季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

室町の鈴

2008年11月04日 | 骨董、器
馴染の骨董店で買ったものである。

写真では伝わらないが、それも安物のデジカメで撮ったものだからなおさらであるが、この肌合いがなんとも好きである。

工業製品と違って、大小のでこぼこがたくさんある。その手触りが目にも映る。

僕にとっては高い買い物だったが、一目で気に入って買った。
室町時代のものだろう。中に入っているものが、時代が下れば金属の塊になるのだが、これは小石が入っている。写真で見えるだろうか。中に見える白いものがそうだ。

と書いて2枚目の写真を載せようとしたが、どうやるものだか見当がつかない。説明を読んであれこれ試みるがうまくいかない。そもそも、説明はパソコンにある程度以上慣れ親しんだ人しか分からない書き方をしている。不親切といおうか、とにかく不愉快になって本文に戻ってきた。

中に白いものはここに出した写真では見えない。底面に割れ目が入っていて、そこから白い小石が覗いているのだ。写真はピンボケながら、石がはっきり写っている。載せられないのが残念だ。そのうちに写真だけ載せるかもしれない。ピンボケのね。

鈴は魔よけに使われたらしい。人によっては、こんな古びたものを家に置いていたらよけい貧乏神が取りつくのではと敬遠するかもしれない。ほんとうにそうかもしれないね。貧乏神は我が家にしっかりと住み着いているもの。

僕は系統だった勉強が何より嫌いだった。知識もそれに伴って貧弱なものだ。ただ、こんな鈴を眺めていると、いつのまにか、これをどんな人が所有していたのだろう、とか実朝の暗殺の記録とかがえらく身近なものに思えてくる。時代は少しずれるが、まあ室町以前に鈴はあったであろうし、それなら勝手に空想した方が買った甲斐もあろう。

小学校のころ、歴史も好きだったな。それが中学に入ると、もう無味乾燥で、それが歴史という「学問」だと思わされるものだから、俺は歴史は嫌いだ、となってしまった。高校ではそれに拍車がかかった。

今では再び自由さを取り戻している。僕はどうも学校でする勉強方法は性に合わないのだな。あらゆる科目にいえるね。待てよ、そうすると単なる出来損ないというのかね。本当はそういう人がいっぱいいるのだろう。ただ、僕のように我儘に強引に振舞うのをためらっただけなのだろう。

歴史を研究する人と僕ら演奏家とどこが違うのだろう。少なくとも18,9世紀に関しては、ほとんど同じことをしているのである。

もっと思い切って言えば、一人の人間の中に入り込もうと努める点では、歴史家の比ではないのだ。その人を生きてみようというのだから。ヴァレリーが歴史を嫌悪した理由はよく分かる。訳知り顔をする歴史に対してなのだ。

例えばベートーヴェンを演奏する。そうすると、作品に入り込めば入り込むほど、この人がナポレオンと同じ時代の空気を吸っていることを実感せざるを得ない。僕自身がベートーヴェンという男を体験する。そんな感じかな。僕は巷間言われるような時代考証について、大して関心がない。むしろ道筋は逆ではないかとさえ思っている。

今、歴史家たちは名高い人物よりも、その周辺に暮らした人、あるいはまったく世に知られていなかった人々の資料を発見しては考察を推進する。

阿部謹也さんという学者の著書は親しみやすい。この人はたしか一橋大学長を務めたように記憶するし、よく読まれた本が多いから知った人もいるだろう。

ヨーロッパ中世が専門だったはずだ。読んだことのない人は読んでみることをお勧めします。鹿爪らしい感じがなくて、昔のヨーロッパを旅するような気持ちになれます。

室町の鈴がいつのまにかヨーロッパ中世に関する本の紹介になったが、構うことはあるまい。

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