季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

2008年12月09日 | 音楽
ちょいと気になる噂話が耳に入ってきた。

実はね、誰にも言わないで欲しいのだけれど・・・なんてはずがないでしょう。

メトロポリタンオペラでは最近、歌手の声をマイクで拾い上げているというのだ。それに類する噂話は昔も日本の代表的なオーケストラについて聞いたことがある。真偽のほどは知らないけれど、いかにもありそうな話だ。

最近生徒がサントリーホールにラフマニノフのピアノ協奏曲を聴きに行ってきた。感想を訊ねたが、力任せに弾いているようには見えるものの、オーケストラにかき消されて、全くといってよいほど聴こえなかったという。

そうなんだよね、以前書いたけれど、サントリーホールはまったく聴こえやしないのです。そこでピアニストはなお楽器を叩こうとする。叩けば叩くほど響とはほど遠い音になるのだが。近くで聴いている指揮者及びオーケストラは、大きな音に聴こえるのだろうね、そこで一層頑張って張り合う。これでは協奏曲ではなくて競争曲でしょうが。僕にこんなオジンギャグを言わせないでもらいたい。

そんな聴こえない演奏でも演奏会評は載るのだからね、いったいなんと書かれるのやら。なに、簡単さ。フランス人ならフランス人ならではのセンス、ロシア人なら北国の憂愁、スペイン人なら情熱、南極ならペンギン、いくらでも書けてしまう。さすがはペンギン、南極のオーロラの美しさと極寒をよく表現していた、とかね。レッテルは張ったもの勝ちさ、とでもいうのかね。構成力なんて高級な言葉を使ったらいちころさ。

聴こえてこないのに聴こえるようになる、聴こえたような気がする。空耳ともいうね。空耳アワーというのがあって、これは大笑いできるけれど、音楽界の空耳はいただけない。

本当に聴こえないのだろうか、と僕は不思議で仕方がない。そうだろうな、と状況証拠的に認識するのだが、こんな簡単なことがなぜできないのだろう、という素朴な疑問がいつも居座っている。

昔から批評家の言葉は影響力だけは持っていた。批評文を批評するには文章に対する勘だけが武器になる道理で、音楽家はその点無防備だものな。ブルックナーが皇帝に批評家の攻撃から守ってくださいと嘆願したのは無理もない。作曲家でさえそうなのだ、次の瞬間すべて消え去っている演奏家はどうするべきか。藁人業をこしらえて呪うくらいかな。

夢の存在があったかなかったか、だけで一文をでっち上げる人、人生の苦悩があるかないか、宇宙観があるかないかだけですべてが片付く人、まあ色々だが、これで結構支持者がいるらしい。

ジェシー・ノーマンといえば僕が帰国したころ、つまり20年余り以前、その名を口にしない人はいないほどだった。僕でさえ聴きにいったくらいだ。そのときの感想。この人はロッキー山脈の中のひときわ高い頂で歌う教祖になればよい、というものだった。つい先ごろチェリビダッケが彼女について「ゴビ砂漠のようだ」と言っているのを読んで大笑いした。同じことを聴く人がいるのだ。

そしてなぜか僕はノーマンのレコードを1枚持っている。買ったものではないことだけは確かだ。だからといって盗んだのではないぞ。これが僕の家の棚にあるのは我慢ならない、ともう何べんもオークションに出品してみるのだが、なんの反応もない。他の録音はどれもすぐ売れた。これだけが売れない。

想像してみるしかないのだが、ノーマンはすでに何か否定的な烙印を押されたのだろうか。当時すごいすごいと騒いでいた僕の知人たちは今なんと言うのだろう。

ただしここで断っておくけれど、この人の声はマイクで拾う必要がないよ。きちんと響いている声だ。そこいら辺も聴こえないのに評価だけが定まっていくのは腑に落ちない。どうです、僕のレコードを買いませんか。

はじめに挙げた噂はさもありなんと思っている。聴き手が聴こえなくなりだしたらあとは形容の勝負に堕ちるしかないのは、繰り返し書いてきたことだ。さも本当らしい形容を伴って持ち上げられ、いつしか忘れ去られ、これを繰り返すうちに声も音も形骸化している。

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