季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

映像の魅力

2010年03月01日 | その他
もうずいぶん昔のことになるが、小林秀雄さんの講演の録音記録が見つかって売り出された。今日と違って講演会の録音などほとんどなかった時代である。小林さんの人気もあって話題になった。

それまで活字を通してしか知らなかった肉声は僕に非常な感動を呼び起こした。

小林さんの声については友人の文士をはじめいろいろな人が古今亭志ん生と似ていることを報告していた。いろいろなところでそれを目にはしていたのである。志ん生の声も知っていた。

しかしいくら志ん生の声と小林さんの声を重ねようとしても、それはできない相談だった。なんとももどかしい思いをしたものである。

さて録音を聞いてみると、なるほどよく似ている。小林さんは志ん生が贔屓だったそうである。そうするとこうまで似てくるものだろうか。

活字に残るというのは文学のうらやましい特性であるのに、音声までが加わると印象がまたひとつ違ったものになる、その魅力に人は気づいた。

しばらく経つうちに小林秀雄さんの講演記録は増えはじめ、CDの時代になった今でも装いを新たにして販売される。最近も未発表の録音が発売されて話題になった。

音声の面白さは文章からは独立している。もちろん録音の内容が推敲を経て文章として発表されていれば、推敲の過程を知ることになり、文学に興味を持つ人にとってこんなスリリングなこともあるまい。

なるほど、録音に残されたものと最終的に文章に起こして残されたものでは、小林秀雄さんのものばかりではなくずいぶん違う。

しかし録音を通して聞く肉声の魅力というものは、推敲の跡を辿るよりももっと直接的なものだ。

声というものはある時には残酷なほどにその人の気持ちを表現してしまう。表現しようと思っているもの以上を表すといってもよい。

感情を押し殺したつもりでもそのこと自体が声にでてしまう。大抵の人が経験しているだろう。

小林秀雄さんと五味康介さんによる「音楽談義」は小林さんの対談集で読むことができる。これはどこかの料亭で行われた対談を文章に起こしたものらしい。このときの対談は録音が残されて販売されている。

ここで意外なのは、小林さんの機嫌の良さである。
現在では小林秀雄さんにとどまらない、いろいろな著名人の音声が販売されているのも、肉声の魅力がいかに大きいかを示している。

対談集で読んだ折には五味さんの意見の曖昧さばかりが目立ち、それをきびしく指摘する小林さんに小気味よい陶酔すら感じた。

それが対談の録音を聞くとまったく違う印象をもたらす。すでに書いたように、じつに機嫌良く和やかな空気が伝わってくる。

対談集に見られる鋭い指摘はもちろんあるのだが、小林さんの読者ならよく知っている、文学談義で相手を泣かせてしまうような激しさはどこにも見あたらない。

この人の音楽について書かれた随筆を注意深く読めば分かることなのであるが、小林さんは音楽を心の底から好きで、一種畏怖の念とでもいう感情を持っていたのではあるまいか。音楽談義の録音はそれを耳の感覚という形で伝えている。

音楽について語ることが楽しくて仕方がない、彼の声はその気持ちを余すところなく表現している。これこそ肉声の魅力であろう。

映像の魅力について書くつもりがこんな有様になった。昨今の大学院レベルの論文でも通らないな、こりゃ。仕方がないからまた書き直す。




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