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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

新年にあたって

2010年01月02日 | Weblog
新年おめでとうございます。

新年早々難癖を吹っかけるのも気が引けるから、宇野功芳さんの批判はちょいと休んで。

ブログを書き始めてちょうど2年経つ。いくらメモの代用といっても、我ながら書く材料がいくらでもあって驚いている。毎日の記録のようなことを書かなくて良かった。収拾がつかなくなるところだった。

しかし新年といっても特別なことはない。地球はいつも通りに太陽の周りを廻っているらしい。温室効果という大合唱も数年後にどうなっているのか、本当のところは誰にも分かっていない。宇宙の規模は大きいと今更ながら思う。

年末にそんなことを考えて、そういえばオゾン層が破壊されるという話は近ごろとんと聞かないな、となんだか旧知の人を訪ねるような感じで検索してみた。

意外なことに大きなオゾンホールはいつの間にかほぼ元に戻っているのだそうだ。代替フロンに切り替えたのが功を奏したという。

でもフロンガスが成層圏に達するには何十年もかかると言われていたのだから、それはちょっと話がかみ合わないぞ、とさらに見ていったら、何十年もかかって成層圏に到達するというのは俗説だとあった。

オゾンホールが修復された以上、俗説であるという説は正しいのだろう。

いろんなことが騒がれてはいつの間にか忘れ去られる。それ自体は人の世の常であろうが、危機感を煽ったからには結末もきちんと報道してくれと思う。

白洲次郎の雑文集「プリンシパルのない日本」というのをパラパラめくっていたら日本のマスコミはもっときちんと書くべきことのみ書いてくれ、どうでもよい脚色が多すぎる、といった注文があった。

吉田茂内閣のころですよ。ちっとも変わっていないなあ。

フロンが成層圏に達する速度くらい、ある程度分かっていただろうに。少なくとも予測した学者くらいいただろうに、きっとこちらのデータは無視を決め込んだのだろう。

若いころ、東京の空はたしかに霞んでいた。正月になると通行量が減り、青空が見えるようになった。毎年奥多摩の山に登り、関東平野を一望するのを新年行事にしていたからよく知っている。

遠く棘のように東京タワーが刺さり、左に視線を移せば霞ヶ浦まで見えた。奥多摩(当時は氷川といったと記憶する)行きの電車は本数が少なく、途中停車駅でドアを開け放したまま停車し、麗華6、7度という気温がえらく寒く感じた。

何だかついこの間のようにも思えるし、遠い昔の記憶のようにも思える。妄想かもしれぬ。

電脳

2009年08月20日 | Weblog
いや、パソコンを使ってこうして駄文をものにし、送信ボタンを押しさえすれば何百万人の人が僕の文を読める。考えてみれば不思議だ。それなのにそんなにたくさんの人が読んだ形跡がないのはもっと不思議だ。電車の中で話しかけられたら困ると思ってサングラスを買おうと思ったが、今のところ必要はなさそうだ。

メールなんて、いまどき誰も不思議に思わないで使っているが、一応の理屈は分かっても、じつに不思議だと思いませんか。

かつてファックスが広まり始めたころ、ハンゼン先生に何度説明しても理解を示さない。何、紙を電話機に差し込んで送ると先方に届く?紙がどうやって電線の中を移動するのだ?説明をしても、初めからありえないことだ、という態度だから、理解しようという気持ちが生じるはずもなかった。紙が電線、ありえない・・・と頭の中をめぐるのみ。

僕らは笑っていたけれど、こういった子供のような疑問はもっともだね。今にして思う。こうやって文字を入力する。それが0と1の信号に分解されて送信され、再び文字になる。なんて、いくらそうかと思ったって、よく味わおうとするともう、何だか奇跡のような気がしませんか。

だってね、その信号とやらが新幹線ですっ飛ばしている人のパソコンや携帯に「正しく」キャッチされる、なんだか奇跡に近い。素朴な驚きをもち続けていると、同じ調子でロトやトトに当たってもちっとも不思議ではないと力強く感じてくるから妙だ。

それならば僕を瞬時に素粒子レベルまで分解してもう一度組み立てなおすこともできそうな気がする。ついでに不具合なところを改善してさ。フォントを変えてしまうように、いい男になっていたりしてね。

