この本は丸谷才一さんの若いときの(たぶん)国語教科書批判が主になった本である。現在も国語教育の状況はさして変化もないと思われる。丸谷さんの意見は大変正しいと思われるから、何度かに分けて(連続しないと思う。こういったきちんとした文章を紹介するには、それなりの気力も必要で、暇なときに書き足している、本ブログの手に負えるものではない。でも、黙っているには惜しいから、せめて読んでくれるきっかけをと思うのである)それに触れてみよう。まずひとつ紹介しておく。
子供に詩を作らせるな。
国語の教科書はあまりに文学趣味に偏っているではないか。これが丸谷さんの意見の集約である。僕もそのとおりだと思っている。
その文学趣味の先端に、子供に詩を作らせるという単元があるのだ。僕が生半可なことを言うよりも、丸谷さんの文章の一部を書き抜いておく。
牛が水を飲んでいる。
大きな腹をバケツの中につっこんで、ごくごくごく、がぶがぶ、でっかいはらを
波打たせて、ひと息に飲んでしまった。
と書いたのを、次のように直すという実例をあげている。(丸谷さんは旧仮名)
「書こうとすることがらを、いっそうきわだたせるためには、このように、改行 のしかたや句とう点の打ち方など、書き表し方のくふうをすることがたいせつで ある」
牛が水を飲んでいる。
大きな顔を
バケツの中につっこんで、
ごくごくごく、
がぶがぶ、
でっかいはらを波打たせて、
ひと息に飲んでしまった。
「牛」という「詩」がこれでよくなったつもりらしいが、果たしてそうなのか。
わたしの見たところでは、改作前も改作後もどちらも詩ではないし単なる文章と しては(別にどうと言うことはない代物だけれども)、手を入れないうちのほう が数等すぐれている。詩でなんかちっともないスケッチをいい加減に改行して
中略
もちろん、作文の練習というのは大事だろう。これにはじゅうぶん時間をかけ て、丁寧な指導を受けることが望ましい。字も覚えるし、言葉や言いまわしの意 味もはっきりするし、筋道を立てた表現のし方も身について、いいことづくめだ からである。
中略
文章がきちんと書ける子供なら、優れた詩をたくさん読ませれば、ごく自然に、 詩の真似ごとのようなものを書くことはあり得る。それはそれで結構である。そ
のなかには本ものの詩を書く子供もごくまれに出るかもしれない。まことに結構
な話だ。しかし百万人に一人の天才を得るために、日本中のあらゆる子供に対 し、インチキきわまる詩の作り方を教えねばならぬ道理があろうか。
後略
以上、僕が付け加えることはない。以後改まったという話は聞かない。僕がこうしたことに深い関心を寄せるのは、僕たちは何を措いても日本語でものを考えるのである以上、日本語がどういう教え方をされているのか気にかかるからである。
子供たちの様子を見ると、達意の文章を書くどころか、はっきりした意見を持つことすら「禁止」されているように見える。
しかも教科書の文学趣味も、上記のようにいい加減なものだから、情緒めいたものにべったりと寄りかかり、それでいて情に薄いものばかりが増える。子供たちの文集を見て、その類型的な表現に接すると、新聞雑誌をはじめとするメディアが類型的なものの見方しかできないのも無理はない、と思えてくる。
子供に詩を作らせるな。
国語の教科書はあまりに文学趣味に偏っているではないか。これが丸谷さんの意見の集約である。僕もそのとおりだと思っている。
その文学趣味の先端に、子供に詩を作らせるという単元があるのだ。僕が生半可なことを言うよりも、丸谷さんの文章の一部を書き抜いておく。
牛が水を飲んでいる。
大きな腹をバケツの中につっこんで、ごくごくごく、がぶがぶ、でっかいはらを
波打たせて、ひと息に飲んでしまった。
と書いたのを、次のように直すという実例をあげている。(丸谷さんは旧仮名)
「書こうとすることがらを、いっそうきわだたせるためには、このように、改行 のしかたや句とう点の打ち方など、書き表し方のくふうをすることがたいせつで ある」
牛が水を飲んでいる。
大きな顔を
バケツの中につっこんで、
ごくごくごく、
がぶがぶ、
でっかいはらを波打たせて、
ひと息に飲んでしまった。
「牛」という「詩」がこれでよくなったつもりらしいが、果たしてそうなのか。
わたしの見たところでは、改作前も改作後もどちらも詩ではないし単なる文章と しては(別にどうと言うことはない代物だけれども)、手を入れないうちのほう が数等すぐれている。詩でなんかちっともないスケッチをいい加減に改行して
中略
もちろん、作文の練習というのは大事だろう。これにはじゅうぶん時間をかけ て、丁寧な指導を受けることが望ましい。字も覚えるし、言葉や言いまわしの意 味もはっきりするし、筋道を立てた表現のし方も身について、いいことづくめだ からである。
中略
文章がきちんと書ける子供なら、優れた詩をたくさん読ませれば、ごく自然に、 詩の真似ごとのようなものを書くことはあり得る。それはそれで結構である。そ
のなかには本ものの詩を書く子供もごくまれに出るかもしれない。まことに結構
な話だ。しかし百万人に一人の天才を得るために、日本中のあらゆる子供に対 し、インチキきわまる詩の作り方を教えねばならぬ道理があろうか。
後略
以上、僕が付け加えることはない。以後改まったという話は聞かない。僕がこうしたことに深い関心を寄せるのは、僕たちは何を措いても日本語でものを考えるのである以上、日本語がどういう教え方をされているのか気にかかるからである。
子供たちの様子を見ると、達意の文章を書くどころか、はっきりした意見を持つことすら「禁止」されているように見える。
しかも教科書の文学趣味も、上記のようにいい加減なものだから、情緒めいたものにべったりと寄りかかり、それでいて情に薄いものばかりが増える。子供たちの文集を見て、その類型的な表現に接すると、新聞雑誌をはじめとするメディアが類型的なものの見方しかできないのも無理はない、と思えてくる。
しかし、逆に考えればドイツ(ドイツでなくてもよいのですが国外という意味で)にいることは日本語、あるいは日本のことを学ぶ上で良い面も非常に大きいのかもしれないとも思っています。(日本の教育を受けなくて済むというだけではなくもっと積極的な意味において)
ただ、私にできるのは本の選定だけですが、逆に余計なことはしない方がよい、それ(良い文章にたくさん触れること)がすべて、だとも思います。あ、日常会話も非常に重要ですね。う~ん・・・
「日本語のために」ぜひ、読みたいと思います。ご紹介、ありがとうございます。