季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

原音

2008年04月15日 | 音楽
オーディオに凝っているわけではないのだが。仕事柄オーディオは持っている。オーディオくらい仕事柄ではなくともだれでも持っているか。

なぜかは判らないが女性より男性がオーディオに凝るようだ。結構な数に上るのではないか。本屋でオーディオ関連の雑誌をみれば、その数が少ないものではないことくらい察しが付く。

その方面で(日本語のこういう言い方は何か微妙だな、なるべく使いたくない言い回しだ。微妙だなという言い方からしてすでに微妙だな)品質のステータスを表す時に、ホールの一番良い席で聴いた音、というのがある。

たいていの人はそれで納得するのだ。製品を気に入るかは別だけれど。

ひとつ質問してみたい。ホールというが、どのホールだろう。良い席とはどこのことだろう。そう問いかけるだけで、了解事項となっていることがすべて、発言している人の主観に基づくにすぎないことがはっきりするだろう。

生の音に近づけたい、という思いがそういった表現を産むのだろうが、生の音というものだって僕たちの主観なのである。言い換えれば僕たちは聴きたいものにピントを合わせるような聴き方をしているのである。生の音ということを口にする前によく考えて欲しい。生の音というものはなにか。本当にあるか。

極端な例が調律師だ。彼らはうなりを聴く。慣れれば誰にでも聞こえるそうだが、とにかくそこにピントを合わせるわけだ。

仮にコンサートホールの音というものがあるとしよう。コンサートホールに限らなくてもよい。広い空間で、離れたところで発せられた音乃至声を、人の耳はどうとらえているのだろう。

次のような空想をして欲しい。舞台上にあなたの恋人がいる。その人の声をあなたは、一言も聞き漏らすまい、と聞き入っている。そのときあなたの耳は限りなく彼(彼女)に近づこうとしているはずだ。広い空間を楽しむより、その空間の広大なことにもどかしささえ感じながら。

これが演奏に耳を傾けたときの「状態」に一番近い。正確に言うと、僕はこうやって聴いているように感じる。たとえばオーボエ奏者の息が余る苦しさを一緒に感じてしまう。ピアノでも、どのように鍵盤に触れたかを、体の各部位の筋肉の緊張に至るまで、共同体験してしまう。

音楽家に特有のこととは言えないはずだ。誰かが泣き叫ぶのを聞くと、ある場合には聞き流すが、他の場合にはその胸腔が圧迫される感覚がする。その時は誰もが、自分の体験を通して「共鳴」しているわけである。

筆跡鑑定というものがある。昔はとても大切な分野だっただろう。人はだれしも、表現をしようと思わずに表現しているものだ。何気なく書いた書体からその人の心理を読み取ろうという、まあ芸といった方がよい、勘に支えられた世界だ。
コメント
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