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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

演出

2008年02月20日 | 音楽


新聞の演奏評くらいいらいらするものはない。雑誌もそうだけれど。演奏批評を批評する新ジャンルを開拓したいくらいだ。

と、それはさて置いて。置けるかどうか分からないが。

先日友人から連絡があり、「バラの騎士」を観たとのことであった。演奏は良かった、現代の演奏としては良かった。ただ、演出がなあ、とのことであった。

パパラッチやダイアナが出てきたそうである。聴かなくてよかった。本当はオペラばかりではない。猫も杓子も、古典を現代に置き換えて、たとえそこに優劣があったとしても、発想自体は安直だ。そりゃ人間界のできごとだ。いくらでも現代に置き換えられる。

さいわい事件は次から次に起こる。対して人間の行為なり感情なりはそう大きく変わりようがないから、現代化の成功は保証されている。だが、誰に対して保証されているかといえば、その道の専門家、通を自認した人に対してだけなのだ。

そのような態度は自己満足に終わるのみであろう。

演出家の手法はそれだけに留まらない。だいぶ以前のことだが、テレビで偶然「トリスタンとイゾルデ」をやっていた。マルケ王、クルヴェナールが出ていたから第三幕だ。ちょっと見ていたのだが、何か様子が変なのだ。クルヴェナールはトリスタンの嘆きに同情の言葉をかけながら、マルケ王たちにしきりに目配せをしている。

ははん、そういうことか。この演出家はトリスタンをひとりの妄想病患者に仕立て上げているのだ、とすぐ合点がゆき、僕はスイッチを切った。

こういうのが典型的なひとりよがりという。残念なことに、この手合いが次々にでるのだ。

この歌劇の悲劇性をすべて踏みにじった演出というのははたして何だ?現代に悲劇はないとしよう。ではなぜトリスタンを演奏するのか。内部から支える大きな力がなければ、この曲はただただ長い、退屈きわまりない曲ではないか。そのことを認めるだけの力も現代にはないのか。

クルヴェナールという直情径行の男の純情も、むしろ白々しい憐れみと化してしまうではないか。そういう表情のどこから身体全体を共鳴体にする発声が生まれるというのだ。

のどが張り裂けそうに歌う歌手が馬鹿みたようではないか。一見気の利いた講釈はごめんだ。もちろん新しい舞台を否定しやしない。ただ、真正面から作品と向かい合ってくれとだけ言いたい。こんな薄っぺらな新しさは、昨日のテンポとはちがうと不平を言うソリストと同じように退屈だ。

ためしにオペラの演奏評を読んでご覧なさい。わけ知り顔にあらすじと演出の狙いを解説したものばかりだ。歌手については申し訳程度に○○役の××も好演、といった具合だ。



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