていくが、そのさなか国内においては学生運動とニューレフトの活動、そしてカウンター・カルチャーが盛んになった。浦沢直樹『20世紀少年』の発想の原点というべきウッドストックの音楽祭は、まさにヴェトナム戦争真っ只中の1969(昭和44)年に行われたのだ。テントすらない野原の上に、3日間で40万人が集まり、さながら束の間のコミューンが生まれたごとき光景だったという。その動きはとうぜん反戦運動へも連なる。おそらく世界史上、あれほど大規模な反戦運動を抱えこんだ戦争はない。国外で戦争を推し進めつつ、国内ではリベラリズムが沸点に近いところまで高揚する。ここにヴェトナム戦争とイラク戦争との違い、60年代とゼロ年代との圧倒的な違いが横たわる。

 こうやって資料を頼りに近過去のおさらいをするといつも思うが、やはり1968(昭和43)年から69年にかけての2年間が、戦後史の一つの頂点だったのかも知れない。1970年代に入ると、街頭での政治行動は沈静化し、だんだんと内向していく。ウォーターゲート事件によるニクソンの辞任が1974年、ヴェトナム戦争の終結が1975年。60年代がもたらしたヒッピー・ムーブメントは、形を変えて社会の中に根付いたものの、それが連帯と変革を求めてのうねりへと高まっていくことはもうなかった。1970年代の後半は、「ミーイズム」の時代と称される。元号でいえば、興味深いことにちょうど昭和50年代と重なるわけだが。

 ミーイズムとは直訳すれば「自分主義」ないし「わたし主義」か。社会への働きかけを嫌い、変革をあきらめ、他人との紐帯を求めることなく、ひたすらに自らの内なる楽しみの中へと沈潜していく志向をいう。思えばこれは、まさにわれらが21世紀、平成の御世の若者たちの姿ではないか。私がアメリカにこだわるのは、その影響力があまりに大きく、アメリカの動向を抜きにして日本のことが考えられないせいもあるけれど、もうひとつ(それとも関連しているが)、戦後日本のトレンドが、10年単位でアメリカのそれを踏襲しているという理由もあるのだ。

 ともあれ1981(昭和56)年、カーターという影の薄い大統領が退陣したあと、R・レーガンが大統領になる背景はすでに整っていたといっていい。同じ「リベラリズム」の枠の中ではあれ、ミーイズムは紛うかたなき保守化である。社会全体の変革ではなく、自分(とせいぜいその家族)だけの幸福や快楽を求めるのなら、なにも苦労ばかり多くて実り少ない社会運動なんかせず、有能なビジネスマンとなって金儲けに勤しむのがいいに決まっている。日本がバブルに沸き立つ頃、アメリカでは「ヤッピー」という言葉が生まれていた。YOUNG URBAN PROFESSIONALSの略で、「都会やその近郊に住み、知的専門職をもつ若者たち。教育程度も高く、収入も多く、豊かな趣味を持っている」階層のことだ。むろん財テクにも長けている。

 1989(昭和64=平成1)年、レーガンの「保守革命」を継いだブッシュSrは、湾岸戦争を遂行したものの、一期4年しか続かなかった。次いで保守派にとっての雌伏期ともいうべきクリントン政権の8年間に(べつにクリントンが平和主義者だったわけでもないが)、アメリカの保守思想はより強靭で広範なものへと変質を遂げた。その新しい保守勢力は、文字どおり「ネオ・コンサーバティブ」と呼ばれる。日本ではネオコンという略称のほうが通りがいいか。この集団に支えられて成立したのが2001(平成13)年からのブッシュJr政権であり、ここにアメリカは(ひょっとしたら世界は)本格的な「第二次・保守革命」の時代を迎える。新自由主義=ネオ・リベラリズムが、改めて21世紀のハイパーリアルなイデオロギーとなっていくわけである。

 変な話だが、アメリカにおけるネオコンの台頭と、わが国における小泉=竹中政権の誕生とがあまりに符合しすぎていて、ちょっと陰謀論に色目を使いたくなる。陰謀論とジャーナリズムとのあいだの絶妙なポジションに身を置く広瀬隆氏の著作は、やはり一度は目を通しておくべきかと思うし、ことに『アメリカの経済支配者たち』『アメリカの巨大軍需産業』『アメリカの保守本流』(すべて集英社新書)の三部作には、私も教えられるところが多かった。ただ、陰謀史観というやつは、それがユダヤ資本だろうとフリーメーソンだろうとビルダーバーグだろうと、「ごく一握りの権力者たちがシナリオを書き、それに合わせて世界がうごく。」といった図式に収まってしまう。つまり、勤労者=消費者としての「大衆」というファクターが捨象されてしまう。

 しかしこうして見ていくと、けして上からの操作ばかりでなく、大衆の意識レベルの変遷が、ネオ・リベラリズムを招き寄せた経緯がよくわかる。そして世を席巻した新自由主義は、グローバリズムの凄まじい奔流と相俟って、ひとつの巨大なシステムと化し、世界全域を飲み込んでいく。


80年代について。

2015-10-07 | 政治/社会
前回の記事と関連して、「旧ダウンワード・パラダイス」からの転載ですが、これは本格的な80年代論ではなく、暫定的メモみたいなもの。近過去というのは学校の授業でもやらないし、適当な文献もありそうでないから(皆無じゃないけど)、ブログで扱うには格好のネタで、若い人には面白いんじゃないかと思ったんだけど、どうもあんまり読まれなかったみたい。平成生まれはバブルの昔話なんぞに興味はないか。ただ、ぼくとほぼ同年代かと思われる方から的確なコメントをいただいて、このころはまだあまりコメントが入らなかったので、うれしかったのを覚えている。では。


80年代について。
初出 2010年05月13日



 まずはこの文章から。

 「バブルは1985(昭和60)年9月のプラザ合意をきっかけに生まれ、90年の大蔵省による不動産融資の総量規制ではじけたといわれる。プラザ合意とは、この年9月22日にニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(五カ国蔵相会議)での合意で、この合意以降、各国がドル高の是正に向かって政策協調したため、それまで1ドル=240円だった円が一時は1ドル=120円に至るまで急速に円高になった。貿易で食っているわが国は深刻な時代に直面し、政府=大蔵省は国内産業を保護・強化し、円高不況から脱するために低金利政策に転換した。/こうして、86年1月から立て続けに六回にわたって公定歩合が引き下げられた。その結果、そこいらの中小企業や不動産屋でも巨額の融資を受けられるようになり、金利の安いカネが日本国中に大量に流れ始めたわけである。/この急増したマネーサプライがバブルを誘発したのだ。景気が好況に転化するとともに、86年頃から土地と株式の急速な資産額増加が始まる。そうして、投機が投機を呼び、信用が風船のように膨れ上がっていく過程が展開していったのである。」(宮崎学『突破者』 96年刊 幻冬舎アウトロー文庫 より)