ハンゼン先生がメールのことを知ったら何と言っただろう。「文字が空を飛ぶ?ありえない!」とぶつぶつ呟いただろうか。

攻殻機動隊という漫画がある。これが結構おもしろい。いやはや、込み入った理論や細部をよく面倒くさくならずに考えるものだ。科学の世界にけっこう詳しい人が描いたようだ。数年前にマトリックスという映画が流行った、そのアイデアの元になった作品だという。

義足や義手があるのだから、未来の世界には体ごと義体というものが売られている。すべての人間の経験は解析され、中央コンピュータに蓄積されている。法で守られているが、特殊任務に当たる者は、他人の記憶や意識の中に接続して探ることができる。

かたや、ロボットは便利さの極に達し、何かの偶然から自我を持ったものまで出来上がってしまう。(これはアニメになった方の設定だった)

その上で物語りは展開していくのだが、こういう話には小説はむかないと思わざるを得ない。

自我の問題が、いかに人間にとって必然的かつ根源的な要求から生じるかを示す「出来事」だが、あまり深くまで考察を進めると何がなんだか分からなくなる。適度なところで考察はやめて、適度な空想をすれば、空想力の旺盛な人は複雑きわまるストーリーを作り上げる。そんな逆説めいたことを思わせる。



新聞の用語

2009年04月07日 | Weblog
日本の新聞の文体や用語に我慢がならない。

と、いきなり宣言してしまうのも何か芸がない気もするのだが。

我慢がならないだけなら、各人の趣味の問題に帰することも可能であるが、この文体が何に由来するかを考えると、簡単に引き下がらないほうが良いと思われる。

さて、ここまで書いて、例を出そうと思ったが、なにぶん新聞をとっていないものだから、適切な例を挙げることが出来ないことに気がついた。作家と呼ばれる人は必ず新聞、雑誌に目を通すらしいが、作家にならなくて良かった。うっかりなっていたら新聞を何紙も読まねばならないところだった。

去年の3月くらいからほとんど外出もしないので、外出すれば電車の中で拾うなり、最悪の場合は一部買うなりするのだが、それもできない。この調子では僕の裡にある想念はむなしく消えてしまう。ここまで書いて、明日にでも2,3紙買ってくるとしよう。

一日だけは作家気分だ。うーむ、書けない、と唸るところまでそっくりだ。

さて。

例1
「静かで控えめ」な17歳の少年は、教室内で後輩らに狙いを定め、拳銃の引き金を引き続けた--。生徒・教師12人が射殺されたドイツ南部ウィンネンデンの中等学校では11日、校門前に生徒や親が深夜まで残り、涙を流して抱き合い、凶行への怒りをあらわにした。
 少年が三つの教室に相次いで侵入し、銃を乱射したのはわずか約10分間の出来事だった。教室に居合わせた女子生徒(16)は毎日新聞に「黙ったまま冷静に1人ずつを狙い撃ちした」と震える声で語った。


例2
必勝の一戦へのカンフル剤だ。岡田監督就任後2勝2敗のバーレーンに敗れればA組3位に転落する可能性もあり、進退問題浮上も避けられない。日本協会の犬飼会長からクギを刺された非公開練習を2回行うことも明言。「自信もクソも、勝つこと以外考えてない。勝つと信じているから」。冷たく底光りする指揮官の目は「勝ち点3」だけを凝視していた。


例3
 灰色の2隻が静かな緊張感を漂わせ、ゆっくりと桟橋を離れていった。北朝鮮のミサイル発射に備え、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」と「ちょうかい」が28日午前8時すぎ、佐世保基地(長崎県佐世保市)を出港した。

手当たり次第に3つ記事を選んだ。ドイツでの銃乱射事件、サッカーの記事、北朝鮮のミサイル発射予告を受けての記事、とご覧のように何の関連も無い。どれもが普段見慣れた新聞の典型的な文章である。もっとも、サッカーの記事はスポーツ新聞だったかな。

共通するのは、いずれも出来損ないの小説の文体に似ているということ。それは問題なのか?大いに問題なのである。

新聞は読者に臨場感を与える必要は無い。そんなことを目指せば、余計な形容が入る。ということは、出来事をなるべく正確に伝えるという使命から離れていく。

ドイツでの事件。凶行への怒りをあらわにしたとあるが、これは新聞の常套句だろう。震える声で云々も然り。最初の「」も誰かの発言だと言いたいのだろうが、こうやって少年を形容する意味はどこにあるか。

