金曜ロードshowで観たんだけど、思った以上に良かったですね。笑えたし泣けた。世評というのは侮れません。日本アカデミー賞の最優秀編集賞ですか。脚本のほうは優秀賞どまりか。最優秀は『万引き家族』だったんですね。しょうがないか。あっちは社会派だもんね。テーマの重さが違うわなあ。
『カメ止め!』のばあい、「父と娘のきずなの回復」が隠し味(いやべつに隠れてないか)になってるんだけど、ほんとの主題は「映画づくりにかける情熱」でしょう。あの監督の父親(濱津隆之)にしても見習いADの娘(真魚)にしても、また元女優の母親(しゅはまはるみ)にしても「根っから映画が好き」ってことで通じ合ってるんですね。ただ、父親のほうは「便利屋」としての賃仕事だけで長年食ってきたもんで、今やもう「作家」ではなく、ていのいい「雇われ職人」に成り下がってる。上(プロデューサー)にも下(俳優)にも気を使いまくってね。
まだアルバイトの身分で、世間の荒波に揉まれてなくて、本気で「映画づくり」に向き合いたい娘は、そんな親父がもどかしくってならない。ケーベツしてるわけですよ。なんでそんなに卑屈なんだと。オメエ監督だろ? 監督だったら、たとえ埋め草みたいな駄作だってわかってても、全力を尽くして納得のいくもん作っていけよと。
ま、それができれば苦労はしないんだけどね。げんに娘は、撮影の進行そっちのけで子役にホンモノの涙を流させようとしたために、その母親を怒らせて現場を放り出されるわけだし。実情はそんなもんですよ。
父親だってね、実力と実績さえあればなんもペコペコする筈ないわけさ。さしたる才幹もないくせに、「映画が好き」って情熱だけで業界に入って、とりあえず目先の仕事を「来るもの拒まず」でこなしてるうちに齢を重ねちゃったタイプだよね。幼い日の娘を肩車してる写真をこっそり見ながら咽び泣くシーン、いいよね。日本人ならアタマのなかに、寅さんこと渥美清のうたう「男はつらいよ」の替え歌が流れるところだ。
「い~つ~かお前の喜~ぶような えらい親父になぁりたくて 奮闘~努力の甲斐もなく きょおおおもなみぃだの~」
今日も涙の日が落ちるってやつですよ、まさに。
ほんとは自分だって精魂込めた名作を撮りたい。でもぜんぜん及ばなかった。たぶんこの先も駄目だろう。ていのいい職人として、便利屋としてずっとやっていくしかない。
コネを大事に、波風立てず、世間をわたっていくしかない。
言いたいことは山ほどあるけど、こらえてこらえて、ぜんぶ腹の底にぐぐーっと収めてやってきた。これまでも、これからも。いや、なにも「ものづくり」の人に限った話じゃないよね。社会人ならだれだって身につまされるよなあ。
だから本番、代役できゅうきょ監督役になったこの人が、自分(と作品)をナメきってる主演女優(秋山ゆずき)に向かって、
「なんで嘘になるか教えてやろうか? お前の人生が嘘ばっかりだから。嘘ついてばっかりだからだよ!」
とアドリブで本音をぶっつける場面が(序盤ではなく、後半の2回目の時だけど)カタルシスになるんですよね。
いっぽうの男優(長屋和彰)のほうはその逆で、とかく考えすぎ、こだわりすぎるタイプ。真摯なのはいいんだけど、監督を蔑ろにしてる点では同じ。でもって、この人にもガツンと言ってましたね。
「これはオレの作品だ。オレの作品だよ! お前はリハの時からぐだぐだぐだぐだ口ごたえばっかりしやがって!」
もう思ってることそのまんまだな。奥さんが(この時はまだ冷静だったんだね)慌てて止めに入ってました。もちろんこれも、後半の2回目でわかることですが。
序盤の37分の映像内にあった退屈な部分、冗漫な部分、おかしな部分、不可解な部分が後半になって明確な意味を帯びてくるくだりの快感は『アフタースクール』『サマータイムマシン・ブルース』に通じるし、アクシデントやトラブルを現場のスタッフが取り繕いながら必死でつじつまを合わせていく愉快さは『ラヂオの時間』に通じる。