 この経緯を、アメリカにスポットライトを当てて露骨に言ったらこうなる。

 「1970年代の半ば、オイルショックを乗り切った日本経済は、再び順調な成長軌道に乗ったが、そこに襲ってきたのが、アメリカからの内需主導型の経済構造への転換要求だった。1977、1978年のサミットで、アメリカは「日独機関車」論を展開し、日本とドイツは対米輸出を抑制して、内需主導型で世界経済を引っ張っていけと指示した。当時の福田赳夫内閣はこれを受けて、公共事業費を驚異的に増やした。そのために国債依存度が急に高まり、この状況は、四世紀半を経たいまもなお続いている。/そして、1985年のプラザ合意では、日本はアメリカの財政赤字を助けるために円の急激な切り上げ要求を飲んだ。その結果バブルが発生し、日本経済は一時の宴を謳歌したが、この時期に始まった日米経済協議では、日本はアメリカからさらなる内需拡大の要求を突きつけられた。1991年、バブルが完全に崩壊すると、内需拡大要求はさらに厳しくなり、日本は630兆円もの「公共投資基本計画」をつくり、以後、公債発行額はさらに飛躍的に増えたのだ。」(ベンジャミン・フルフォード『さらば小泉 グッバイ・ゾンビーズ』  06年刊 光文社ペーパーバックス より)

 ……経済の面でいうならば、確かにそうだったのかもしれない。貿易摩擦と言いながら、結局は今と同様、アメリカに振り回されていただけかもしれない。しかし十代後半と二十代前半の10年間、俗に「青春」と呼ばれる時期を、ほとんどすっぽり80年代に重ねて過ごした自分としては、それだけで済ませたくない気持はある。少なくとも文化の面では、80年代は後世に少しは何かを残したのではないか。そう思いたいのだ。

 80年代バブルの始まりを告げた《事件》は、ぼくにとってははっきりしている。1986(昭和61)年10月、民営化されたNTTが、自社株を1株119万7400円で売り出したことだ。これは抽選に当たらなければ買えなかったが、大方の予想どおりたちまち値上がりし、二ヶ月後には318万円という値をつけ、少なからぬ人々が懐を潤した。ぼくは証券会社が街頭に出した抽選テーブルの前を通りかかった覚えもあるし、大量に買って何十億という儲けを得た人が、「フォーカス」だか「フライデー」だかに載っているのを喫茶店で見た記憶もある(この写真週刊誌というメディアも、80年代のシンボルのひとつ)。五年ほど前、ライブドアやらジェイコムの件でデイトレーダーブームみたいなものが巻き起こったけれど、当時、あれよりももっと大規模な昂揚が列島を包んだものだった。ぼくの感覚では、バブルというものが庶民レベルに浸透して、何となくみんながざわざわ浮つき出したのはあの時からであったと思う。

 むろん予兆はその前からあった。明確には名指しできないんだけど、70年代からの連続性において、80年初頭にのみ成立しえた「何か」があったはずなのだ。マンガというスタイルで書かれた80年代論ともいうべき岡崎京子さんの『東京ガールズブラボー』(1993年刊)のラストに、次のような文章がある。「そんであたしは高校卒業するまでに6回家出して6回とも連れ戻された/その間にYMOは散開しディズニーランドは千葉にできて/ローリーアンダーソンがやってきて/松田聖子がケッコンした/ビックリハウスが休刊して「アキラ」が始まった///何となく「どんどん終わってくな」という感じがした///浪人して美大に入って東京で一人ぐらし始めた年に/チェルノブイリとスペースシャトルの事故が起こった」

 このマンガの主人公「金田サカエ」の年齢は、ほぼ岡崎さんご自身と重なっている。YMOの散開と、東京ディズニーランドの開園は83年、「チェルノブイリとスペースシャトルの事故」は86年。まさにこれから狂乱の時代が始まろうって時に、「どんどん終わってくな、という感じがした」なんて、「岡崎さん、やはり天才だなあ」とぼくなどは思うが、たしかに、「14番目の月」じゃないけれど、宴はたけなわとなる寸前がいちばん楽しい、ということはあるのかも知れない。バブルの到来とともに何かが終わったという感覚は、岡崎さんより少しばかり年下のぼくにもぼんやりと分かる気はするが、それを今、うまく言語化することはできない。

 ぼくにとって83年という年が忘れられないのは、YMOでもディズニーランドでもなく、サントリー=電通によるサントリー・ローヤルの伝説のCM『ランボー、あんな男、ちょっといない。』が初めてテレビで流れたからである。http://www.youtube.com/watch?v=cfve3SzJOS4 (演出は鈴木理雄。82年が初オンエアとの記述もあるが、ぼくは83年と記憶している)。あれからほぼ30年、CG加工が当たり前となった現在でさえ、これ以上のインパクトをCMから受けた覚えがない。金曜ロードショーかなにかの折にあれを見たとき、「えらい時代が来たもんだ」と思った。商品そのものではなしに、その商品にまつわるイメージを拡張し、増幅して市場に流通させる。そのなかで表現の技術は飛躍的に磨かれていく。いま改めて見直してみると(そんな真似ができるのは、パソコンの普及とインターネットのおかげなんだけど)、この映像は、それこそバブルの狂乱と、それが通り過ぎたあとの索漠さ、までをも予感しているように見える。

 じつは今回のこの記事、1996年4月の「STUDIO VOICE」、特集「Babylоn 80s」を傍らに置いて書いている。和訳すると「80年代 虚飾の都」みたいなタイトルになるこの号は、音楽、ファッション、文学、哲学、映画、アート、演劇・パフォーマンス、写真、漫画、メディア・スペースの十項目に分類された、かんたんな用語事典になっていて、当時を偲ぶのにちょうどいい。96年刊行ってことは、その頃はまだ80年代の余殃が色濃く残っていたわけだが、それから14年を経て、今や当のスタジオボイス自体が休刊になった。時代の流れというほかないが、それはともかく、巻頭、野々村文宏による序文の中に、このような文章がある。

 「……結局のところ、経済や流通の問題をネグっておいて、現実にありえない仮想の階層を用意して……それが解釈の勝利だ、なんて言ってるうちは甘くて、やがて足元をすくわれることになる。そりゃそうだ。自分が足場だと思っているものが、実は無いんだから。」

 もちろん、足場などあるはずもない。セゾンや電通を始めとする巨大資本に都市ぐるみ囲い込まれて、遊園地という名の豊かな植民地の中で、楽しく踊っていただけなんだから……。だけど、本当にそれだけだったんだろうか?

