季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

茶髪と政治

2008年04月25日 | その他


茶髪がいつごろからあるのか、分からない。意識したときには日本中がそうなった。では、それ以前には無かったかというと、多分あった。

などと書くと、僕はよほどモード、とくに女性のに強そうだが、さにあらず。このあいだ「寅さん」を見ていたら、若かりしころの倍賞千恵子さんの髪の毛が茶髪に見えたから、ふーんと思ったのだ。これだって観察眼の鋭さからではない。単に贔屓(ひいき)だったから気がついただけである。ファンとは言いたくないな、贔屓といった感じだ。

もし僕が若ければ髪を染めただろうか?きっと染めていないだろうね。僕は元来整髪料すら好まないし、皮膚の色も、何色の服を着てもどうにも似合わない。きっとピアノの前に座るより、密林で木から木へ飛び移る、太古の人類の直接の子孫なのだろう。そんな男の髪の毛が茶色だったりしてごらん、よけい人間にみてもらえない。

さすがに最近では減ったけれど、スポーツ界、というか野球界などでは、茶色に髪を染める奴は使わない、とか言う監督がいた。

こういった発想の根源には、どんな根拠があるのかしらないけれど、髪の毛を染めるのはけしからん式の感情が入っているのではないだろうか。けしからんと思う人は自分が染めなければ良いだけの話なのに。

髪の毛に限ったことではない。人間という生き物は、あらゆる場面に於いて、類型に分けて判断する傾向が強いらしい。もちろん僕とて例外ではないのだが。

例えば、僕はある種の職業人が好きではない。しかし、その中の個人をもし知っていれば、その個人への気持ちが優先される。当たり前のことだ、と言い切れる人は本当にいるか?

職業と書いたけれど、それを学校と置き換えても同じことだ。ある人がどういうグループに属するかで判断する、こういう心の(頭の)働きを政治的といっておこう。まつりごと、ではない。そういう意味での政治的な見方を僕は極力避けたい。

大学1年の時、学校の名前と実態には差があることを痛感し、一生目の前にいる人の出身校だの、学歴だの、賞歴だの、性別だのを訊くまいと誓った。いまでもそれを守っている。僕は僕の直感以外を信じない。間違うことは当然あるだろうが、人がどこに属するかで判断して間違うことは、遙かに多いだろうし、第一情けない話ではないか。自分の見方で仮に間違えたとしても、それは僕が未熟だったというにすぎない。心眼を研ぐ以外にない。

茶髪からはじめた話だから、茶髪に戻っても良い。当初、反感を示した人々は、髪を染めることが非行への第一歩だという感情を持ったのだろう。馬鹿言っちゃいけないよ。目の前の人を見ないとそういうことになる。

そういう人たちは、黒髪で非行にはしる少年少女がいたら、頭がピカソになるのかな。ある人は茶髪でしっかり者だ、ある人は茶髪でだらしない。また、黒髪でだらしない人と、しっかり者とがいる。

それだけの話である。年寄りが眉をしかめるようなものではない。それより似合ったように染める方がよっぽど大切だろう。要するに趣味の問題だ。

自分の趣味に合致する条件を仕立て上げて、それに沿う人だけを「まとも」な人物だというのは、よくあることではあるが、感心しない。


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