季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

混乱と判然 2

2010年01月20日 | 音楽
前の記事だけでは、何だか判然としないであろう、まるでハンゼンがでたらめを言ったような印象すら与えかねない。そこでもう少し付け足しておく。

前回は例えに手の形を出した。これはほんの一例である。弾き始めようと構えたとたん、いやいやちょっと待て、それではいけないなんていうのは日常だった。

やっと音が出たと思ったら「今のはただ硬い音だ」それでは、とやわらかく弾くと「それでは音に核がない。君の手はスパゲッティか」それを大抵の場合じつに上機嫌でやられる。

さすがに音に関しては混乱と判然ではなく、分かっていても単にできないのである。時折僕を脇にどけて先生が弾く。そうとも、この音だ!と心から思うのだが、いざ自分が弾くことになったとたんに分からなくなる。

稀にレッスン終了時点で何となくできたような気がすることもあった。しかし Auf Wiedersehen! と握手をして一歩外に出たとたん、あら不思議、すべて雲散霧消してしまっているではないか。

よろよろ最寄のオートマルシェン駅までたどり着いて、芝生が生えた小さな空き地の前のベンチで手をじっと見ていたものである。詩人の誰かが歌っていたな「じっと手を見る」誰だっただろう?

あれこれ言われ続けて混乱と判然を繰り返しているうちに、ぼんやりと分かってきたことがあった。

さてこれを読んでくださっている方々は、そうか重松は何かを掴んだらしい、それは一体何なのかと好奇心をくすぐられるだろう。

僕がぼんやりと分かりかけたこと、それは実に簡明で原則的なことであった。あまり勿体をつけずに書こう。

僕がぼんやりと感づき始めたこと(くどいなあ、ぼんやりは分かったから早く言え)それはハンゼンが手の形などを言うときに、何のことはない、お前さんの音は非音楽的だと言っているに過ぎないということであった。

彼はというか彼の耳はほとんど動物的に反応するらしい。今の音は音ではないと言っているだけだ、と気づいた。こんなことに気付くのに数年を要したわけである。お釈迦様の掌の上の孫悟空にでもなった気分さ。

考えてみれば音楽家として当然のことだ。ハンゼンを責めるのはお門違いだ。むしろ純粋に耳だけが反応していたと言えなくもないのである。

僕はたくさんの演奏家及び演奏理論を知っているわけではないが、あらゆる角度から演奏という行為を検証できている人は大変少ないようだ。

練習曲の書法からみてブラームスはその数少ないひとりだと思うし、コルトーもその中に数えてよい。

また勘違いしてはいけないのが、そうした「すべてを見通す目」を有していない人は劣った音楽家だというわけではない。

こういう目を持つというのもその人を大きく特徴付けるというにとどまる。

これは僕にとっては大いに興味をそそられるテーマで、色々な話題の節々に顔を覗かせるに違いない。



コメント
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