僕はベルリンの壁の破片を持っている。壁が崩壊した折に東ドイツ人の知人が記念に贈ってくれたものである。
この人は僕の生徒であった老婦人の女友達の息子である。
当時の東西ドイツについて本当の規則はどうだったのか知らない。でも一定の年齢を超えるとドイツ人も東西を行き来できた。年金を払わずにすむという東側の思惑だったと聞いている。
そんなわけで僕の生徒を通じて東側の人と知り合いになった。この老婦人はドレスデンとマイセンの中間辺りに住んでいた。
一度東にもいらっしゃい、私の家に泊まればよいのだから、という言葉がなくともいずれは東ドイツを訪問したであろうが。
当時外国人でさえも東ドイツを訪問するにはビザを取得するなど、とても面倒であった。
ましてドイツ人の家に宿泊するともなると、気も遠くなるほどの手続きが必要であった。どんな手続きが必要だったのかまったく覚えていないところから、僕がほんとうに気が遠くなっていたことが知れる。
車でまずアイゼナッハ(バッハ生誕の地)へ。最終目的はドレスデン近郊のフライベルクにある有名なジルバーマンオルガンを聴くことだった。
まあ出かける前の緊張といったらなかった。バッハの足跡を追うように旅をしながらドレスデンのおばさんの家に数泊、その後はベルリンの息子さんを訪問してハンブルクに帰る。
このような旅程を組んだのだが、ドイツ人の家に泊ったり訪問したりする許可を取るためにいったい何度電話をしたか。
電話くらいと言うなかれ。相手が出るまで交換手を経由し、時には会話を交わすのに半日近くかかるのである。
やっとの思いで出発したが、国境の検問所のシェパードは怖いし、検問自体も厳しい。パスポートと本人をあらゆる角度から見るのである。笑ってみろとか泣いてみろとはさすがに言われなかったが。
車で行くと、車体の下に怪しいものを隠し持っていないか、厳重な検査を受ける。車体の下に鏡まで突っ込む。アイゼナッハのバッハ博物館(バッハの生家)では西側のマルクと1対4で交換してくれないか、と受付のおばさんがこっそりささやいた。うっかりするとおとり捜査だと教えられていたので、気の毒だと思いながらも断った。
バッハゆかりの地のひとつ、ミュールハウゼンでは文字通りなんにも記念すべきものが残されていない様子で、それに驚いた。教会に見つけるのに苦労するくらい小さく「バッハがいた」程度の文字を見ただけであった。
仕方なく入った喫茶店で紅茶を頼んだら、ティーバッグの中は藁くずのような乾燥した草が入っているようなもので、待てども待てどもベージュ色で、馬小屋のような匂いがした。
当時タバコを吸っていたのでマールボロをくれ、とレジで注文したら店中の客が一斉に僕を注視し、悪いことをしたと思った。ドイツでは僕などはやたらに若く見られ、そんなガキが東ドイツ人にしてみたら途方もない金額のタバコを買ったのだ。
今思い出しても申し訳なかったと思う。
エアフルトでも閑散としたマルクト広場を通り抜けながら、バッハの足跡のあまりの薄さに気が塞いだ。その後ミクシーで知った人がエアフルトに住んでいて、少し詳しく情報を教えてもらったところでは、今日ではすっかりきれいに整備されて、バッハゆかりの地だと感じさせるのだそうだ。
こうして駆け足でバッハの後を追いながら、ついにフライベルクに到着した。地図を頼りに大聖堂を目指す。嬉しさに頬も緩みがちになる。
すぐに見つかって、さて扉を開こうとしたが閉まっていて開かない。訝しく思った僕の目に「オルガンは修復中にて閉館」という文字が飛び込んだ。
何ということか。あれだけ時間をとって取得したビザだというのに。よりによって修復中とは。オルガンは大修理をしたり、メンテナンスが大変だ。それは分かっているが、大修理は百年に一度くらいだろう、なにも僕が訪ねたときに修理しなくても、と恨めしかった。今ならこんな思いをすることはないね。パソコンで調べてから行けばよいのだから。
そんな次第でモーツァルトが絶賛したといわれるフライベルクのジルバーマンオルガンはレコードで聴くことしかできない。それでも充分に美しい。言葉で表現するのは不可能だが、ずっしりしていて艶がある。
どこかでバッハはジルバーマンよりもシュニットガーを好んだと読んだことがある。真偽のほどは分からないけれど、フライベルクのオルガンをモーツァルトが絶賛してバッハはやや距離を置いていたという話を本当だと思いたい。そんなオルガンだ。できればもう一度出直して聴きたいものだ。前述のミクシーの知人から、このオルガン修復作業も無事に終わり、今ではコンサートが頻繁に開かれているときいた。
