ネイガウスといっても知らない人が多いようになったかもしれない。スビャトスラフ・リヒテルやエミール・ギレリスの先生だと説明するよりは、ブーニンのお祖父さんと言ったほうが通りが良いだろうか。
ソ連の有名なピアノ教授だった人だ。世評では、ピアニストとしてよりは教師として、より有能だということであった。
最近この人のレッスン風景の映像を見た。ネイガウスの記念番組のようだ。ロシア語で、当然字幕もなく、なにを言っているのか皆目見当が付かない。
若い時分のギレリスや、ブーニンの父親(つまりネイガウスの息子ね)、若くして亡くなったタマルキーナという女性ピアニストら、ソ連全土から選ばれた(であろう)生徒たちが次々に演奏し、寸評めいたことを言っている。
言葉は分からなくても、色々感じるところはある。僕の勘で言うけれど、この人は教師として、そんなに有能だったとは思えない。むしろ演奏家としての方が良い。録音を聴いたことがある。端正な演奏だったように記憶している。ドイツのヤマハのスタジオで社員のひとに聴かせてもらった。当時ようやくピアノの音の判別がついて、何を聴いても面白く、ネイガウスの演奏も演奏全体よりも、ああ綺麗な音を出す人だったのだ、と感心したのだけれど。
レッスンをしているネイガウスは、尊大で気取っている。なんだか2流の映画で決まりきったくさい演技をしているようである。
息子をはじめ、選ばれし選良たちは、それぞれ達者で(ギレリスがいるのだもの、当たり前だよね)中には「どうだ」と言わんばかりの顔つきで受講している者もいる。それでも、中には昨今の演奏の欠点にそのまま繋がりそうな弾き手もいる。それは身体の動きだったり、手の動きだったり、あるいはほとんど自動化された表情だったりする。間違えないように。表情がないのではない。「豊かな表情」自体が自動化されているのだ。
ネイガウスが手や身体について言うことはおそらくあるまい。彼自身はピアノの弾き方についての本を出しているが、これは観察という点からみても上等とは言いがたい本である。
実は僕はこの本を以前から持っていて、その後に彼の演奏を聴き、そのギャップに戸惑ったのだ。本は有名なものだから、少し熱心に学ぼうと思った人ならば大抵所有しているだろう。なにせリヒテルの先生だものね。ネイガウスもしきりにリヒテルの名前を挙げていて、それも分かるがなぜギレリスの名前は出ないのだろう、と素朴な疑問を持ったことが思い出される。
ここで本当に久しぶりでこの本に目を通したら、ギレリスについても何度も言及しているではないか。僕が疑問を持ったことだけは覚えているのだ。記憶もあてにならないなあ。
でもそんなことよりも、次のような一節に目がとまった。
近代の作曲家になるに従い、音量の強大さを求める、という。これはどうか?近代の作曲家ほど音符をいっぱい書くのは一目瞭然さ。しかし、それを音量の増大を求める、と表現するだろうか。
せめてより微妙な色彩感を求めた、くらいは書いてもらいたいね。音楽家としては。それが本当によりいっそうの微妙な色彩感を生んだかは措いておく。
少なくとも、その言葉に呼応して、ピアノ演奏の困難は強大な音を持続していくところに尽きる、という断言があるのだ。でも、当の本人は、すでに書いたように、そんな意見とは無縁の、美しい音を出すのだ。
物理の速度記号やら、エネルギー式やらも頻繁に出て、「力作」めいてはいるのだが、肝腎の加速式は、僕がこの記事を書くために大急ぎでとばし読みした限りでは無かった。もしも物理式で説得しようと思ったら、これこそ噛んで含めるように、繰り返し言及されてしかるべきだった。
あとで詳しく目を通してみよう。こういう本については、何度取り上げても無駄ではあるまい。
ソ連の有名なピアノ教授だった人だ。世評では、ピアニストとしてよりは教師として、より有能だということであった。
最近この人のレッスン風景の映像を見た。ネイガウスの記念番組のようだ。ロシア語で、当然字幕もなく、なにを言っているのか皆目見当が付かない。
若い時分のギレリスや、ブーニンの父親(つまりネイガウスの息子ね)、若くして亡くなったタマルキーナという女性ピアニストら、ソ連全土から選ばれた(であろう)生徒たちが次々に演奏し、寸評めいたことを言っている。
言葉は分からなくても、色々感じるところはある。僕の勘で言うけれど、この人は教師として、そんなに有能だったとは思えない。むしろ演奏家としての方が良い。録音を聴いたことがある。端正な演奏だったように記憶している。ドイツのヤマハのスタジオで社員のひとに聴かせてもらった。当時ようやくピアノの音の判別がついて、何を聴いても面白く、ネイガウスの演奏も演奏全体よりも、ああ綺麗な音を出す人だったのだ、と感心したのだけれど。
レッスンをしているネイガウスは、尊大で気取っている。なんだか2流の映画で決まりきったくさい演技をしているようである。
息子をはじめ、選ばれし選良たちは、それぞれ達者で(ギレリスがいるのだもの、当たり前だよね)中には「どうだ」と言わんばかりの顔つきで受講している者もいる。それでも、中には昨今の演奏の欠点にそのまま繋がりそうな弾き手もいる。それは身体の動きだったり、手の動きだったり、あるいはほとんど自動化された表情だったりする。間違えないように。表情がないのではない。「豊かな表情」自体が自動化されているのだ。
ネイガウスが手や身体について言うことはおそらくあるまい。彼自身はピアノの弾き方についての本を出しているが、これは観察という点からみても上等とは言いがたい本である。
実は僕はこの本を以前から持っていて、その後に彼の演奏を聴き、そのギャップに戸惑ったのだ。本は有名なものだから、少し熱心に学ぼうと思った人ならば大抵所有しているだろう。なにせリヒテルの先生だものね。ネイガウスもしきりにリヒテルの名前を挙げていて、それも分かるがなぜギレリスの名前は出ないのだろう、と素朴な疑問を持ったことが思い出される。
ここで本当に久しぶりでこの本に目を通したら、ギレリスについても何度も言及しているではないか。僕が疑問を持ったことだけは覚えているのだ。記憶もあてにならないなあ。
でもそんなことよりも、次のような一節に目がとまった。
近代の作曲家になるに従い、音量の強大さを求める、という。これはどうか?近代の作曲家ほど音符をいっぱい書くのは一目瞭然さ。しかし、それを音量の増大を求める、と表現するだろうか。
せめてより微妙な色彩感を求めた、くらいは書いてもらいたいね。音楽家としては。それが本当によりいっそうの微妙な色彩感を生んだかは措いておく。
少なくとも、その言葉に呼応して、ピアノ演奏の困難は強大な音を持続していくところに尽きる、という断言があるのだ。でも、当の本人は、すでに書いたように、そんな意見とは無縁の、美しい音を出すのだ。
物理の速度記号やら、エネルギー式やらも頻繁に出て、「力作」めいてはいるのだが、肝腎の加速式は、僕がこの記事を書くために大急ぎでとばし読みした限りでは無かった。もしも物理式で説得しようと思ったら、これこそ噛んで含めるように、繰り返し言及されてしかるべきだった。
あとで詳しく目を通してみよう。こういう本については、何度取り上げても無駄ではあるまい。