あの序盤の37分のC級ホラーパートはほんとに下らないんだけど、ホラーをワンカットの長回しでやりゃあ、あんなもんですよ。ホラーってのはカメラワークとカット割りで恐怖を煽ってくもんなんだから。あんな企画を思いつくプロデューサーなんて、あの「超適当」なおばさん(笹原芳子)と「ふつうに適当」なイケメンさん(大沢真一郎)くらいなもんで、だからこそあの企画はどの監督にも断られて、あの人に回ってきたのな。
感心すべきは、裏ではあれだけグダグダになってたのに、スタッフや機材が、たった1ヶ所を除いてまったく映り込まなかった(という設定になってた)点ですよ。どれほどバカげた出来であろうと、あのゾンビ映画『ONE CUT OF THE DEAD』が曲がりなりにも「映画」として成立してたところがミソなんだ。
むろん、いちばんの見どころは、出演男優めあてで押しかけてた娘が、モニター越しにみる父親の熱気にだんだん当てられていって、ついには「カメラ、いったん止めましょう」と言ったプロデューサーに逆らい、「このシーンとこのシーン繋げたら大丈夫だから」てなこといって、勝手にディレクターと化してみんなを仕切り出すくだりですよね。
つられて他の出演者たちも、だんだんマジになってくる。あそこはワクワクもんでした。
でもってラストが、役者も裏方もみんな総出でつくったピラミッドのてっぺんで、監督と当の娘が在りし日の「肩車」を再現し、それを奥さんが(脳天に斧を突っ立てたまま)見守ってる場面でしょ。これは泣くよね。
予算がなくて出演陣が無名でも、アイデアと熱意と才能があれば良い作品は作れるってことの証明というべき一作でした。上田慎一郎監督、最優秀編集賞おめでとうございます。
画像はネナ・チェリー。
Youssou N'Dour - 7 Seconds ft. Neneh Cherry
https://www.youtube.com/watch?v=wqCpjFMvz-k
昔むかし、ラジオだか有線だかで耳にして、すごく心に残ったんだけど、調べる術(すべ)とてないままに、雑事に紛れて流れちゃった。ま、よくある事です。それっきり思い出すこともなかったんだけど、この前たまたま聴いてたFMで掛かって、「おお、これこれ」って。
ありがたいことに、今は当時と違ってたいていの局がオンエア曲のリストをホームページにあげてくれている。それですぐに曲名&アーティスト名がわかって、これまたありがたいことに、youtubeで聴かせていただいて、こうしてご紹介もできるという。
Youssou N'Dourは、カタカナで表記するならユッスー・ンドゥール。そういやミシェル・ンデゲオチェロという凄い女性シンガーもいる。現代アフリカ文学にはングーギ・ワ・ジオンゴという巨匠がいるし、アフリカの人の名前もOKというルールにしたら、しりとりに勝負はつきませんね。いやそんな話はどうでもいい。
リリースは1994年。すぐにヨーロッパのチャートを席巻したとか。ぼくが耳にしたのもその頃のはずだから、もう四半世紀も前かあ。まさに光陰矢のごとし。「人の一生は、戸の隙間から、白馬が駆け抜けていくのを覗き見るほどに短い。」というコトワザが中国にあるそうだけど、ほんとにそんなもんかもしれない。
あらためて聴くと、やっぱり良かった。なぜかナミダが滲んできました。たんに「いい曲」ってだけじゃなく、ぐいぐいと心に迫ってくる。これはきっとなんかあるに違いないと思って、さらに調べてみたですよ(ネットの恩恵その③)。
Youssou N’Dourは、アフリカはセネガルの出身の歌手。セネガルに古くから伝わる音楽や思想を伝える「語り部」の血を引き、伝統音楽にポピュラー・ミュージックの要素を取り入れた独自の音楽性で知られる。歌手活動のほかにもパーカッショニスト、俳優としても活躍、さらには政治活動も活発に行い、2012年からはセネガルの文化観光大臣も務めたそうな(その後、内閣がかわって、1年ほどで解任されたようですが)。