 ブログを始めた4年前から、折りにふれてこのことを考え続けてるんだけど、いまだに明瞭な答えが出ない。模索中。でも、せっかく押し入れの底から引っ張り出したので、「Babylоn 80s」の中から、80年代をシンボリックに表す「記号」を抜き出してみよう。今も残っているものもあるし、消えてしまったものもある。ぼくなんかの世代にとっては、気恥ずかしくも懐かしい。平成生まれの皆さんにとってはどうなんだろう。

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コメント①

興味深く記事を読みました。

野々村文宏の言葉がひっかかっているとか…。あなたも私と同じような「時代の暗示」を感じている。と勝手に共感してしまいました。

結局のところ、電通やセゾンらの巨大資本は、国際金融資本につながっていて、それらに迎合する勢力と、民族的な勢力とのせめぎあいが80年代にも、そして2010年にも存在する。というのが、ウェブによって明らかになったことでしょう。

別記事で、浅田さんのことを述べられていますが、彼は1975年以降批評の場はない。と、言明されています。そういう諦観の中で、浅田さんも坂本さんも現代を生き抜かれている。そんな感じがしています。

スコラについては記事を上げていますので、ご覧いただければ幸いです。

投稿 スポンタ中村 | 2010/05/13



 コメントありがとうございます。
 Web論がご専門のようなので、釈迦に説法と申しましょうか、まことにお恥ずかしいのですが、本文中で引用した野々村文宏氏の巻頭言の続きに、このような一節があります。
「若い読者たちに僕が何か言えるとしたら、自分の身の回りを撮った写真であれ、渋谷系であれ、日本語のラップであれ、テクノのクラブであれ、インターネットであれ、いっさいの足元それじたいを疑ってかかれ! としか言いようがない。そんなの、別に新しくないぞ。むしろ見事なまでに80年代前半と同じだぞ。……」
 「渋谷系」などが出てくる辺りが、いかにも90年代中盤ですが、この中で、「インターネット」だけは明らかに新しいものだし、これに相当するものは、80年代には皆無だったと思うのです。これらをすべて並列して、一緒くたにするのは、野々村さん、ちょっとまずいのではないか……(なにぶん14年前のことだから、その後、考えがお変わりになったかもしれませんが)。
 インターネットは、われわれが「囲い込まれた遊園地(という名の、じつは植民地)」から抜け出す手段になりうるのではないか、という夢想を僅かながらぼくは抱いているのですが、これはあまりにシンプルかつ楽観的すぎるでしょうか。
 「スコラ 音楽の学校」についての5月10日の記事も拝見しました。ジャズに関する講義では、12年前に山下洋輔さんがNHK教育「趣味悠々」でおやりになった「ジャズの掟」が忘れられません。今回はあれよりずっと「啓蒙的」になっておりますが、たとえば池上彰さんのような方が引っ張り凧となる世情を見るに、これもまた、時代の流れなのかもしれませんね。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/05/14


コメント②


ニッポン・クロニクルの「80年代について」の記述の中で、『80年代を表す「記号」』を眺めていて
あ、と思ったのは、
70年代にとんがっていた人たちが80年代にメジャーになるとともに面白くなくなっている……と云うことでした。
有名になり、仕事と収入が増えて、成熟したのではなく、薄まって面白くなくなってきている。

社会が豊かになりひとつの仕事の値段が上がった時に、仕事を増やし、出番を増やしお金持ちになるのは
普通の人の心情ですが、
一人の人のクリエイティビティは実は無限に湧いて出てくるわけではなくて
探索し掘削するしんどい作業を潜り抜けないといけないわけで、
どんなに天才でも出がらしになる時はすぐ目の前にあるのです。

名前が売れれば、仕事は来るし、買う人も増えるけれど、それは名前に対する代価であって
仕事の内容に対しての代価ではないということを本人はつい忘れてしまう。
100万円の仕事が来たら、次にその仕事以上のものを目指して、100万円で暮らせるだけ頑張って次を目指して精進しないと
成熟の域には達せないのではないでしょうか。

本当の経済の豊かさは、目指すものを探求している人が、
喰うための稼ぎにあくせくしないで仕事に集中できる社会的な余裕があること、
作る側はどんなに高価で買い上げられても、納得できるもの以外は安易に外にださないことで
やっと成熟の域に到達できるのかもしれません。と、自戒を込めて……

投稿 かまどがま | 2012/11/19


 岡崎京子というマンガ家は、「天才」であったと思います。このばあいの天才とは、「桁外れに鋭い感性のアンテナを備えた表現者」といったていどの意味ですけど。この記事でも書いたとおり、まさにこれからバブルが膨らもうという1983(昭和58)年において、「『どんどん終わってくな』という感じがした。」と、岡崎さんは90年代前半に証言しているわけです。
 この一節は、『東京ガールズブラボー』という作品の末尾に置かれています。ぼくは岡崎さんよりちょっとだけ年下なのですが、一読してすぐ、このカンジは何となく分かるなあと思った。しかし、うまく自分の言葉にはできなかったのですが、今回かまどがまさんが指摘されたような内容も、その中には含まれているのかも知れません。
 たとえば荒井由実が松任谷由実になって、リゾート地に似合う軽やかで明るいポップソングを量産するようになった。ぼくはその頃の楽曲もけして嫌いではないのですが、そこにはもう、「ひこうき雲」のような深い内面性はなくなってしまいました。70年代と80年代との「差異」を象徴する事例のひとつでしょう。
 つまり、「芸術作品」から「作り手の内面」が脱色され、「商品」へと変質させられていったわけですね。80年代とはそういう時代であったと。
 村上春樹は1979年デビューだから、実質的には80年代の人ですが、それでも『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』までは「純文学」であったと思うんですよ。それが3作目の長編『羊をめぐる冒険』から、マーケティングを重視するようになっていく。
 これはクリエーターの側の話ですけど、では、彼ら/彼女らのつくる「商品」を享受(消費)していた一般ピープルたちはどうだったか? むしろ問題はこちらかもしれない。金回りがよくなり、生活に余裕ができたんだから、流行りの「現代思想」でも読んで思考を鍛えればよかったのに、カフェバーだディスコだサーフィンだスキーだと遊び回って、あとに何も残さなかった(あ。ゴミの山と財政赤字が残ったのかな?)。結局はそのツケが、「失われた十年」を経て今に至ってるように思うのです。学生運動の遺産がほとんど残らなかったように、バブルカルチャーの遺産もやっぱり残らなかった。日本という国は同じことばかり繰り返しています。そしてジリ貧になっていく。
 これこそまさにニッポンという風土の最大最強の特質なのではないでしょうか。「ラディカル」とは「根底的・根源的」そして「過激」という意味ですが、ものを真剣に考えていけば、どうしたってラディカルになるわけです。しかし、それは空気を乱すことでもある。だから最初から、なるべく、ものを考えないようにする。技術的なことや実用的なことは別ですよ。そういう思考はむしろ得意で、世界でもトップクラスなのですが、より根底的なことは考えない。あえて考えないよう努める。自分たちの拠って立つ基盤を揺るがさぬように。
 それが日本という国です。西欧の哲学を読んでいると、さながら炙り出しのように、わが国のそのような特質が見えてきます。この国のネット文化も結局はその延長の上にあるようで、近頃のぼくは、以前ほどネットの力を信じられなくなってきてるんですよね……。

