季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

混乱と判然

2010年01月16日 | 音楽
ハンゼン先生はけっして上手な教え方をする人ではなかった。いや、教え方は下手だったと言ってもよい。

ドイツ人らしく理屈で説明しようとしても、かえって話はややこしくなり、僕は困惑した。

レッスンもじつに即物的で、美だの様式だのぺんぺん草だのについて高尚な言葉が聞かれることは稀であった。

長いこと師事して、いわゆる音楽的な言葉はたった一度聞いたことがあるだけである。

セザール・フランクの「前奏曲・コラールとフーガ」の前奏曲のある箇所で「そこはフルトヴェングラーのバスの効果のように」と言われて、たちまち了解した。

しかし了解したこととできるようになることとは自ずから違う事柄である。「音楽は感受性の問題で、教えることはできない。しかし技術は教えることができる」これはハンゼンの口癖であった。

究極的にはその通りだろうが、では若い人にどう接するのか。いろいろな方面から心を動かすように刺激を与えているうちに自律性を帯びることだってある。何がどこにどう隠れているか、だれも分からないではないか。

音楽的な「深遠な」言葉を聞いたことがないのは僕ばかりではないようだ。友人もベートーヴェンのソナタを弾いていたときに「この部分でエドウィン・フィッシャーは・・・」と言い始めたので、聞き逃すまいと全身全霊を傾けて次の言葉を待った。次に「犬が泳ぐような感じで、と言った」というのを聞いて拍子抜けしたそうである。

笑ったなあ。拍子抜けするよなあ、これは。ハンゼンが付き合っていた音楽家たちは錚々たる顔ぶれだ。生徒の中にはそういうことをまったく知らぬ人もいたが、大抵の生徒はその顔ぶれを思うと背筋を伸ばさねばと感じたものだ。めずらしくその中のひとり、フィッシャーの名前が出れば次に何かしら重い言葉が来ると予想してしまう。それが犬かきではね。すると僕のほうがハンゼンから「深遠」なことを聞いたことになる。じつに貴重な体験をしたといえる。

即物的レッスンと書いたけれど、では具体的にはどんな様子だったか。

ある曲を弾く。音が伸びずに乾いているとしよう。おもむろに演奏を止めて「今の音を聴いたか?もう一度やってみよう」

やり直したところでうまくいく道理もない。

すると「ほらご覧、君の手を。手首が下がってしまっている。私はもう何度もそうなってはいけないと注意をしたはずだよ、手首をあげて弾きたまえ。いいね、辛抱だよ」

手首をあげて弾くとまあ少し違った音になる。「そうだ、それでいいんだ、その形をわすれないように」

僕は一週間手首のことを注意しながら練習する。そして次のレッスンがくる。

やはり途中で止められる。「ほら、君の手の形を見たまえ、手首が上がっているではないか。私は何度もそうなってはいけないと注意をしたはずだよ、手首を低くしてやってみたまえ」

ありゃりゃ、前回はたしか高く構えろと言われたような気がするが?と怪訝な面持ちで弾きなおすと、やはり少し違った響きがする。

「そうだ、それでいいんだ、いいね、その形を忘れないように」

僕は必死でまた一週間、今度こそと手首を低くして練習に励む。

そしてまた一週間後、ああ、「君の手首を見たまえ、低くなっている、低くしてはいけないと私はもう何度も言ったはずだよ」

概ねこんな感じでレッスンは推移する。これはフィクションではありません、と断りを入れておく。

僕だけが脳みそに指を突っ込まれたような思いをしていたわけではない。友人も同じだったらしいし、その他の生徒も皆目を白黒させていた。

長い年月の間になにやら仄見えるような心地になったり、ふたたび絶望的に混乱したりを繰り返した。

僕たちはそんな自らの状態をコンラート・ハンゼンにひっかけて混乱と判然と呼び、ささやかに憂さを晴らした。

つづく・・・

コメント (5)
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