次第にある出来事をステレオタイプに分類する安直さが頭をもたげるだけだ。

サッカーの記事の冷たく底光りする指揮官の目・・・に至っては笑う以外に無い。これで負けてご覧、目は虚ろで動かず、不安を隠すことは困難だった、となるから。

こんなところで記事を書いた人の主観を語ってどうする。

この手のメディア側の「味付け」がいかにその場限りのものであるか。たかがスポーツ欄と言うなかれ。色んなところに同じ精神は表れる。

続きは改めて。



空想

2008年12月07日 | Weblog
空想という言葉が安く見積もられるようになってしまったのは残念だ。空想イコール非生産的、あいつは空想ばかりして実行の伴わない奴だ、といったふうにしか通常は使わない。

僕は空想力に重きを置いている。人間を人間たらしめている要素のひとつだと思っている。それもきわめて重要な。

以前書いたけれど、人類学上の人間発祥を、遺体を埋葬するに至ったときだとする説がある。遺体が腐り、野生動物に食い荒らされるのを想像するから埋葬するようになったのだろうか。

死後の世界という空想も案外同じころに宿り始めたのではないか。してみると宗教という人間にとってもっとも大切なもののひとつを導き出したのは空想する力だといってよいのだろう。

宗教といえば仏教やキリスト教など特定の宗派を信じない人は、自分にとって宗教は大切ではない、と反論もしようが、僕のいう宗教とはもちろんそうした宗派を意味しない。それらの宗派の歴史なんてたかだか数千年だろう。

誰しも宇宙のことに思いをはせて不思議だと感じたり、言葉に尽くせない感動を味わう際にちらっとある種の謎めいた心の動きを感じたことくらいあるだろう。人類がきっと大昔から味わったのだろうこの気持ちを宗教的なものと呼んで一向に差し支えないと思われる。

こんな大問題に深入りするつもりで書き出したのではなかった。

科学の進歩だって空想力に支えられている。鳥のように飛べたら、大空から見た地上の様子はどんなだろう、馬のように速く走ることができたらどんなに素晴らしいだろう等々、日常的な出来事に関してもつまるところ空想力の産物である。

人に読めるような字が書きたいものだという悪筆家(僕のようなやつのことだよ)がついにキーボードまで発明してしまうのさ。

女の声よりなお高く、男の声よりなお低く、風邪をひこうがなんだろうが歌えるようにならないかと意識したかどうかは別だが、そういう関心からピアノなんて生まれてきたに違いない。

それでも昔のひとがどう感じたかを想像するのは大変に難しい。

リコーダーのように素朴を極めた音から、バロックという巨大なエネルギーを持った時代を想像する難しさを考えてみればよい。ルーベンスの巨大なエネルギー、僕には何だか悪趣味でぴんと来ない世界であるがともかく凄まじいエネルギーだけは感じるが、その傍らで同じ時代の人々がほぼ似たような心を持ってリコーダーやガット弦の弦楽器で演奏していたわけだ。その音自体は現代でも聴くことができるけれど、そこからルーベンスを産み、幾多の壮麗な建築を産んだ精神との同一性を感じ取るのは難しいと思う。少なくとも僕にとっては。

あるいはまた平安時代の恋愛ならば容易に想像できるように思い込むのも、源氏物語をはじめとする文献があってこそだろう。

文献の残っていない時代にも当然恋愛はあったわけだが、いったいどんな様子だったのだろう。きっと今と大して変わっていなかっただろう。ドキドキしたり、告白をためらったり、途中で嫌になったり、またまたためらったりを繰り返していたのだろう。

ここでも、僕たちの空想はすでにリアリティーを失っていることを認めざるを得ない。縄文人の恋愛、容易に空想できる人は黙っていては勿体ない。小説にしなさいよ。もっとも売れないと思うけれどね。今年下半期の芥川賞は縄文時代の恋愛をリアリティー豊かに描いた「土器の秘密」に決定しました、なんて絶対にないな。まあくやしかったら書いてみなさい。