歌詞は3ヶ国語で書かれ/歌われてるとのこと。まずユッスーがウォロフ語(セネガルに住むウォロフ族の言語)で歌い、次のパートは女性シンガーのNeneh Cherry ネナ・チェリーが英語で、そして次には再びユッスーがフランス語で歌う。これはもちろん、セネガルが1960年(ついこのあいだじゃん)まで、フランスの植民地だったからですね。ぼくが聴いても、彼のフランス語は上手くない。めちゃ訛ってます。そこがリアルなんだろうな。
しかしなんといっても、この歌の魅力はふたりの声が重なるパート。ここがむちゃくちゃ強烈で、ぼくの耳に四半世紀も残ってたんですが。
(It's not)a second
7 seconds away
Just as long as I stay
I'll be waiting
It's not a second
7 seconds away
Just as long as I stay
I'll be waiting
I'll be waiting
I'll be waiting
この「私」が「できうるかぎりそこに留まる」といい、さらに「この先もずっと待ち続ける」と歌うその「7秒間」ってなんなんだろう。ビデオクリップの映像を観ても、たんなる男女の色恋沙汰とか、そんなものとは思えない。
ネット上の解釈では、「新生児がこの世に生まれ落ちて最初の7秒間」という解釈が有力ですね。そしてそれは、「世界が抱える様々な問題について、何も知らないでいられる時間」という含意らしい。いろんな人がそう解釈してるってより、ひとつ強力なネタ元があって、それを他の方々が拝借してるって印象でしたけど。それでまあ、ぼくもそのうちの一人なんですけども。
この節の前の、ネナが歌う英詞のパートがこうなっている。
And when a child is born into this world
It has no concept
Of the tone the skin it's living in
「問題」っていうか、conceptだから「概念」かなあ。でも、「肌(の色の違い)がもたらす概念」なんだから、ただの概念じゃなく、葛藤を含んでいるのは確かですね。
さらにその前のパートは、
Roughneck and rudeness,
We should be using, on the ones who practice wicked charms
For the sword and the stone
Bad to the bone
Battle is not over
Even when it's won
なんとなくわかるんだけど、ぼくの英語力では、すっきりと日本語にならない。
粗野や不作法、私たちはもう、使ってなきゃだめなんだ。
剣と石とのおかげで、邪悪な魅力を湛えた連中。
やつらは骨の髄までのワル。
闘いは終わらない。
勝利の後でも。
だいたいそんな感じだろうけど、自信ない。ラスト2行は、「やつらは争いをやめようとしない。/もうとっくに勝ってるのに」かな? 短すぎて主語がわからんよ。うーん。まあいいや、最初ので行きましょう。
なめらかな日本語にして、つなげてみると、
私たちはもう、粗野や不作法を我慢してちゃだめなんだ。
剣と石が大好きな、邪悪な魅力を湛えた連中に抗うために。
やつらは骨の髄までのワル。
闘いは終わらない。
かりそめの勝利の後でも。
赤ちゃんがこの世に生まれ落ちたとき、
まだ何も知らない。
肌の色の違いがこの先の人生でもたらす色んなことを。
それはたったの1秒じゃない。
7秒あるんだ。すぐに過ぎ去っていくけれど。
