季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ショックな本

2010年01月27日 | 
「偽善エコロジー」という本を読んだ。めまいがした。著者は武田邦彦さんという学者さん。

僕はこれでも義理堅い。百年後の世界なんて関係ないよ、という気にもなれず、環境に少しでも配慮をして、とゴミの分別は律儀に行ってきた。

それらが少数の例外を除いて無意味ないしかえって危険であるというのだから。僕は立ち読みのプロを自認するけれど、立ち止まるジャンルは自ずから偏る。何かの偶然で目に入った本書は立ち読みでは気がすまなくて購入した。

後になって検索したら、この本はとっくに有名になって、「反偽善エコロジー」なんていうサイトまである。安井至さんという人が反偽善エコロジーの急先鋒らしい。もっとも、その後再び本屋でざっと見渡しただけでも、安井さんを担いでエコロジー運動を擁護する学者は多いようだ。

急いで反論まで目を通した印象である。僕の印象では反論は今のところ説得力に欠ける。僕の一文を読んだ人は独自に検索でもしてください。

例えばペットボトル、これは非常に良く燃えるから生ゴミを燃やすときに一緒に燃やしたほうが良いという。

原油はすべての成分を使えるわけではなく、多くの部分を(燃やして)捨てていたのだそうだ。むかし石油工場の煙突からは炎が出ていたのは覚えている。それがそうなのだ、それが最近では例えばペットボトルに利用する技術が進んで、捨てていた部分を製品化できるようになった。

せっかく使用できるようにしたのに、再利用ばかりしてしまったら再び昔のように精製の段階で捨てる以外ないではないか。それよりも生ゴミは燃えにくくて炉を高温にするためにたくさんの燃料を必要とするから、その無駄を無くした方がよい。再利用といっても捨てられたペットボトルの汚れを落とすためやラベル等を区分けするために費やすエネルギーも甚大である。

これについてリサイクル推進派の学者は(安井氏も含めて)異議を唱えている。「偽善エコロジー」で紹介されているデータは古いもので、今ではかつて捨てていた成分も有効に利用できている、という。

このような応酬になると僕はただ観客に徹する以外ない。それでよいのだろう。ところが、ゴミ問題は相変わらず大きなテーマのはずなのに、学者たちの応酬は僕たち観客の目に付かない。僕にはこれが不満である。

いずれの立場にも理はあるだろう。しかも僕たちの生活に関りがあることではないか。宇宙に果てはあるのかないのかといった議論ではないのだ。たとえばテレビはどうでもよい事柄を垂れ流すことを減らして、両者の討論や検討を継続的に紹介するべきだろう。

安井氏ら「反偽善エコロジー」派の学者たちが論じているのは主に石油関係で、そこでのデータの解析は僕らの手に負えるものではない。それでも判断だけはせざるを得ないのだ。

もう一例。

家庭から出る生ゴミを肥料化するのは危険だから絶対にやめろという意見はもっともだと思う。言われないとそうは思わなかったが。

食品といえど今日ではどんな化合物が混入されているか不明である。それを無視して土に返したら毒性のあるものが蓄積するではないかというのだ。なるほどと思う。

「反偽善」派でこの点に言及しているのは少ないのではなかろうか。

つまり武田さんを「反エコロジー」というレッテルのもとに抹殺してはならないのである。それは武田さんを妄信すると同様危ないことである。

数年前の再生紙偽装問題で、いわゆるエコという美名の裏側が垣間見えたではないか。しかしこれも不正の追求に行ってしまって、根本のところはうやむやに終わってしまった。

面白おかしくショーアップしないで、色々な立場の学者に討論して、我々にそれを見せてもらいたいものだ。本当はそういったものが一番「面白い」番組でもある。

このような問題のときにも我が国のマスメディアの力量のなさ、志の低さを発見する。

コメント (5)
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