季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

犬学

2009年02月12日 | 
犬学ですよ。大学の間違いではないぞ。大学よりずっとましな学である。点がひとつ加わるだけでこんなにも立派なものになってしまうのはおもしろい。

そういえば、小さいころ僕の名前はよく間違えられた。大を「ひろ」と読むのがまだ一般ではなかったころだ、「しげまつしょうた」と呼ばれることがよくあった。これも点をひとつ付けたわけだね。

これがいやでね。時折アナウンス付の演奏会に出たりして「演奏は重松しょうたさんです」と言われると、もうカニ歩きして出て行かねばならぬような気になったものである。

さて犬学である。

ミケという子は見かけに似ずとても優しいシェパードだった。もっとも売られたけんかだけは買うタイプで、しかもとてつもなく力が強かった。

主人を守るという本能も強く、典型的なシェパードだった。大会、所謂品評会で良い成績を収めたり、犬の雑誌のシェパード特集に大きく写真と僕のインタビュー記事が載ったこともある。そんな子が実は母性本能のかたまりで、子犬や他の動物にはとろけるような表情で接するのだった。

ミケの母親はといえば、まったく母性本能がなくて、訓練所では5匹産まれた子犬たちにミルクをあげるので大変だったと聞く。所謂大会で日本チャンピオンになって、知らぬひとはいないような忙しい日々を送っていたからであろうか。いやいや、そんな心理学の教科書みたいな理由ではないだろうな。

犬だって性質はそれぞれだから、生まれつき母性本能が強かったのかもしれない。ただ、たまと一緒に暮らしていなかったらこうはならなかったのではないか、とよく思う。

たまだって子犬の頃は他の動物に関心を示したな。近くにお城(と言ってもドイツのなかでもまた小さく、まあ館といった風情)があって、そこのお堀に水鳥がいっぱいいてね。おっという感じで見ていたものだ。そのたびに鎖をグッと引いて「いけない」とピシッと言って、次に「おともだち」とやんわり言うのを何度か繰り返したら、すぐに何の反応も示さなくなった。

ドイツで犬仲間と森を散歩していて、他の犬たちはウサギが出ると追い回していたが、たまだけは追いかけず、ハリネズミが木の根元でうろついていても、クンクン嗅ぐだけで柔和な表情をしていたから、やはり生まれつきなのだろうか。

犬も人も、違った環境だったら、という仮定をしたところで空しいのは同じだ。それでもついそうしたくなるのが人情だなあ。

ふと死んだ江藤淳さんを思い出した。ドイツ時代、どうやって手にしたかもう覚えていないのであるが、江藤さんが飼い犬3代について書いている本を読んだ。まず意外だった。江藤さんが犬について書くなんて、と思いながら読んだ記憶がある。

きっとこれは誰かに借りた本に違いない。手許には無いのを知っているから。三代の犬との生活と別れが大変丁寧に書かれていた。それを感じながらもなお、江藤さんが犬についてねえ、と何か不思議な気持ちだった。

そういえば今思い出したが、小林秀雄さんとの対談の中でほんの少し犬について語っていたな。犬を飼うこと、それも所謂血統書つきの犬を飼うことが今ほど広まっていない時代のことである。

日本では犬を飼う文化がないから、社会のステータスでかう犬種がおよそ決まる傾向があるが、イギリスでは貧しい人が大型犬を飼っていてもいぶかしがる人はいない。ジョンはあの犬種が好きなんだ、そうかい、そんな感じだ、ということを述べていた。

江藤さんが遺書の中で奥さんの死後、生きていく気力が無くなったと書いていたときも素直にああそうなのだと思えた。僕がこの犬についての本で隠された江藤さんの一面を知らずにいたら意外すぎたかもしれない。奥さんの存在は孤軍奮闘する江藤さんの唯一の支えだったのかもしれない。子供がなかった江藤さん夫婦の中での犬の存在が非常によく出ている本であった。

思いもよらぬ転調になってしまった。続きはまた。

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