私はできうるかぎりそこに留まる。
この先もずっと待ち続ける。
それはたったの1秒じゃない。
7秒あるんだ。すぐに過ぎ去っていくけれど。
私はできうるかぎりそこに留まる。
この先もずっと待ち続ける。
待ち続ける。
この先もずっと。
ほんと試訳なんで、でたらめかも知れないけど、とりあえず私はこう意味を汲みました。
「まだ何も知らない」時間というのは、まあ、純粋無垢な時間なんでしょうね。ただ、じっさい医学的というか、認知心理学的というか、新生児が出生ののち外界を認識しはじめるまでの時間が「7秒」だっていう科学的裏付けがあるわけじゃない。あくまでもこれはこの歌の中だけのフィクションですね。
あと、それが「1秒」ではなく「7秒」なんだと強調してるけど、ぼくには1秒も7秒も大差ないように思えるんだけどなあ。いやいや、その「有るか無しかの僅かな差」に思いを込めて、希望を懸けてみるっていうのがこの歌のキモか。
ユッスー・ンドゥールさんは、上で述べたとおり2013年に政権がかわって大臣を解任されたんだけど、wikipediaによれば、そのあとでまた(当然ながら)音楽に復帰したそうです。あと、ネットを逍遥しているうちに、それよりも前の話になりますが、
9.11テロの後、イスラム教徒への反感が高まる中、「平和を求める本来のイスラム教の姿を知って欲しい」と、「エジプト」プロジェクトを立ち上げた。当初は、こうした活動に対し、イスラム教徒からの反発もあった。しかし、セネガル伝統音楽にポップスの要素を加えた歌は世界中で大ヒット、2004年米グラミー賞を受賞する。イスラムゆえの葛藤を抱えながら、音楽で人々に平和や幸福を訴えかけている。
という記事に出会って、いろいろと感じるところがありました。
第三世界というのは、音楽と政治との距離が近くて、そのぶんすごく熱いんですね。ちょっと羨ましい気もする。それにしても、7 Seconds、意味がわかるとますます心に沁みる良い曲だ。
虫の好かない上司ないしお得意さんの接待をして、丸一日を棒に振ってしまった帰り際、「今日はほんとうに楽しい一日を過ごさせて頂いて」と口にするとき、あなたはアイロニーを実践している。だからアイロニーは、たんに「皮肉」と訳されたりもする。ただこのばあい、それが皮肉だと(少なくとも露骨には)受け取られぬよう、細心の注意を払わなければなるまいが。
むろん、もっと高尚なアイロニーもある。ソクラテスは「私は何も知らない。だから私に、あなたの知っていることを教えてくれ」というアイロニーを駆使して人々に対話を仕掛けた。これによって、問答の相手が「知ってるつもりでいただけで、じつは何も知らなかった。誠実に物事を考えたことがなかった」ことを暴いたのである。文書として残っている中では、これはおそらく人類史上初めての「哲学的実践」だろう。一部の人たちは感動してソクラテスを尊敬したが、もっと多くの人たちは「どんだけ嫌味なヤローだ。すっげームカつく」と怒った。結果、(まあそれだけが理由じゃないけど)ソクラテスは裁かれ、毒杯を仰ぐ羽目となった。アイロニーを使うのは時として命懸けである。
しかし人間という生きものが、自分に対しても他人に対しても社会に対しても「どこまでも誠実」であり続けることなどできない以上、アイロニーは人間の営みすべてに付いて回るともいえる。ことに文藝のような知的営為においては。そこに目を付けたフランスのジャンケレヴィッチさんって哲学者が、『イロニーの精神』(ちくま学芸文庫)という本を書いた。けだし、アイロニーは一冊の本が著せるほど深いテーマなのだ。
又吉直樹の『火花』(文春文庫)にも、アイロニーを使ったくだりがあった。苦楽を共にしてきたコンビの解散記念ライブ。「よーし、ほんなら今から、思てんのと反対のこと言うていくでー」と宣言して、相方への悪口を述べ立てていくのだ。ふつうなら照れ臭くて言えない気持を、裏返しにして伝えるのである。泣かせどころだが、あらかじめ「反対のことをいう」と断っているので、響きが薄い気もする。