投稿 eminus | 2012/11/20

なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。

2015-08-04 | 政治/社会


 そもそもなぜニッポンは、アメリカという、当時の世界にあってもほぼ最強というべき国と干戈を交えるに至ったのか。本来これは戦後を生きる日本人ならば老いも若きも常識として知っておくべき事柄であり、中学校の歴史の授業で真っ先に教えられるべきことなのだ。縄文式土器がどうしたなんて話をやってる場合ではなくて(いやもちろん、縄文式土器の話もものすごく大事ですけどね)、何よりもまずアメリカと交わした太平洋戦争、およびその当然の帰結としての敗戦と、そこから始まる戦後ニッポンの流れからこそ、歴史の授業は始められねばならない。そこが分かってなければ歴史を学ぶ意義とてないし、現代社会がなぜこのような状態になっているのかも分からない。つまり日々のニュースが分からない。授業と現実の生活とが乖離してしまっているわけで、当然そんな授業が面白くなろうはずもない。明らかにこれは生徒にとって不幸なことだ。その生徒がやがて成長して社会を担っていくことを思えば、もちろん日本にとっての不幸でもある。さらに言えば、戦後日本が近代史をろくに教えぬことは、それだけでもう他の国々、とりわけ中国と韓国に対して礼を失しているといえる。ぼくは正直、どちらの国も好きじゃないけど、失礼なのはやはりよくない。

 太平洋戦争の前段となった日中戦争をも含め、1931(昭和6)年の「満州事変」から1945(昭和20)年の敗戦までの戦争を指して、ここでは「十五年戦争」と呼びたい。満州事変とは、当時その地に駐留していた日本陸軍すなわち関東軍が、中華民国を相手に起こした武力紛争である。「事変」とはいかにも特異な用語で、この「満州事変」とそのあとの「支那事変」のほかに目にすることはほとんどない(いや、「東京事変」ってのもあったな。椎名林檎はたいへんな才媛で、このネーミングにも相応の含みがあるんだろうが、とりあえずここでは関係ない)。「事変」とは、「地域的に限定された小競り合い」であり、原則として現地において早期解決を図るべきものだ。「戦争」となると、これはもう国家同士の総力戦であり、国際法上、第三国からの輸入ができなくなるし、また、最後通牒~宣戦布告というものを経ねばならない。それらの理由から、これを「事変」と称したのである。

 さて。「中華民国が相手の武力紛争」とは言え、その頃の中国はぜんぜん一枚岩ではなく、清朝末期以来の軍閥がまだ各地に割拠し、多くの地域がほぼ無政府状態に近かった。一大勢力たる国民党の「北伐」によって軍閥は次々と打ち倒され、統合されつつあったものの、1928(昭和3)年の時点で満州に勢力を張っていたのは軍閥の張作霖だった。その一方、国民党と並ぶもうひとつの勢力として、毛沢東率いる共産党が急激に力をつけてきていたが、とりあえずこちらは満州とは関係がない。関東軍は張作霖を利用して満州の支配を画策するも、うまくいかなかったため、乱暴にも爆殺してしまう(最近になって異説も出てきているようだが、ここでは通説に従う)。それが1928年のことである。しかし長男の張学良がただちに父のあとを継ぎ、日本に抗うために南京の国民党政府と手を組む。謀略が裏目と出た関東軍は、その3年後の1931年に、自作自演の「柳条湖事件」をきっかけとして戦闘を仕掛ける。すなわち満州事変であり、これこそが、血みどろの泥沼というべき「十五年戦争」の始まりであった。

 共産党との確執を抱える国民党には正面切って戦う余裕はなく、関東軍はたちまち奉天を占領し、半年ほどで東北地方のほとんどを制圧下に置いた。しかし、そもそもどうして満州の地に日本軍がいるのか。それを説明するには第一次大戦から日露、日清戦争にまで遡行しなければならないけれど、話が進まないので今回は割愛する。重要なのは、日本政府が駐留を是認していたということだ。何しろ韓国を植民地として併合している。そのような時代背景である。たとえば英仏独なども租界や租借地を持っている。しかし日本の主観や主張がどうであれ、中華民国の側がそれを「侵略」と捉えていたのは間違いない。軋轢を生じるのも当然であって、満州事変はその軋轢の中で起こった。そして満州全域を制圧下に置いた関東軍は、計画どおり、「宣統帝・溥儀」を皇帝とする満州国を建国した。

 この辺りの経緯は、日中両国のみならず、イギリス、フランス、ドイツ、ソ連といった当時の列強のパワーゲームの中で考えなければ分からない。とりわけ地政学的にきわめて緊張を孕んだ関係にあり、約30年前に(当時はまだ露西亜であったが)戦火を交えた記憶も覚めぬ(日露戦争のことですよ)ソ連の影響は見逃せない。満州はソ連と中国との間にある。たとえばイギリスは、ソ連の南下を抑えるためには日本と対峙させるのが得策だろうと判断していた。そのような思惑が絡み合っての満州事変~満州国建国であったわけだが、さすがに国まで建てたとなると、軋轢はますます強くなってくる。それは初めから予測できたことで、それゆえ本国の日本政府は事変の折には「不拡大方針」を打ち出していた。これを押し切る形で現地の関東軍が事を進めていったのだ。先の大戦が、「軍部の暴走から始まった。」と言われるゆえんである。

 アメリカはこのとき、「門戸開放」を訴え、日本に対してかなり強硬な通達を送った。日本だけが満州の特殊権益を独占するのはおかしいという主張であり、約めて言えば我々にも市場をよこせということだ。日本はもとより受け入れず、これが日米関係悪化の一因となったのは間違いない。しかし国際社会は必ずしも日本に厳しくはなかった。満州国建国宣言が1932(昭和7)年の3月1日で、国際連盟が派遣した「リットン調査団」が報告書を出すのはその7ヶ月後。その報告書は日本にとってそれほど不利ではなく、むしろ「名よりも実を取らせてもらった」といえるくらいのものだったが、「満州国の承認」に拘る日本は翌33年、国際連盟を脱退してしまう。なおこの年、日本の国連脱退の少し前に、ドイツではヒトラーが首相の座に就いている。

 1936(昭和11)年、日本国内で226事件が起こる。大陸では、満州国の存在感が大きくなるにつれ、中華民国の内部で「抗日」という主題において結束が強まっていく。そして1937年、ついに盧溝橋事件が起こった。これは柳条湖事件とは違って策謀ではなく偶然に戦端が開かれたものだが、結果としては日中戦争(支那事変、また日華事変とも呼ぶ)の端緒となった。日本が華北にまで版図を広げようとしていたのは確かだけど、これは「華北分離工作」、つまり満州国と中華民国とを切り離そうという企図であって、当面のあいだは本格的に事を構えるつもりはなかった。補給線が伸びきって戦い切れぬのが明白だし、むろんソ連の脅威も気がかりだ。しかし、いざ始まってみると兵力だけなら数倍の筈の国民党軍が意外にもろくて、後退に後退を重ねるために、奥へ奥へと深追いしていくことになる。しかもこのかん、上海においても戦闘が始まり、戦線はさらに拡大する。

