季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

疑問 宇野功芳氏 2

2010年01月07日 | 音楽
宇野さんの音楽批評は分かりやすいといえば分かりやすい。僕は良いと思った、ひどいと思った。ただそれだけからなる。まことに潔い。吉田秀和さんや遠山一行さんのように巧んだ文章を書かない。

人生の寂しさだったかな、まあ似たような形容が多くて、だれそれの演奏ではそれが(人生の寂しさが)よく表現されているとか、宇宙的な感覚があってまことによろしい、とかそんな調子である。

人生の寂しさというと陳腐だろうか。僕は必ずしもそうは思わない。正宗白鳥はよくそんな表現をしたけれど、決して陳腐には聞こえなかった。

ところが宇野さんが言うと、何となく居心地が悪いのである。それはなぜか。その理由を論理的に述べることは不可能だが、少なくともそのなぜ、について書いてみたい。

僕が今まで読んだ宇野さんの文章はどれも感心しない。あえて言えば正直な感想文だということだろうか。

その中でも朝比奈隆さんへ言及しているときは一種の戸惑いすら感じた。朝比奈さんについては一度書いたことがある。(2008年7月12日の記事)それに付け加えることはない。

そう思っていた。

ところが今回の立ち読み中、僕は読み捨てては置けないことを見つけた。この本の中でも宇野さんは朝比奈さんについて語っている。

朝比奈さんは(宇野さんにだと思われるが)次のように言っていたという。

むかしの大指揮者たちといえどもみんなスケールが小さい。フルトヴェングラーにしても○○にしても(こちらも実名だったが僕が忘れてしまった)フォルテと書いてあるところでもある楽器を浮かび上がらせるために他の楽器を控えさせたり、いろいろ調整をする。そんなスケールの小さいことは自分はしない、と。フォルテはフォルテなのだから、全員にフォルテで弾かせる、と。

2008年の記事は抑えをきかせてごくごく穏便に書いたのだが、この期に及んでは言わせてもらおう。

朝比奈さんが音楽への熱意を持ち続けたことは認めてよいけれど、それはこんな他愛もない(阿呆のようなといってもよい)信念に支えられていたのだとは。

そんな人を巨匠と呼んで信者を集める役目をになったのが宇野さんである。こういう時、断定調が果たす役割は大きい。

彼の読者はおよそ同じ傾向を持つ。まあクラシックと呼ばれる音楽は「難しい」と相場が決まっているからな、誰かの意見を聞くと安心するのでしょう。安心してしまえばあとはいくらでも発言を繰り返していく。自分の耳で聴くというのは、易しいようでそうでもないのである。

朝比奈さんが大阪フィルを世界に冠たるものにできなかったのは(朝比奈さんが巨匠だという主張を認めた上で言ってみるけれど)「諸君スケールを大きく」とやってしまった結果なのだろうか。ご本人がそう言う以上そうなんだろう。

そもそもスケールの大きさというのは何か?分かるようで分からない。少なくとも音の大きさではない。

何度書いてもよいが、それだったらカルテットを作曲し続けたベートーヴェンという男はスケールが小さなケチだ。大勢雇うことをしないでさ。俺だったらバーンと一晩で使っちまうぜい。

こんな意見にもならぬ意見を、仮に僕が朝比奈さんを尊敬していたとして、その人の口から前述の言葉を聞いたならば、ゲーテのように言っておくだろう。「私は聞いた。しかし信じない」

ところが宇野さんは逆に、朝比奈さんのスケールの大きさというわけの分からぬものを証明するものとしてこの言葉を紹介している。

以前、批評家が批評家の文章を批評したらよかろう、と書いたのは吉田秀和さんにしても宇野さんをほとんど小ばかにしているだろうに、沈黙を守るからだ。読者は勝手に導かれたいほうについて行く。もちろん両方について行って適当に自分の意見らしきものを拵えている人も多い。

3を書いておこう。メモ代わりといっても、まだ中途半端だから。少し間が空くと思う。その間他の話題が挟まるかもしれない。


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