ぼくが近ごろ出会った最上のアイロニーは、『おんな城主 直虎』の8月20日放送分「嫌われ政次の一生」のワンシーンだ。『おんな城主 直虎』について予備知識のない方は、当ブログ8月3日の記事「『おんな城主 直虎』がおもしろい。」をご覧ください。
いよいよ政次の処刑が決まり、ほかの僧たちと共に直虎は立ち会う。彼女は尼僧でもあるので、「引導を渡す」という名目で刑場に臨むわけである。磔刑台に括りつけられる政次。満身創痍で痛々しく、髪もざんばら。かつての切れ者「但馬守」の面影はない。直虎は目を背けることなく、彼を注視している。
執行役の兵がふたり、左右から槍を構える。テレビの前のぼくは、脚本の森下佳子さん、一体ここで直虎に何をさせるんだろうと思っていた。ただ黙って一部始終を見守っているだけでは、21世紀の大河ドラマのヒロインではない。おれだったら直虎にどんな行動を取らせるかなあ……。いやあ……ちょっと思いつかんなあ……。
じっさいの展開は、ぼくなどの思いもよらぬものだった。テレビ業界の激戦の中で日々しのぎを削る売れっ子ライターの真価を見た気がする。なんと直虎は、一躍して傍らの兵から槍をもぎ取ると、磔刑台に駆け寄り、気合一閃、自らの手で、それを政次の胸に突き立てたのである。
柴咲コウさんは目が大きい。その目をかっと見開いて、「眦(まなじり)を決する」という慣用句そのままの形相で、こう叫ぶ。
「地獄へ落ちろ、小野但馬。地獄へ……。ようも、ようもここまでわれを欺いてくれたな。遠江(とおとうみ)一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわッ」
ここまで半死半生のていだった小野政次、さらに胸を一突きされて、絶息しても不思議はない筈のところだが、最愛の女性・直虎からの呼びかけに、逆に一瞬、生気がよみがえる。若き名優・高橋一生、これが最後の(そしてたぶん最高の)見せ場だ。よもや演技にぬかりはない。
ぐふ、ぐわあっ、と血を吐いて、
「笑止! 未来など……。もとより女(おなご)頼りの井伊に、未来などあると思うのか。生き抜けるなどと思うておるのか。家老ごときに容易く謀られるような愚かな井伊が……。やれるものならやってみよ。地獄の底から……見届け……」
ここまで述べて力尽き、首を垂れる。
直虎、槍を取り落とす。
いうまでもないことながら、政次に向けた直虎のせりふ、直虎に向けた政次のせりふ、これらはいずれもアイロニーである。そっくりそのまま裏返せば、それぞれ真の意味になる。
周りを敵の兵士に囲まれた中で、直虎が政次への心からの感謝を込めた別れの言葉を伝えるためには、政次が直虎への絶大な信頼と励ましを伝えるためには、アイロニーを使うほかなかったということだ。アイロニーは使いかた次第でここまで胸を打つものになる。
たしかに脚本の森下佳子さんはセンスがいいのだ。ちかごろの脚本家を甘く見ちゃいけない。じっさい地味で重苦しくて陰鬱な話のはずなんだけど、架空のキャラなどを巧みに配し、視聴者を飽きさせない。主演の柴咲コウはじめ、演技陣も安定している。そのなかで、惚れ惚れするような魅力を放っているのが、高橋一生の演じる「小野但馬守政次」だ。この人を見たいがために、毎週テレビを点けてるようなものだ。
この「小野但馬守政次」は裏切り者である。むずかしい言葉でいえば「奸臣」だ。「井伊家」の領地「井伊谷」は今川家の傘下に入っているのだが、小野家は父の代から今川の「お目付け役」として領主の井伊家に睨みをきかせており、隙あらば乗っ取りを目論んでいる。そして実際、徳政令をめぐる直虎の失政に乗じて井伊の領地を我が物とする。直虎も家臣と共に城を追われ、寺に押し込められる。
