季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

天声人語を読む

2010年05月23日 | その他
週に一度大学に行く。新幹線までの2、30分は電車の吊り広告や町の景観を目にする貴重な機会である。

今朝、ということはこれを新幹線車内で書いているということなのだが、朝日新聞の宣伝広告が目の前にあった。「天声人語」が掲載されており、読むともなく読んでいるうちに気持ちが悪くなった。

以下に紹介するが、なにしろ短時間目にしただけであるから多少の不正確な引用になるのは許されたい。不正確といっても、その大意は間違えていないはずである。


朝日新聞の一面には現在ドラえもんを登場させたクイズがあって、答えはその日の紙上から探しだす仕組みになっている。

教室での態度が乱れ学校から脳派の検査を受けることを勧められた小学4年生の息子さんを持つ母親の投書によると、この欄のおかげで子供が新聞を読むようになった、という。

母親は書く。私の心にかすみ草ほどの小さな花が咲く。「大丈夫、この子は大丈夫」


引用はもういいだろう。天声人語氏はこの例を挙げた上で、新聞がこのように役に立つのならうれしいことこの上ないというお決まりの文句を並べ立てる。

新聞を読むようになった息子がもう心配ないと祈りにも似た希望を持つ母親の気持ちを笑うことはできまい。何よりも信頼すべき学校から脳の検査をしたほうがよいと言われた母親の狼狽を思えば、新聞を読むわが子を見た安堵の気持ちは理解できる。

しかし教室での態度の乱れがどういったものかは知る由もないが、なにかのきっかけで新聞を読むようになる子供でしょう、それを脳波の検査をしたらと勧める学校の教師の思い上がりと鈍感さ、無責任さ、いや、何ともいえない人格欠乏症が僕を驚かす。

またそこに潜む情の欠如に気づきもせず、一遍のさわやかな作文をでっち上げてしまう天声人語氏の脳天気にもあきれるし、それを自社の広告に採用する新聞社の思い上がりにも言葉を失う。

新聞が仮に読者の期待に沿うような公正なメディアであろうとするならば、学校教育者が脳の検査を勧めること自体に異常さを認めるべきだっただろう。

そもそも精神科医は人間の精神を理解するか。僕ははなはだ疑問である。

それはさておいても僕が感じた気持ち悪さは「ブタがいた教室」について書いたことに通じる。なんという傲慢な不感症、これに尽きる。

天声人語は文章を手短く味わい深く書く際のお手本とされているようである。小論文の学習にもきっと参考にされているに違いない。

なるほど、その手際は僕なぞ到底真似できないくらい鮮やかである。それは認めてもよい。

しかし、学習も作文も、あるいは読書でさえも、人に感受性を与えることはできまい。僕はただ暗然とした心を抱いたままである。