権力闘争ならばもう少し想像でき易そうであるがそれだって結構難しいよ。

日本での最初の大政変は蘇我氏と物部氏の戦いだろうが、大将が榎木に跨って矢を射ること雨の如し、なんてよく考えてみれば現代のガキのけんかじゃないか。それで日本の歴史が変わっていくのだからね。

命の教育に続きがあった(ブタがいた教室)

2008年12月04日 | Weblog
ちょっと前に教室で豚を飼っていた学校のことを非難した。そうしたら今日生徒から、その美しい話は「ブタがいた教室」という映画になっていて、ふたたびニュースで取り上げられたと聞いた。

僕の意見は重複するだけなので繰り返さない。記憶がいい加減だったことも判明した。「花子」なんて書いたが「ピーちゃん」だった。

件の教師はその素晴らしい授業成果をひっさげて講演会に忙しいという。事業成果の間違いかと思ったがね。

報道によると、自分の「教育」のもたらした結果に自ら感動していたそうだ。それは分かりきったことだから捨てておく。子供たち、今や大人になったかつての子供たちの中には、素晴らしい体験だったという人と、顔にモザイクまでかけて、今でもどうしたら良かったのかとトラウマになっているという人とが混在するという。

これも予想されたこと。

命が大切なことはいうまでもない。僕自身はそれを「教える」ことなぞ必要ないと思うけれど。面倒なのはそう発言すると、僕が(あるいはそう発言した人が)命は大切ではない、と言ったように曲解するおっちょこちょいが必ず出ることだ。

「教える」ことが大切だと力みかえる人は、よく考えて欲しい。こうしたことは教える性質のものかを。人を好きになることと同じように、ひとりでに覚えるものだろう。そこでは感受性だけがものをいう。これなくして命なんて分かるものか。うそ臭い友情、団結、片方でそんなことをしながら豊かな感受性を育む教育を標榜するのだろうか。

もうひとつは、もしも教えなければならないものだとして、是が非でもこういった方法を採らなければならないのか、ということ。宮沢賢治の「なめとこ山の熊」でも読ませておけばすむだろう。徹底的な討論だけでもすむかもしれない。

いや、実地でしなければ効果はない。なるほど、では危ない場所に行ってはいけない、と教え込むより危ない場所に行かせるほうがよっぽど教育的だろう。やってみたらいいじゃないか。

精肉業者がどうやってつぶすかまで見せたらいいじゃないか、そんなに実地実地と騒ぐのならば。

仮によく効く薬があったとする。たいへん効果はあるが1割程度、副作用で死者が出たとしよう。死者ではなくてもよい、重篤な副作用でもよい。社会的大問題に発展するだろう。トラウマになっている生徒が仮に数人だけ出たとしても、負の副作用が出ているわけだ。それを捨てておいて、なにが命の教育だ。偽善にもほどがある。

僕は平等とか自由という言葉が嫌いである。ここでも間違えないでもらいたい。こういう種類の言葉は、人前で滔々と口にするものではない、口にしただけでうそ臭くなってかなわない、という意味だ。それを口に出す人の口調による、と言っても良い。

ここまで書いて検索をしたら、その教師は今、さる大学の教授だか、准教授だかになっていた。顔を見て声も聞いたが、少しの迷いもない単純な声である。僕は人を声で判断する。

記者の理想的な教育者像とは何か(この質問自体、この国にありがちな陳腐なものだが)という問いに遅疑なく「それについては自分にはかなりはっきりしたものがある。自立した人を作ることだ」と答えていた。ご立派ですと答える以外ない。

信念というものは頭に宿るのではない。頭に宿っただけの人は声でわかる。この人もクラスでピーちゃんの処遇を討論しているときに涙を見せる。だが、これはセンチメンタルな涙だ。

福沢諭吉に「痩せ我慢の説」という文章がある。勝海舟と榎本武揚に対する疑義を表わしたものだ。生前発表はされずに、ただ対象の二人に示されただけだった。

榎本武揚に対して福沢は言う。
函館五稜郭にあなたに従って立て籠もった兵士たちは、新政府に異議を唱えるあなたを慕って死んでいったのである。それなのにいったん投降した後に新政府の高官に取り立てられるのはいったい義があると言えるであろうか。なるほど人は時が経つにつれ意見が変わることもあろう。