史実ではそうなっており、むろんドラマもそのように進むはずだが、そこが脚本家の腕の見せ所である。あらかじめ、領主の直虎(柴咲)、この小野政次(高橋)、そして、井伊家の正系・直親(なおちか/三浦春馬)の三人が幼なじみで、固いきずなで結ばれていた、という伏線が敷かれていたのだ。
この「伏線」はまことに重要なもので、ドラマ開始からまる一ヶ月のあいだ、柴咲さんら主役三名は登場せず、子役たちだけで物語が綴られていたほどである。これは大河ドラマ史上でも異例のことであったらしい。むろん子役たちの瞠目すべき演技力があってこそだが、この三人の「絆」がいかに大切なものであったかということだ。
三人のうち直親は、家督を継いで間もなく今川の手にかかって討たれ、早々とドラマから退場する。しかし、行き違いによって婚姻は叶わなかったものの、かつて直虎のいいなづけだった。また、彼がべつの女性(貫地谷しほり)とのあいだにつくった虎松が井伊家ゆいいつの直系男子で、この忘れ形見に家督を継がせるべく直虎が尽力しているのだから、死してなお重要な役回りなのである。
直親は今川によって謀殺されたわけだが、その死には政次が大きくかかわっていた。史実では、いわば確信犯というか、政次が徳川との内通を讒言(ざんげん)して処断させたことになっている。ドラマでは、政次も直親とともに若気の至りで今川の計略にまんまと乗せられ、直親を犠牲にする代わり、自らは保身のために今川についた、というように描かれた。
この違いはべらぼうに大きい。『おんな城主 直虎』というドラマは、この一点を巡ってフィクションとして屹立している。これゆえにこそ面白いのである。
高橋さん演じる政次は奸臣どころか、直親とともに井伊家を盛り立てようと熱意に燃える忠臣だった。しかし、親友にして若き当主でもある直親を死に追いやり、自分だけが「今川の犬」として生き残った。これ以降、彼はその因果を背負って生きていく。直虎をふくめ、周囲の誰にもこの負い目を口にできぬままに……。裏返しではあるが、じつになんともヒロイックな役なのである。
直親が殺された時点では、おそらく彼は自分が今川の名代として当主の座におさまる以外に存続の道はない、と考えていただろう。さもなくば、男系の途絶えた井伊家はいずれ取り潰されるだけだ。
だが、一念発起したおとわ(幼名)が還俗し、「直虎」という厳めしい名を名乗って城に戻り、当主たることを宣したのち、彼の姿勢もかわっていく。初めのうちこそあれこれ妨害していたが、それは自身の権力欲のためではなく、彼女に一国の舵取りは無理だと思っていたからだ。直親の例を出すまでもない。舵取りひとつ間違えば、死に直結するのである。そんな危険な立場に置くわけにはいかない。矢面に立つのは自分でよい。そう考えていたからだ。
やがて直虎が持ち前の行動力と誠実さであまたの難題に取り組んで、家臣や領民の信を勝ち得、さらには今川にまでその力量を認められるようになると、彼はひそかに補佐役へとまわる。今川との「外交」に腐心しながら、鋭い頭脳で先読みをして、来るべきトラブルの芽を摘み、直虎が困り果てている際にはそっと解決のヒントを与える。
しかし、それらはすべて「陰ながら」行われることだ。直虎の家臣たちにとっては彼はあくまで奸臣であり、今川家にとってはあくまで「飼い犬」である。直虎じしんも当初はそう思って彼を敵視していたが、あることをきっかけにその本心に気がつき、愕然として、それ以降は無二の腹心として頼るようになる。ただ、それも内々のことであり、けして表向きにはできない。政次の真情をわかっているのは、直虎のほかには後見人の南渓和尚(小林薫)と、あとは政次の亡き弟の未亡人(山口紗弥加)くらいのものだろう。