 当初のうち、支那事変は満州事変とまったく逆の推移をたどった。つまり開戦のきっかけはまったくの偶発であり、現地の軍はなるべく早めに事を収めようとしていたにも関わらず、東京のほうがさっさと増派を決めてしまったのである。満州でうまく行きすぎたために、相手をなめていたのであろう。すぐにでも降伏してくると思っていた。この甘い観測は、時の政府(近衛文麿内閣)のみならず内地の軍人の大半にも共有されていた。大局に立ってこの戦争の全容を見きわめ、しかるべきビジョンを持って掌握していた人物は、内閣はもとより大本営(陸海軍の最高統帥機関)にすら誰一人としていなかった。これが日中戦争の特徴であり、あえて言うなら十五年戦争全体にわたる特徴だった。とりあえず首都である南京を落とせば有利な条件で講和を結べる、といったていどの目算でいたようである。

 しかし、内地から大挙して兵が送り込まれ、いったん追走が始まってしまうと、今度は最前線が現地軍を引きずり、現地軍が大本営を引きずる形で、日本軍はどんどん侵攻していった。そして同年12月、各師団が競い合うように、南京へなだれ込んでいく。そこで起こった惨劇は、現在に至るもなお暗い影を落とし続けている。しかし日本国民がそのことを知らされるのは、9年後、敗戦ののちの東京裁判の時である(ただし、そこで公表されたことのすべてが科学的な意味での「真実」だとは言い難いけれど)。まともな情報を与えられない当時の国民は、提灯行列で南京攻略を祝った。

 南京陥落に先立つ1937(昭和12)年10月、アメリカ大統領ルーズベルトは、世にいう「隔離演説」を行い、枢軸国による侵略行為を非難している。日本のみならず、ドイツとイタリアもこの時すでに欧州の地で周辺に手を伸ばしつつあり、そのことを伝染病にたとえて警戒を促したものだ。すでにこれら3国は、1936(昭和11)年に「日独伊防共協定」を結んで連携してもいた。言うまでもなくこの3国の共通点は、帝国主義的な植民地獲得競争に出遅れたことだ。第一次世界大戦後の世界情勢に……より露骨にいうなら他の列強による利権分割のありように不満を抱き、強引にそれを組み替えようとしているわけである。

 とはいえアメリカは、まだ対決姿勢をさほど明確に打ち出したわけではない。「介入すべからず」との世論の趨勢に従い、ほぼ中立を保っていた。しかしルーズベルト(を頂点とする首脳部)はとうぜん日米開戦の可能性を十分に視野に入れていたはずである。日本が中国との講和のチャンスを捨てて、南京以外にもあちこちの町を落とし入れながら戦線を拡げていくにつれ、参戦に反対する世論の趨勢とは裏腹に、アメリカ首脳部の警戒はますます強まっていったことだろう。現に1938年には、大規模な軍艦建造計画に着手している。

 もともと、対決姿勢を明確に打ち出していなかったとは言っても、けして事態を傍観していたわけではない。日本側の見通しに反して中国軍が徹底抗戦を続けられた要因のひとつに、複数の「援蒋ルート」の存在が挙げられる。アメリカは英仏ソと共にこれを通じて軍需物資を送り、ずっと蒋介石サイドを援助していたのだ。それは決して道義的な動機からではないし(なぜなら彼ら自身がすでにして侵略のエキスパートなのだから)、全体主義国家の膨張を妨げるため、という綺麗事だけでも説明できない。後発国たる日本が、大陸において突出した力を持つのを絶対に許してはならない、との企図が厳然としてあったのである。

 1938(昭和13)年は一つの分岐点だったと言われる。近衛首相は「国民政府を対手(あいて)とせず。」との悪名高き声明を発表、これはすなわち蒋介石との交渉は今後一切しないということで、当然ながら相手を本気で怒らせてしまう。「東亜新秩序」を宣言したのもこの年であった。ざっくり言えば、「もう西欧列強は手出しをするな。この地のことは日本、満州国、中国だけで執り行う」との宣言であり、これがのちの「大東亜共栄圏」にも繋がっていく。しかし中国にしてみれば、むろんそんな言い分を聞く筋合いはない。これで第三国の仲介による講和の可能性も消え、日中戦争はさらに収拾がつかなくなった。

 しかも大陸での日本の敵は中国軍だけではなかった。そもそも彼の地に侵攻したのは、ソ連(当初は露西亜)に対抗せんがためである。そこに満州国を建てたのだから揉めないほうがむしろおかしい。この年には満州東部とソ連側との国境において、翌39年には満州と蒙古との国境ノモンハンにおいて紛争が起こる。若い人にもこの地名は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』で強烈に焼き付けられていることだろう。ノモンハンではソ連軍の機甲部隊によって完膚なきまでに打ち破られた。また中国国内にあっても、国民軍ばかりか毛沢東率いる共産軍のゲリラ戦にも苦戦を強いられる。

 大陸での戦闘が長期戦の様相を呈するに伴い、日本国内では「国家総動員法」が発令されて様々な統制が行われ、国民の自由は圧殺されていく。アメリカの態度もますます硬化する。日米両国が、太平洋を挟んでいわば遠い隣国だということを忘れてはいけない。39年、日米通商航海条約の破棄(翌年の期限切れのあとは更新しない旨)が通告される。いっぽうヨーロッパでは、38年にナチス・ドイツがオーストリアを併合、翌39年にはチェコをも併合し、アルバニアを併合したイタリアと軍事同盟を結ぶ。

 さらにドイツは、ソ連と不可侵条約を結んで後顧の憂いを絶つと、同39年9月、ポーランドに侵攻し、3週間で占領してしまう。それまでずっと弱腰であったイギリスとフランスも、ついにたまりかねて宣戦を布告し、ここに第二次大戦が勃発した。ドイツはなおも電撃作戦と称してデンマーク、ノルウェーに進出、さらに西部戦線を破ってベルギー、オランダまでをも占領し、イギリスをダンケルクから撤退させ、1940(昭和15)年6月には戦わずしてフランスを降伏させる。欧州の地でナチス・ドイツに抗しうるのはもはやイギリスだけとなった。

