季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

思い出したこと

2009年12月15日 | その他
最近の親は昔と違ってきているらしい。教員をしている人に聞いてもだいたいそのようなことを言う。

運動会の見物に来て、昼食を宅配などに注文する人が後を絶たぬ、あるいはバーベキューセットを持ち込んで焼肉パーティーをする。そしてそれを禁止しようとすると何故いけないのだと反論して自分の行為を決して改めないという。

そんな話を聞いているうちに思い出した。記憶の不思議さである。昔からいったい記憶というのはどんなメカニズムなのだろう、と不思議で仕方ない。記憶は脳の内部には無いという話を聞いたことがあるけれど、それは今でも覆されていないのだろうか。

さて、こんなところで脱線すると、どこまで行ってしまうか見当もつかぬから急いで戻ろう。

僕が高校生だったころ。山手線に乗り込むと、同じ車両に同級生とその母親とおぼしき人がいた。その男とはまったく話もしないような間柄だったので、僕は素知らぬふりをして、先方は幸いにも僕に気づいていなかった。

彼は上体を大きく崩して深々と腰かけ、股をこれ以上開けないくらい開いて、それは見苦しい格好だった。僕は嫌なものを見てしまったと内心舌打ちしてつり革にぶら下がっていた。

とある老紳士が「君、立っている人の邪魔になるではないか」と注意した。僕は背中を向けていたのだが、思わず「やったぜい!」と快哉をあげた。

喜びは一瞬しか続かなかった。

「何てことを言うんですか!今の子はね、足が長いんですよっ!」母親らしき人が猛烈な剣幕でまくし立てたのである。僕はちらと目をやったが、その男の足は格別長くもなさそうであった。

その後のバトルは僕は見聞きしていない。その場に居合わせるのが恥ずかしくて、こそこそと次の車両に移ってしまったからである。

今日、僕は自分の態度が卑怯だったと反省している。僕は姿を現してはっきり言うべきであった。「お前の足は短い!僕のほうがまだ長い!」と。

こういった親が今日では増えたというわけだろうか。それとも昔から一定数はいたのだが、昔は宅配ピザやバーベキューセットがどこにでもあるわけではなかっただけなのだろうか。

この点は今後の研究に俟たれる。(何でもこう言えば小難しく聞こえるでしょう。)世間ではそういった親が急増したというのが定説だが。僕は聊か疑問に思わないでもない。

それよりも気に掛かるのは、教師がなぜきっぱりといけないと主張できないか、ということだ。

この頃の親はと嘆くよりも、この頃の教師はと思う人も出てくるだろう。そうならぬために、少なくとも校長はそれくらいの決意が欲しいね。

親たちが仮に言うことに耳を貸さなければ、運動会くらい中止してしまう、そう覚悟を決めてしまえばよい。学校行事なんて理を捨てて後生大事にするようなものではないよ。


学校はキャンプ場ではない。当たり前である。出前を取るのがいけないというのに特別な理由はいらない。

理屈を言われるのを恐れて黙っているのか。それでは教師は子供に対してなにを示せるというのだろう。今時の親を難じて嘆くのであれば毅然とした態度を見せるべきだろう。

あるいは世の中便利になったワイと宅配ピザだろうがバーベキューだろうが認めてしまうか。僕には抵抗があるけれど、なぜかと問い詰められたって説明はできかねる。

いくつかの変化には付いていけて、いくつかには付いていけないという僕の心があるばかりだ。

因みに、最近は見てみぬふりをする人が多くて情けない、と耳にするでしょう。これについては僕は複雑な顔をして、でも怖いですよ、と言っておこう。

まだ高校生のころ、向こう見ずであった僕は悪さをしているチンピラに注意をしたばかりに家まで押しかけられて大変怖い思いをしたことがある。怖い目にあったときにはもう手遅れということもありうる。