以前、友人とほんの短い期間ホームページを共有していたことがあった。そこで一度書いたように記憶するが、それを読んでいない人もきっといることだろうから、同じ主旨で書いておく。
指揮者のシノポリが亡くなったとき、浅田彰さんが死を悼む記事を書いていた。浅田さんを僕はあまりよく知らないが、なんでも日本の知性を代表する人の一人らしい。名前を記すだけでも怖ろしい。
記事で、シノポリは巨大な二面性を持っていたとあった。それは類まれな知性と溢れんばかりの歌である。知性の人という世評とは少し違う、溢れるうたごころの持ち主だった、と浅田さんは書いている。控え室で演奏会後倒れ込む姿をなんども見たそうである。
ここで僕ははたと考え込むのだ。深く鋭い知性と大きなうたごころを併せ持った演奏家を、たしかに僕も何人も挙げることができる。
しかし、大きなうたごころの蔭に深い知性が隠れることはあっても、知性の蔭にうたごころが隠されるということが、いったいあるだろうか。知性の蔭に隠れてしまうものを、溢れんばかりのうたごころと言うのだろうか。
百歩ゆずって、そういうこともあるとしよう。では、そのうたごころを浅田さんはどうやって聴き分けたのだ?控え室で精も根も尽きてソファーに倒れ込む姿なら、きょうの各ホールでの演奏会でも普通にみられる情景なのだ。浅田さんは、まさかそうした情景を目撃したから言うのではないだろうが。
僕には、僕がシノポリをどう評価するかは措いて、この浅田さんの文章自体に納得することはできない。
シノポリの演奏、人間について、結論が先にあって、そこに無理矢理「溢れんばかりのうた」と「類いまれな知性」という観念をあてがった。僕はそうしか思えない。
人は知性という言葉が好きで好きでたまらないのだ。それは構わないけれど、知的なあくび、知的な居眠り等々は文字通り寝言であることを知っておいた方がよい。
繰り返すが、溢れるうたごころを抑えることがあることは否定しない。ただ、その場合の演奏からうたごころを聴き取ることは、ましてや知性を感じさせる演奏の蔭から聴き取ることは不可能だと言っておこう。
指揮者のシノポリが亡くなったとき、浅田彰さんが死を悼む記事を書いていた。浅田さんを僕はあまりよく知らないが、なんでも日本の知性を代表する人の一人らしい。名前を記すだけでも怖ろしい。
記事で、シノポリは巨大な二面性を持っていたとあった。それは類まれな知性と溢れんばかりの歌である。知性の人という世評とは少し違う、溢れるうたごころの持ち主だった、と浅田さんは書いている。控え室で演奏会後倒れ込む姿をなんども見たそうである。
ここで僕ははたと考え込むのだ。深く鋭い知性と大きなうたごころを併せ持った演奏家を、たしかに僕も何人も挙げることができる。
しかし、大きなうたごころの蔭に深い知性が隠れることはあっても、知性の蔭にうたごころが隠されるということが、いったいあるだろうか。知性の蔭に隠れてしまうものを、溢れんばかりのうたごころと言うのだろうか。
百歩ゆずって、そういうこともあるとしよう。では、そのうたごころを浅田さんはどうやって聴き分けたのだ?控え室で精も根も尽きてソファーに倒れ込む姿なら、きょうの各ホールでの演奏会でも普通にみられる情景なのだ。浅田さんは、まさかそうした情景を目撃したから言うのではないだろうが。
僕には、僕がシノポリをどう評価するかは措いて、この浅田さんの文章自体に納得することはできない。
シノポリの演奏、人間について、結論が先にあって、そこに無理矢理「溢れんばかりのうた」と「類いまれな知性」という観念をあてがった。僕はそうしか思えない。
人は知性という言葉が好きで好きでたまらないのだ。それは構わないけれど、知的なあくび、知的な居眠り等々は文字通り寝言であることを知っておいた方がよい。
繰り返すが、溢れるうたごころを抑えることがあることは否定しない。ただ、その場合の演奏からうたごころを聴き取ることは、ましてや知性を感じさせる演奏の蔭から聴き取ることは不可能だと言っておこう。