 まさに電撃というべきこのドイツの侵攻を頭に入れておかないと、このあとの流れは理解できない。1940年1月、かねてからの通告どおり日米通商航海条約が失効、その後もさらなる追加措置でアメリカからの物資・資財・原料の輸入の多くが途絶えた。とうぜん日本は焦りを強める(ただ、石油はまだ禁輸されてはいない)。そこで浮上したのが南進政策である。この計画が現実味を帯びてきたのは、むろん、ドイツの占領によってフランスが弱体化したからだ。同年9月、日本軍は北部仏印(現在のベトナムのハノイ周辺)に進駐するも、予想どおりフランスはこれを阻止できなかった。これ以降、「南進」が日本の主要方針となっていく。

 南進すなわち南方進出は、それが必然的に日米開戦の契機となった点で最大のキーワードかもしれない。ようするに、イギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカによって領有されている東南アジアに進駐し、あわよくばそこを傘下に収めんとする戦略であり、それを裏付ける理念として掲げられたのが「大東亜共栄圏」である。この理念は敗戦ののち長らく悪しき虚妄のイデオロギーとして厳しく指弾されてきて、ぼくなどもそういう空気の中で育った世代なのだが、どうも90年代の終わりごろから「白人種の支配からアジアを解放するための崇高な理念であった。」とする反動が始まり、今の若い人などはかえってそちらを信じているかもしれない。これら相反する見解のどちらがより実情に近かったのか。その答は、現地の人たちを日本軍および日本人たちがどう扱ったか、その結果として戦後の現地の人たちが日本に対してどのような感情を抱いてきたか、に掛かっているとぼく個人は思う。

 南進計画にはいくつかの目標があった。第一にはやはり、アメリカからの輸入に大半を依存していた石油の確保であろう。今だって石油がなければ文明生活は干上がってしまうが、当時の切迫感はあるいはそれ以上であったかもしれない。開国以来、無理に無理を重ね、国力のほとんどを傾けて建造した数々の軍艦が、石油がなければただの馬鹿でかい鉄の塊と化すのである。すなわち最大の戦略物資であり、果たして石油はのちに太平洋戦争開戦の主因となる。

 第二には、それと密接に関係するが、ドイツ、イタリアの席巻によってフランス、オランダ、そしてゆくゆくはイギリスが弱体化した際、それらの植民地をいち早く奪回せんがためである。もうひとつ、「援蒋ルート」の遮断も重要だった。援蒋ルートはぜんぶで四本あったとされるが、その内の一本、当時のフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジアあたり)に陸揚げされた物資を昆明まで鉄道輸送する「仏印ルート」を遮断したかったのである。むろんこちらは、出口の見えない日中戦争を終息に向かわせんがための手立てだ。

 1940(昭和15)年9月、松岡洋右外相によってベルリンで日独伊三国同盟が締結される。これは36年の「日独伊防共協定」からさらに進んで、はっきり米英と軍事的に対抗する姿勢を打ち出した点で、よりいっそう踏み込んだものであった。松岡外相はその帰途モスクワに寄ってスターリンに会い、それが翌41年4月の「日ソ中立条約」へと繋がる。この条約によってソ連は来たるべきドイツとの戦いに備えることができ(独ソ不可侵条約はまだ有効ながら、いずれ破られることは独ソとも織り込みずみだった)、日本は大陸での北からの脅威を抑えて南進に専念できると期待した。なお、もとより中国との戦争は引き続き膠着状態である。

 この松岡洋右外相は、当時の状況を理解する上でのキーパーソンの一人だろう。先に国際連盟を脱退した際の代表でもあったが、その力はわれわれが想像する今の「外務大臣」より遥かに強く、「日独伊三国同盟」にせよ「日ソ中立条約」にせよ、むろん本国の承認があってのこととは言いながら、この人の「豪腕」によるところがかなり大きかったようである。通説では、この人が独・伊、それにソ連との接近を強めて米英を蔑ろにしたからいよいよ日米関係が悪化した、とされているが、じつは松岡こそがもっともアメリカの怖さを知悉しており(若き日にアメリカで苦学した経歴を持つ)、アメリカとの交渉を少しでも有利に進めるための切り札として、あえて独伊ソと提携したのだという説さえある。

 それは買いかぶりすぎだろうけど、かといって、ドイツとソ連とがこのままずっとバカ正直に不可侵条約を守って仲良くすると考えるほどナイーブだったとも思えない。しかし、仮に彼が深謀遠慮を抱いていたとしても、その雄大なるプランは彼の胸のうちに留まり、政府や軍部に共有されることはなかった。これもまた、十五年戦争全体にわたる情けない通弊の一つであった。意志の疎通が図れず、ゆえに統一もなかなか図れない。こういった齟齬の積み重ねが、最終的には膨大な数の犠牲者を生むこととなるのである。いや、情けないでは済まない。身の毛のよだつ話である。

 いちおうここでは、松岡が独ソ不可侵条約を過信していた、として話を進めよう。日本の首脳部がその路線をとったのだから、そう仮定して支障はない。独伊と同盟を結ぼうと、ソ連と中立条約を締結しようと、つねに日本にとって最大の脅威がアメリカだったのは間違いない。日ソ中立条約の成立から3日後、ワシントンにて日米交渉が開始される。しかし前述のとおり欧州ではすでに第二次大戦が起こっている。アメリカとイギリスとは切っても切れない仲であり、対米対英協調と日独伊三国同盟とは両立しない。このとき、日米関係の好転を望む近衛内閣と、三国同盟を堅持して対米強硬を貫こうとする松岡外相とのあいだで食い違いが生じ、すったもんだのあげく松岡のほうの意が通った。とうぜん日米交渉は難航するが、そんななか、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻する。同盟国たる日本には事前に何の通知もなかった。日ソ中立条約締結から、わずか2ヶ月あとのことである。日本側は動転した。

 「日独伊三国同盟にソ連を加えた4ヶ国による協商をつくり、その圧力によってアメリカをアジアから撤退させて日中戦争を解決し、それと共に武力南進によって東南アジアを制圧して、日本を盟主とする『大東亜共栄圏』を確立せん!」とする(今日から見ればあまりにも虫のいい)日本側の目論見は、ここにおいてその大前提を覆されたのである。それでもなお、「大東亜共栄圏」の理念は、侵攻を正当化するイデオロギーとして、敗戦の日まで生き続ける。

 ドイツのソ連侵攻からほぼ十日後の41年7月2日、情勢の急変を受けた日本は、御前会議にて「南方進出の態勢を強化」し、この目的の達成のためには「対英米戦を辞せず。」との決議を定める。いわゆる帝国国策要綱である。具体的には、北部に続いて南部仏印(現在のベトナムのホーチミン付近)にも駐留しようという趣旨であったが、これは太平洋戦争の可能性を明記した最初の記録として知られる。その一方、ドイツの侵攻に乗じ、あわよくばソ連を攻めるべく、関東軍特別大演習の名目のもとに大軍をソ・満国境に動員する。しかしこれはさすがに実戦にまでは至らず、結果として、のちに「日ソ中立条約を先に破ったのは日本だ。」という口実をソ連に与えただけに終わった。