東ドイツのことはまた書く。
この人は僕の生徒であった老婦人の女友達の息子である。
当時の東西ドイツについて本当の規則はどうだったのか知らない。でも一定の年齢を超えるとドイツ人も東西を行き来できた。年金を払わずにすむという東側の思惑だったと聞いている。
そんなわけで僕の生徒を通じて東側の人と知り合いになった。この老婦人はドレスデンとマイセンの中間辺りに住んでいた。
一度東にもいらっしゃい、私の家に泊まればよいのだから、という言葉がなくともいずれは東ドイツを訪問したであろうが。
当時外国人でさえも東ドイツを訪問するにはビザを取得するなど、とても面倒であった。
ましてドイツ人の家に宿泊するともなると、気も遠くなるほどの手続きが必要であった。どんな手続きが必要だったのかまったく覚えていないところから、僕がほんとうに気が遠くなっていたことが知れる。
車でまずアイゼナッハ(バッハ生誕の地)へ。最終目的はドレスデン近郊のフライベルクにある有名なジルバーマンオルガンを聴くことだった。
まあ出かける前の緊張といったらなかった。バッハの足跡を追うように旅をしながらドレスデンのおばさんの家に数泊、その後はベルリンの息子さんを訪問してハンブルクに帰る。
このような旅程を組んだのだが、ドイツ人の家に泊ったり訪問したりする許可を取るためにいったい何度電話をしたか。
電話くらいと言うなかれ。相手が出るまで交換手を経由し、時には会話を交わすのに半日近くかかるのである。
やっとの思いで出発したが、国境の検問所のシェパードは怖いし、検問自体も厳しい。パスポートと本人をあらゆる角度から見るのである。笑ってみろとか泣いてみろとはさすがに言われなかったが。
車で行くと、車体の下に怪しいものを隠し持っていないか、厳重な検査を受ける。車体の下に鏡まで突っ込む。アイゼナッハのバッハ博物館(バッハの生家)では西側のマルクと1対4で交換してくれないか、と受付のおばさんがこっそりささやいた。うっかりするとおとり捜査だと教えられていたので、気の毒だと思いながらも断った。
バッハゆかりの地のひとつ、ミュールハウゼンでは文字通りなんにも記念すべきものが残されていない様子で、それに驚いた。教会に見つけるのに苦労するくらい小さく「バッハがいた」程度の文字を見ただけであった。
仕方なく入った喫茶店で紅茶を頼んだら、ティーバッグの中は藁くずのような乾燥した草が入っているようなもので、待てども待てどもベージュ色で、馬小屋のような匂いがした。
当時タバコを吸っていたのでマールボロをくれ、とレジで注文したら店中の客が一斉に僕を注視し、悪いことをしたと思った。ドイツでは僕などはやたらに若く見られ、そんなガキが東ドイツ人にしてみたら途方もない金額のタバコを買ったのだ。
今思い出しても申し訳なかったと思う。
エアフルトでも閑散としたマルクト広場を通り抜けながら、バッハの足跡のあまりの薄さに気が塞いだ。その後ミクシーで知った人がエアフルトに住んでいて、少し詳しく情報を教えてもらったところでは、今日ではすっかりきれいに整備されて、バッハゆかりの地だと感じさせるのだそうだ。
こうして駆け足でバッハの後を追いながら、ついにフライベルクに到着した。地図を頼りに大聖堂を目指す。嬉しさに頬も緩みがちになる。
すぐに見つかって、さて扉を開こうとしたが閉まっていて開かない。訝しく思った僕の目に「オルガンは修復中にて閉館」という文字が飛び込んだ。
何ということか。あれだけ時間をとって取得したビザだというのに。よりによって修復中とは。オルガンは大修理をしたり、メンテナンスが大変だ。それは分かっているが、大修理は百年に一度くらいだろう、なにも僕が訪ねたときに修理しなくても、と恨めしかった。今ならこんな思いをすることはないね。パソコンで調べてから行けばよいのだから。
そんな次第でモーツァルトが絶賛したといわれるフライベルクのジルバーマンオルガンはレコードで聴くことしかできない。それでも充分に美しい。言葉で表現するのは不可能だが、ずっしりしていて艶がある。
どこかでバッハはジルバーマンよりもシュニットガーを好んだと読んだことがある。真偽のほどは分からないけれど、フライベルクのオルガンをモーツァルトが絶賛してバッハはやや距離を置いていたという話を本当だと思いたい。そんなオルガンだ。できればもう一度出直して聴きたいものだ。前述のミクシーの知人から、このオルガン修復作業も無事に終わり、今ではコンサートが頻繁に開かれているときいた。
東ドイツのことはまた書く。