いうまでもないことながら、政次は直虎のことが好きでたまらないのである。げんに彼は独身のままだ。直虎はかつて尼僧であったし、現在は立場があるので伴侶はいない。しかし小野政次が妻を娶らぬ理由はない。幼き日からの、「おとわ」への愛を一途に貫いているのだ。
こうやってつらつら書いてると、ドラマとしてはわりとありそうな設定にも見えるが、そこに圧倒的な存在感を付与しているのが高橋一生の演技だ。おおげさな感情表現はいっさいしない。表情の変化も、「乏しい」という言葉がふさわしいほどで、ちょっと能面をすら思わせる。台詞回しも一貫して穏やか。それでいて、秘められた思いの深さが伝わってくるのだ。「恋敵」に当たる龍雲丸役の柳楽優弥が派手な芝居をしてるから、よけいに際立つ感もあるが、いずれにしても若いのに渋い役者さんである。もし二十代の前半くらいまでだったら、ぼくにも小野政次の思いのたけが分からなかったかもしれない。
「歴史上、冷血・奸佞と見なされている人物が、じつは人間味あふれる善人だった。」という話は、山本周五郎の『樅の木は残った』をはじめ少なくないが、ぼくの見たドラマや映画に限っていえば、ここまでのところ、高橋さんの演じる小野政次はトップレベルだ。
史実であり、すでにネット上にも情報があふれているから言ってしまうが、城に入った政次はこのあと、井伊谷に攻め入ってきた徳川家康(阿部サダヲ)の軍によって処刑される。このまえの予告編では、「地獄へは俺が行く。」というようなことを、小野政次は言っていた。徳川軍が攻め込んだ時、領主の座に座っていたのが直虎であれば、彼女が死ぬことになったかもしれない。政次は計算づくで、すべて承知で身代わりとなったことになる。カッコよすぎるではないか。
高橋一生は、もともと実力派として注目を集めていたが、今年『カルテット』というドラマで一挙にファンを増やしたという。『直虎』の視聴率があまり振るわないそうだが、もったいないことだ。ふだん敬遠している方も、とりあえず次回(8月6日放送分)だけでもご覧になったらいかがでしょうか。
それは簡潔ながらも中身の詰まったいい文章だけど、あくまでもロック史の文脈のなかでの解説で、彼の書く詩を文学史の系譜において論じているわけではない(「中西部の生活に密着したバイブルの言葉が、ランボーやブレヒトの言葉と渾然一体になって……」という魅力的なフレーズはあるにせよ)。
ディランという芸名(?)はディラン・トマスから取ったという説が一般的だ(異説もあるらしい。ちなみにぼくは、ディラン・トマスの詩はけっこう読んだ)。それに「風に吹かれて」をはじめとして、彼の詩が「文学」として高く評価され、アカデミックな研究対象にまでなっているとも聞いてはいたが、しかしノーベル賞となればまた別の次元の話である。とりあえず、ほんとびっくりしました。
ただ、こんなことは思った。もし「20世紀の詩人の中で、社会にもっとも大きな影響を与えた人は?」というアンケートを取ったら、たしかにディランは上位にくるかもしれない。存命の方にかぎれば尚更である。むろん優れた詩人はいっぱい出たが、いうまでもなくディランは(広い意味での)ポップ・シンガーなのだから、間接的なものまで含めれば、その影響ははかりしれない。早い話、村上春樹がいなくてもボブ・ディランは厳然としてボブ・ディランだけど、もしもディランの存在がなかったら、ハルキさんの書くものは今とはずいぶん変わってたろうということだ。『風の歌を聴け』というタイトルだって、どうなってたかわからない。
個人的なことをいうならば(まあ個人的なことしかいってないけど)、ぼくはアメリカのビート詩人が大好きなので、そういう点ではうれしかった。仮にディランを文学史のなかに位置付けるならば、それはやっぱりビートニク系詩人ってことになると思うから。ケルアックやギンズバーグが生きてたら、彼らにも受賞の可能性はあったんだろうか?