 この頃もうアメリカは、日本側の決議を知っており、いちおう交渉は続けながらも、経済制裁を強化するほかに、中国への支援を増やしたり、太平洋艦隊をハワイに集結させるなどの措置を取る。それでも近衛内閣は、いったん総辞職することによって反米派の松岡外相を切り、それ以外はほぼ同じ顔ぶれで第三次内閣を組んでアメリカとの関係改善を図った。しかし7月28日、軍部は先般の決議にしたがい「南部仏印」への進駐を断行してしまう。アメリカ側から見るならば、これは日本が南方制圧のための軍事基地を確保したことを意味する。マニラからシンガポールまでが攻撃圏内に入った。アメリカはただちに在米日本資産の凍結令を発し、イギリスと、かなりの数の日本企業が進出していた蘭印(オランダ領東インド。現在のインドネシア)もこれに倣う。AMERICA/BRITAIN/CHINA/DUTCH。日本側の呼称でいうところの、ABCD包囲陣である。

 かなり圧迫されていたとはいえ、まがりなりにも政府がアメリカとの関係改善を図っている時に、軍部がそれを台無しにする行動を取るということは、当時の日本の意志決定機能がいちじるしく乱れていた証左といわざるをえまい。つまり先にも記した「意志統一の不徹底」による齟齬のひとつだ。そしてアメリカは、ついに8月1日「石油の対日禁輸」へと踏み切る。前回の繰り返しになるが、この頃の日本は石油のほとんどをアメリカに頼っていた。今だって石油がなければ文明生活は干上がってしまうが、当時の切迫感はあるいはそれ以上であったかもしれない。開国以来、無理に無理を重ね、国力のほとんどを傾けて建造した数々の軍艦が、石油がなければただの馬鹿でかい鉄の塊と化すのである。すなわち石油は最大の戦略物資であった。これが断ち切られたのである。

 周辺において石油が出るのは蘭印(オランダ領東インド。現在のインドネシア)くらいだ。日本が生き残りを画するならば、かねてからの計画どおり、一日も早く蘭印に南進するしかないが、そうなればとうぜん、フィリピンを領有するアメリカや、マレー/シンガポールを領有するイギリス、それにもちろんオランダ相手の全面戦争を余儀なくされる。南部仏印への進駐によって、逆に日本はそこまで追い込まれてしまったのである。

 それにしても、その国との交易が途絶えたら生きていけぬのに、当のその国と事を構えるなどというバカな話があるのだろうか。そもそもそのような国を敵に回すこと自体が根本的な矛盾ではないか。そう考えていくと、結局は黒船来航の時からすでに日本は、好むと好まざるとに関わらず、逃れようもない罠に捕らわれていたとしか言いようがない気もする。向こうが勝手にルールを決めた、しかもイカサマだらけのゲームの卓に、ずいぶん遅れて無理やりに座らされたようなもんじゃないかと思うのである。むろん太平洋戦争が必然であったなどとは思わぬし、いや、仮にそれが不可避であったとしても、あれほどの犠牲を出す前に講和に持ち込む方策があって然るべきであったとも思う。しかしそれでも、開国~維新~死に物狂いの近代化という一連の流れを思うにつけ、戦前・戦中のニッポンという国に対して、その忌まわしさ、愚かしさ、おぞましさをも含めて、一抹のアハレを覚えざるをえない。いわゆる修正史観、新自由主義史観に立つ者たちは、おそらくはそこを過剰に強調しているのであろう。ただし、被害を与えた国と地域の人たちに、そのような感傷を共有するよう強いることは決してできないはずである。

 もうひとつ大事なことを指摘しておきたい。繰り返すが、アメリカは、南部仏印(ベトナムのサイゴン。現ホーチミン付近)進駐の制裁として日本への石油輸出を禁止した。つまり南部仏印進駐は、日本にとっては「ルビコン河を渡る」ほどの選択だったということだ。それなのに、その重要さを理解して押し留める人物がいなかった。アメリカの出方を甘く見積もっていた。情報収集力および分析力の欠落。これもまた、十五年戦争全体にわたる情けない通弊の一つであった。このあとはもう、いうならば、奈落の底へと続く斜面をずるずると滑り落ちていったようなものである。

 「パール・ハーバー(真珠湾攻撃)はアメリカによる謀略の産物だった。日本はいわば乗せられたのだ」という言い方がある。これはさすがに粗雑すぎるとぼくは思うが、しかしルーズベルト大統領を初めとするアメリカ首脳部がそうとう早い時期から対日戦争を目論んでいたのは確かであろう。ぼくの手元にあるのは日本サイドの文献ばかりで、アメリカ側の資料がないので明瞭なことは言えないけれど、アメリカが恐れていたのはナチス・ドイツが一挙にソ連までをも陥れることだけで、日本などはどうにでもなると考えていたとしか思えない。だからスターリンのソ連がナチス・ドイツ軍を撃退しうると判明した時点で(それはわりあい早く分かったようだ)、日本に対しては徹底して強気に出たのである。

 「ハルノート」はよく知られているが、その前に「ハル四原則」というのがあった。当時のアメリカ国務長官で、日本との交渉の相手役だったコーデル・ハルによる「諒解案」である。諒解案とは、和平のための条件ではなく、「とりあえずそちらがこれを呑んだら当方は交渉のテーブルに着いてあげるよ。」という前提条件だ。それが初めて提示されたのは41年の4月、しかも当時の松岡外相とは別ルートからの打診であった。まったく同じ時期に「日ソ中立条約」を成功させて意気揚々と帰国した松岡外相がこれを知って激怒し、独伊との同盟に固執したのは無理からぬところもあったのだ。これもまた、「意志統一の不徹底」による齟齬のひとつであろう。その「ハル四原則」とは以下のようなものだった。

 日本は ①あらゆる国家の領土を保全し、主権を尊重せよ。 ②他国の内政に干渉するな。 ③通商上の機会均等および平等を守れ。 ④平和的手段に依らずに太平洋の現状を変更するな。

 ①はもちろん日本軍の中国からの撤退を意味し、場合によっては満州国からの撤退も含むとも取れる。④はもちろん武力南進政策の否定である。つまり当時の日本の政策をすべて覆せという話であり、しかもそれが「交渉のテーブルに着く」ための条件なのである。これでは進捗しないのも無理はない。「アメリカは本気で交渉するつもりなどなく、開戦のための引き伸ばしをしていただけだ。」という説もここから出てくる。実際そうだったとしか思えぬが、ただ、どの辺りからそうなったのかは前述のとおりはっきりとはぼくには分からない。

