季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

同じ音源なのに

2010年05月18日 | 音楽
必要があってエドウィン・フィッシャーの平均律のレコードをCD化しようと探したが、一部抜けていることに気付いた。

レコードをCD化するのはたいへん面倒だから、いざ作るならばきちんとしたものにしたい。しかしその面倒を考えると、オークションなどで欠けたレコードを探すより出来合いのCDを求めたほうが手っ取り早い。

思い立ったらすぐ買うべし。というわけで何十年ぶりにフィッシャーのバッハを購入した。レコードからダイレクトにダビングしたほうが音が素直なのだがなあ、それにCDも持っていたような記憶があるのだがなあ。まあ記憶違いだな、よくある話さ。

商品が到着していざ整理しようとごそごそやっていたら先日まで影も形も見当たらなかったはずの、同じ演奏のCDがあるではないか。こういう経験がやたらに多いせいで、ショックは極めて軽いものですむ。いやあショックだ。

この際だからレーベルによってどれくらい音に違いがあるかをみてやろうじゃないか、と相成った。まあ大して役に立たぬが、こういった居直りに近い気持ちの持ちようは結構大事だと思っている。

イソップにキツネとブドウの話がありますね。キツネが跳びあがってとって食おうとしたが、届かない。キツネは、どうせあのブドウはすっぱいさ、と捨て台詞を残して去る。

通常この話は負け惜しみをいう愚の話として理解されているけれど、それがどうしても手に入らぬ以上、すっぱいはずだといって自身を納得させるのは立派な知恵だと誰かが言っていた。むかしほんとうにそうだなあと得心したことがある。

さて同じ音源のレーベル違いの演奏であるが、Naxosという今回買った盤のほうが日本でプレスしたEMIよりはるかに心地がよい。

面白いのは、比べるとはるかに硬質に聴こえるEMI盤も単独で聴くとやはり柔かい音質で、フィッシャーの肉付きのよい暖かい音を感じることだ。いったいこれは何だろう?音とはいったいなんだろう、と考え込んでしまう。

また忘れてはならないのは、EMIの製作者にとっては自分たちの盤の方がクリアーで優秀だと思っているに違いないということだ。

以前車を運転しながらラジオを聞いていて、CD製作に携わる人が、古い音源をCD化する技術は日本がもっとも優れていると自慢していたことを思い出す。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする