季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

浪花節

2008年08月18日 | スポーツ
ついでにもうひとつオリンピック関連の話題を。
何だか日がな一日、かじりついているようだが、そうではない。出先でちょっと、たとえば病院の待合室で観ただけの感想だったりするのだが。

スポーツについては、僕は若いときから非常に好きだったから、ただすごいものだなあ、と感心するばかりだ。

こうして書きとめておきたいのは、むしろ報道に関してである。あらかじめ「感動を呼ぶであろう」答えを想定して、他に答えようのないように質問をする愚について書いたばかりだが、柔道の石井選手へ「これから何をしたいですか」という月並みな質問に対して、彼は「遊びたいです」と若い青年に戻って「思わず」答えた。その後、とってつけたように「練習します」と付け足した。

この選手は饒舌で、あれこれ詳しく話をしていたが、解説の柔道連盟の先輩に当たるかつての名選手が「喋りすぎないほうが良い」と苦言を呈した。

柔道家は重厚であるべし、ということなのだろう。秘密警察だったら「喋りすぎないほうが良い」という苦言も当然だろうが、あるべき姿を決めてしまうのはどんなものかと、違和感を覚えた。

最重量級の選手が饒舌で、遊びたい、大いに結構ではないか。つまらぬイメージを遵守しようとして自分の心を押し殺す。日本の建て前大好きな性格がよく出ている。むしろそれが重荷になっているのかもしれないよ。指導者層とメディアが違った姿勢だったら結果も違ったかもしれない。

もうひとつ、メディアに苦言を呈しておく。

アナウンサーが(たとえばバレーボールで)「故郷の人の思いがこもったサーブ!」とか「4年間の思いをのせたアターック」とか絶叫している。

僕はワールドカップ、オリンピック、世界陸上、デビスカップ等、数え切れぬほどヨーロッパの中継を観たけれど、このような浪花節的な中継を他に知らない。

想像してごらんなさい。サーブを打つたびに「そりゃ、故郷の人の気持ちを持っていけ」「この4年間の恨みを受け止めろ」なんて本当に思っている選手がいることを。もしいたら笑いが止まらないね。どこかにそういう選手がいるだろう。しかし、その選手がオリンピックに出場することだけはないだろう。

小林秀雄さんが東京オリンピックについて書いた文章に、砲丸投げの選手だったか、画面に映った。解説者がひとこと「口の中はカラカラなんですよ、なめたって唾なんかでないのですよ」というのを聞いて、こころ動かされた、といった箇所がある。小林さんが最近の中継を見たらなんと言うかなあ。

喋る本人は気持ちを代弁したつもりだろうが、やかましくてかなわぬ。形容を重ねれば重ねるほど、言葉が軽くなる。某選手が天才だと叫ぶ。その直後に世界ランキング60何番だという。オイオイ、と言いたい。言われた当人だって心地悪いだろう。それとも世界には何十人もの天才アスリート(1種目でね)がいるのかい。

スポーツくらい、静かに観させてくれ。勝手に騒ぐから。ここでも勝手に形容を決めて、お祭り騒ぎに仕立てたい人がいる。「さあ、サーブです」だけ言って自分も固唾をのんでいればよいのだ。どれだけたくさんのことを伝えられることか。

放送席といえば、アナウンサーと元選手の解説者、スタジオに芸能人。よくもまあ、何年にも亘ってこんな悪趣味を続けていられるなあ。芸能人とスポーツとどんな関係があるのだろう。だいいち、感動をむやみに演じようとしても、芸のない芸能人ゆえ、あまりにもわざとらしい。

これは選手たちへのひどい仕打ちだと思わないだろうか。中国の開会式での過剰演出が批判を呼んでいる。メディアの過剰演出だって似たようなものだ。


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1 コメント

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メディア (山片 重信)
2008-08-18 06:52:36
石井選手のインタビュー見ました。
youtubeに載せてくれる人がいるおかげで。
篠原さんのキャラクターで僕は「また言ってるよ」と受けてしまったのですが。
インタビュアーの「決勝の畳はどうでしたか?」という問いが想定していたであろう答えを思いっきりはずして「滑らなかったです」と答えたところは非常に気持ち良かったです。
選手が考えるのはそういう実際的なことなのだろうと思います。
そういえばオシム監督はレベルの低い報道陣を手玉にとって自分の伝えたいメッセージを伝えていたように思います。それでも生放送でなければ編集され、報道側の色づけされたものしか我々は耳にすることができない立場にありますが。
アテネの時のオリンピック中継は前振りばかりが長くて肝心の競技そのものはほんのわずか、しかも日本人の出る試合だけしか放映せず、決勝戦すら見られないことが多くてうんざりでした。きっと今回もそれは同じなのでしょうね。
普段のニュースにしてもスキャンダルを追う週刊誌レベルで内容の良し悪しよりも視聴者に与える刺激、衝撃の大きさが優先されて報道されるので、悪質、凄惨な事件のニュースが数多く繰り返され、そんなものばかり見せられては気がおかしくなってしまうからテレビをほとんど見なくなりました。手塚治虫の「火の鳥」に「クローンハンター」という話がありますが、その中でテレビが視聴率競争により、より刺激の強いものを見せようとエスカレートしていく様子、まさにそのままのことを現実のメディアがやっているようで恐ろしくなります。
本当に、嫌なニュースばかり見ていると嫌な世の中になったと思いますね。それでもドイツに来てつくづく思うのは、日本はまだまだ平和で公共マナーもよいのだなあ、ということです。デュッセルドルフが特別悪いのかもしれませんが。
日本も探せば(探さずとも)良いニュースのネタはいくらでも転がっていて、きちんと取材して報道すれば非常に面白く有益なものが作れると思うし、そうしたものを優先して報道していると空気はまた違ったものになると思うのです。
ちなみに上司から聞いた話ですが、ドイツでも凄惨な事件は起こっているようですが報道の数は非常に少なく、ニュースになったとしても事件の解決後のことが多いそうです。
しかし日本の現実はなかなか難しいようで・・・
久米宏が以前発言していましたが、ものすごく乱暴にまとめると、テレビで質の高いものをつくったとしても視聴者がそれを感得するレベルになかったら見てもらえないからレベルを落とすことになる・・・というような趣旨でした。レベルを下げる方向に流れをずーっとつくってきたのは視聴者ではなくテレビだと思うのですが、それに流されてきてしまった視聴者の方も問題大ありだとは思います。しかし、メディア関係者は良くも悪くも自分たちが社会の空気をつくりあげてしまうことへの自覚があまりに乏しいですね。国民はメディアに洗脳され、それを自分の意見と混同し、なんだかいいように利用され、騙されているのかもしれない。
よその国で行われていた反日教育などは決してあちらの特別な事情などではなく、こちらも事情は同じ気がします。怖いですね。
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