季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

井上ひさし氏

2009年12月05日 | その他
「小学五年のとき、近所の猫を煮干し用雑魚(じゃこ)でおびきよせ、とっ捕えてやつの鼻の穴にわさびの塊を押し込んだことがある」
「小学六年のとき(略)近所の猫を雑魚でおびきよせて捕え、火の見櫓の天辺から落したのだ。猫はにゃんともいわずに即死した」
「高校時代、日向ぼっこをしていた猫にガソリンをかけ、マッチで火をつけたことがある」


「動物愛護家には人間を愛することのできない人が多いような気がする。
あの人たちは自分と同じ種族である人間が飢えているのを見すごすことはできても、
自分の傍にいる犬猫が飢えているのは黙視できないのではないか。
わたしたちの動物虐待は、屁理屈をつければ、
そういう人たちの<動物愛護精神>にたいする無意識のからかいだったのだ。」

いきなり以上を読まされて不快に感じた人も多いと思う。これは芸術院会員で著名な作家である井上ひさし氏の文章である。氏はまた平和運動家としても有名である。

平和運動に携わる人がこんなことをするのか、という非難が多いだろうと予想する。しかし人間の心が単純ではないことを考えると、これは必ずしも核心を突かないかもしれない。だから僕はあえてそこには触れずに書こうと思う。

僕が一番に目をつけるのは強引な自己弁護はさておき「わたしたちの動物虐待は」という言葉である。虐待に理屈をつけることへの違和感同様に、氏が「わたしたち」と言う、そこに僕は不潔感を覚える。

(因みにニュースキャスターという人種は殆んどが「わたしたち」という。)

「わたし」という一人称が「わたしたち」になると、とたんに責任を分かち合うニュアンスを帯びる。分かち合うというのは本当は正確ではない。責任の所在をうやむやにするという方が正しい。両者の違いを正直に感じてみようではないか。

「わたしたち」という言い方は意識的にも無意識的にも「政治的」である。

「わたしたちは日本という国で幸せに暮らしています」こんな使い方が通常であるが、いったいこれは正確だろうか。

僕は現在幸せに暮らしているかもしれない。しかし僕たちは今幸せだ、とあなた方も念頭において発言したらどうだろう。実際には一人一人が小さな、あるいは大きな不幸を抱えているかもしれぬではないか。

私たちは、という言い方の中には、小さな個人的な事情はあるだろうが、おしなべて幸福だから、この際は個人個人の事情は無視しても差し支えない、という暗黙の了解がある。

しかし幸福にせよ不幸にせよ、小さな個の出来事ではないのか。このように、あらゆる個を無視してひと塊の集団として見做すことを政治的というのである。

井上氏は「私たちの動物虐待」という。彼は虐待を行ったほかの人も彼同様「人類愛に燃え」ていたとどうして知っているのだ。

そもそも動物愛好家という人種がある、それは共通の特徴を持つという強引な理解の仕方が非常な政治的思考の典型なのである。こうした思考法をする人が「わたしたち」と言うのは驚くに足りないのかもしれない。

一度書いたように思うが、井上氏のような極論がある一方で動物好きに悪人はいない、こんな言い草も耳にする。とんでもない。ここでもひと括りにしないでもらいたい。

作家とはこんな当てずっぽうで粗雑な頭でもなれるのだろうか。こんな杜撰な文章を書いても芸術院会員になれるのだろうか。

もれ伝え聞くところでは、井上氏はじつに論戦に強く、彼と思想を異にする右翼の論者もお手上げだったという。それは当然である。上記のごとき論法と、論難するためだけに鍛え上げたかのように見える知識があれば。この人は全作家中、いちばん多くの雑誌を講読しているそうだ。それを生かすも殺すも当人次第だ。

彼の言葉を素直に読めば、巧妙に結論にこじつける論法がみえる。

動物好きは人間が飢えているのを見過ごすことができても、自分の傍らにいる犬猫が飢えるのは黙視できないと井上氏は言うが、自分の傍らにいるからこそ黙視できないのだ。傍らに飢えた人間がいたらばやはり黙視できないだろう。

それなのに人類愛という大きな概念と傍らにいる飢えた犬猫という比較しようのないものをこけおどしのように出して、自らの「論理」を正当化しようと試みる態度はじつに卑怯である。

人は傍らにある不幸に対してしか実際に手を差し伸べることはできない。こういう考えだってありうる。むしろそれだけが真実だと身にしみて感じている人も必ずいる。

コメント (3)
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