 さて。41(昭和16)年8月、石油の輸入を絶たれたあとも、近衛文麿首相はアメリカとの交渉を模索しつづける。アメリカと戦って勝てないことは、嫌というほど分かっている。それはむしろ政府より、海軍、陸軍こそが百も承知しているはずだが、しかし永野修身・軍令部総長は、「油の供給源を失うとなれば、2年の貯蔵量を有するのみ。戦争となれば1年半にて消費し尽くすこととなるを以って、むしろこのさい打って出るの外(ほか)なし。」と上奏をする。軍部の中にも慎重派はいたようだが、それらの意図とは反して、「開戦やむなし」の気運は高まりつつあった。座して死を待つよりも、むしろ死中に活を見い出せということか。確かに軍というのはそういうもので、いわば存在自体がすでにして「戦争」を指向しているものだと思わざるをえない。

 そんななか、近衛が一縷の希望をつないでいたのは、ルーズベルトとの首脳会談だった。いろいろと画策し、もし会談を実現させてもらえるなら、「ハル四原則」の受け入れに加え、「中国からの全面撤退」さえも独断で呑む気でいたほどだったが、しかしハル国務長官は、もはやまともに取り合ってはくれない。その間も、石油の枯渇を何より恐れる海軍を先頭にして、対米戦に向けての気運が盛り上がっていく。陸軍もむろん負けてはいない。そして1941(昭和16)年9月6日、御前会議にて「帝国国策遂行要領」が決議される。事実上これが、日米開戦へ至る運命の決議となった。

 近衛首相が文字どおり「身命を賭して」開戦を回避したかったのであれば、まずはこの9月6日の「帝国国策遂行要領」の決議をこそ断固阻止するべきであったろう。しかし彼の関心は、実現するかどうかも分からないルーズベルト大統領との首脳会談のほうに向いていた。いかに心から避戦を願っていたとは言っても、つまりは目の前の軍部と対峙して命がけで説き伏せることから逃げ、手の届かない彼方の希望を追っていただけじゃないかと評価されても仕方あるまい。

 とはいえ、9月6日の「帝国国策遂行要領」はまだ開戦そのものを決めたわけではなく、交渉の余地をも残していた。近衛首相はそれに縋って働きかけを続けるも、依然としてアメリカから捗々しい応答はない。9月25日、政府と大本営(陸海軍の最高統帥機関)との連絡会議の席上で近衛は、10月の半ばまでには開戦の決断をせよと迫られる。しかも、「対米戦を始めれば、当然ながら対ソ戦も覚悟せねばならない。」とこの席で軍部のトップは言明した。アメリカの戦力は日本のほぼ2倍強で国力は10倍、ソ連の戦力は11倍とされる。中国との戦争を抱え込んだまま、これら二国と事を構えようとは、いったい軍首脳部は、このとき何を考えていたのか……。

 対米交渉も座礁し、かと言って開戦の決定もできない近衛首相はとうとう辞任してしまい、後任として、それまで彼を責め立てていた東条英機・陸相が首相の座に座る。10月18日のことだ。とうぜん開戦および戦争遂行のための組閣かと思いきや、意外やそれがそうでもなかった。これは大日本帝国という、世界史レベルで見ても面妖きわまる政体のことを知らねば分からない。東条はむろん主戦派ではあったが、それ以上に純粋な天皇崇拝者であって、とりあえずのところ、9月6日の御前会議で決まった帝国国策遂行要領を速やかに履行するよう近衛に迫っていたわけなのである。天皇は一貫して非戦の意向であったが、じつはそのことが東条にうまく伝わっていなかった。だから首相就任に当ってその旨を知らされたとき、「自分の使命は目前の開戦を全力で回避することだ。」と東条はいちどは心に決めた。

 となれば交渉の継続だが、しかし先にも述べたとおり、肝心の交渉相手のアメリカにこの時もう戦争を避ける意志がなかったとすれば、これはいかにも詮無いことだ……。当時の日本としては最大限の譲歩であった「甲案」、さらには「乙案」までをも提示したものの、依然として態度は変わらない。しかもこの間の会議の模様や計略なども、外交電文の解読によって、向こうには筒抜けであったらしい。さらに日本は、交渉と並行して開戦のための準備も整えており、和平への努力とは言いながら、ありようは時間稼ぎと見なされていたことだろう。ただしその点はお互い様には違いない。11月5日の御前会議にて、「対米英蘭戦争を決意し」「武力発動の時期を十二月初頭と定め」、交渉の期限を12月1日午前零時とする帝国国策遂行要領を決議。11月26日、俗に「最後通牒」といわれるハルノートが突きつけられる。そして12月1日、御前会議にて「8日開戦」の決議がくだされた。

 「絶対とは申し兼ねます。…… 必ず勝つとは申上げ兼ねます。」

 「開戦二ヶ年の間必勝の確信を有するも…… 将来の長期に亘る戦局につきては予見し得ず。」

 「戦争の短期終結は希望する所にして種々考慮する所あるも名案なし。敵の死命を制する手段なきを遺憾とす。」

 これらは当時の軍の最高指導者たちの言葉である。勝てるなどとはまったく思っていないのがわかる。「吾人は二年後の見通し不明なるが為に無為にして自滅に終わらんより難局を打開して将来の光明を求めんと欲するものなり。二年間は南方の要域を確保し得べく全力を尽くして努力せば、将来戦勝の基は之に因り作為し得るを確信す。」というのもある。あれこれ言葉を連ねているが、要するに、「ここまできたら、一か八かやってみるよりしょうがない。今は八方ふさがりだけど、やってみたらどうにかなるかもしれない。」ということだ。「戦争に負ける。」というのが一体どういうことなのか、その過程で一般の兵士や国民たちはどんな目に合うか、何ひとつ分かってはいない。想像力がまるっきり働いていない。考えようとすらしなかったのかもしれない。ひとつ疑問に思うのは、この人たちはとりあえず安全な場所に身を置いて、命の危険はないわけだけど、もし指揮官として前線に立っていたならば、必敗と承知している戦をやる気になっただろうか、ということだ。

 開戦を決した12月1日の御前会議に先立ち、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に終結した六隻の空母と随伴艦は、いっせいに錨を揚げ、ハワイを目指して出航していた。1941(昭和16)年11月26日のことである。御前会議の直後、艦隊の司令に向けて「8日開戦」の指示が出された。ハワイの真珠湾から発してマレー沖、シンガポール、ミッドウェー海域、ガダルカナル島、アッツ島、サイパン島、レイテ島、硫黄島にまで及び、半島と諸島とをあわせた東南アジアの広大な地域を戦火にまきこみ、やがて本土では二発の原子爆弾と数次にわたる大空襲を含む壊滅的な空爆をもたらし、沖縄の地への上陸を招き、軍人・軍属・民間人を併せて300万人近い死者を出して、日本そのものを破滅の淵にまで追いやった3年9ヶ月に亘る太平洋戦争は、このようにして始まったのである。情報を与えられない日本国民、いや、大日本帝国の臣民たちはこのとき、長きにわたる閉塞状況が打ち破られたと歓喜して、喝采をもって開戦の報を迎えた。


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