季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

複雑 その2

2008年04月21日 | 音楽


フランス六人組とうっかり書いて、脱線したまま突っ走ったものだから、オネゲルについて書き直す。

この人は才気もあるけれど、たいへん良心的な音楽家だった。現代に作曲家として生きる苦さ、野心を両方もった人だった。

僕が今書こうとしているのは「私は音楽家である」という本の中の、ある一節についてである。

この本は読んでいて気持ちが晴れやかになる瞬間もない。ため息と愚痴のオンパレードだ。真摯な愚痴とでもいおうか。昔読んだきり、読み直すにはもう気力がない。こんな陰惨な読書をだれがするだろう、と思えてくる。にもかかわらず、ここに書かれているのは、もう50年ほど昔なのに、音楽家達が直視することを避けようとしている、現実の姿である。

彼は、現代の作曲家が、複雑きわまりない曲を書く傾向にあることを憂える。そして、音楽を複雑にした責任はベートーヴェンにもあるというのだ。ベートーヴェンの後期の作品は、周知のように、アダージォ楽章の中に32分音符、64分音符がひしめいている。

オネゲルは、そこを衝いて言う。アレグロで16分音符で書いても、効果、結果は同じであるのに、余計な複雑さを演奏者に課し、楽譜の複雑化という道を拓いてしまったと。

でも、これはオネゲルが無理だ。

彼は、自分がベートーヴェンの後期の作品群をすでに知っている、それも熟知していることを忘れている。

確かに、彼が言うように、ベートーヴェンの後期の作品群の細かい音群は、読譜の際わずらわしい。最後のソナタの2楽章なぞ、初めて見る人は面食らうだろう。譜面は真っ黒というしかない印象で、オネゲルの意見も無理はない、と同調してしまいそうになる。

しかし、この曲を、まったく知らずに、たった今初めて接したものだとしてみよう。アレグロとアダージォでは、まずまったく違う印象だろう。

そもそも、所謂テンポ記号も発想記号と見なした方がよほど正確なのである。アレグロ=快速に、アレグレット=やや快速に、式の教え方、覚え方に呪いあれ。

アダージォという深い緩やかな感情の動きを示すことばの中から、異常な高周波のような32分音符や64分音符が現れる。

逆かも知れない。アダージォの中に64分音符があるからこそ、高周波のような、ゴッホの星月夜の渦巻く夜空を連想させるような、息苦しいまでの高いテンションを感じるのではないだろうか。

この想いは、耳のきこえぬベートーヴェンという男の中で、言うに言われぬ高まりとして感じられていたのに違いない。彼の後期の作品群は、耳がきこえぬ人しか書けなかった音楽だ。

これをオネゲルの主張にしたがってアレグロで、16分音符で書いてみるがよい。もしも、僕たちが何も知らぬ人間としてその曲に接したならば、曲の感じ方はまったく違ったものになったであろうか。その通りだとも、違うともいえよう。

そもそも、この曲想と、この記譜法とは個別に論じることができないのである。すでに良く知っている曲想で演奏されるというのも、ベートーヴェンがその記譜法で書いたからこそなのだ。

曲想が「定まった」あとで、それは速いテンポで16分や8分音符でも書ける、というのは言いがかりというものだ。自身が作曲家でありながら、記譜する際の様々な逡巡や決断についての困難を、すっかり忘れてしまっているとしか思えない。現代の楽譜がいたずらに複雑なものになって、所謂専門家以外の人たちに見向かれなくなったことへの絶望感が彼の眼を曇らせているのだ。

今日、オネゲルのようなベートーヴェン批判をする人はいないだろう。そこで僕は念のために言っておきたい。

僕はオネゲルを非難しているのではない、ということ。むしろ、彼の真剣さに心打たれるのだということ。今日の演奏家の誰が、周知の曲を、新たな、未知の曲であるかのような態度で、読み取ろうと務めているだろう。一般に考えられているよりはずっとずっと少ないはずだ。

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