しかし自分に従って命を捨てた人を思えば、新政府の要職を請われたといえども、また自分にその職を全うする能力があると自負したとしても断るのが人の情であろう。あなたはそれについてどう思うか。

簡単に言えばこういうことだ。きわめて簡略な、福沢という人の心の動きを伝える文章である。

僕は件の教師が今は大学教員に「昇格」したのを知ったとき、すぐこの文章を思った。この人が本心から教育現場において子供と接し、生命について語り続けたかったのであれば、断固現場に残るべきであった。本当に子供とともに迷ったのであれば、是非はともかく、今も小学校に留まっていたであろう。

僕のこの意見はこの若い人に対しては厳しすぎるのを承知する。ただ、この種の話に表面上の感動を覚える人に対し、また、この人が教員を目指すより若い大学生に自らの体験を素晴らしいものとみなして必ず見せていると言うのであえて書く。


天の川

2008年11月28日 | Weblog
天の川と誰が言い始めたことか知らないけれど、言いえて妙だ。もっとも都会に住む我々にとって星空は薄汚れた斑点みたいなものだが。

中原中也に「星とピエロ」という詩がある。何ともとぼけたようで、都会人、文化人のおセンチさを皮肉ったようでもある詩だ。

  何、あれはな、空に吊した銀紙ぢやよ
  かう、ボール紙を剪って(きって)、それに銀紙を張る、
  それを綱か何かで、空に吊るし上げる、
  するとそれが夜になって、空の奥であのやうに
  光るのぢや。分かつたか、さもなけれあ空にあんなものはないのぢや

  それあ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞといふが 
  そんなことはみんなウソぢや、銀河系なぞといふのもあれは
  女共の帯に銀紙を擦りつけたものに過ぎないのぢや
  
   以下略

詩の出来が良いとは思わないのだが、中也という人が分かる。僕にとって中原中也はきわめて親しい抒情詩人なのである。フーンと思った方はぜひ一冊の文庫本をお買いください。
  

さて天の川であるが、僕は若い頃さかんに山歩きをしたことは書いたことがある。不幸なことに、ピアノを専攻していると最低限練習は必要だし、さかんに山歩きといったところで知れてはいるのであるが。最低限の練習もしていなかったではないか、という人は僕を熟知した人だ。脱帽しよう。

尾瀬は好きで何べんも行った。大清水から三平峠への登りは、むちゃくちゃ(原稿用紙にだとこんな言葉を書くことが絶対ないのだが、パソコンに向かってなら書く。面白いものだ)足腰が強かった僕にもきついと思われた。(ここはいくらパソコンに向かってでも超きついとは書かない。

初めて行ったのは山小屋が閉じる直前、尾瀬ヶ原の紅葉は終わり、一面ベージュ色の平原に変わって冬を待つばかりになる頃だった。

沼田駅から大清水までのバスの中で、僕は紅葉のあまりの美しさに見とれていた。赤のシンフォニーなんて当時書いたことまで覚えている。それが高度を上げていくうちにみるみる枯葉に変わっていく。三平峠を過ぎた辺りでは、木々の間から目指す長蔵小屋が見えるほどまでに葉が落ちていた。

何度も尾瀬に行ったというのに、こんな時期を選んでいく時間的自由があったから、山小屋には自分ひとりだけ、他にいてもほんの数人ということが多かった。恵まれていた。その代わり水芭蕉の季節に行ったことがない。

急に思い出したが、深田久弥さんの山の文章は良い。あそこまでじっくり腰をすえて書かなければ山のことなぞおセンチな形容詞のオンパレードになるだけである。注意したい。深田さんが尾瀬について書いているのはきっとあるはずだ。燧ケ岳や至仏山が聳えているのだから。

夜も更けてから宿を抜け出る習慣がいつからあったのかもう覚えていない。尾瀬沼には当時桟橋が残っていた。それより以前は尾瀬沼を渡る船があったのだが、沼の水質汚染を防ぐため廃止され、今は桟橋だけが残っているのだった。僕は小屋のすぐ脇にある桟橋の突き当りまで行きしばし佇んだ。

運の良いことに、僕が泊まった夜は快晴だった。漆黒の闇に天を見上げれば、文字通り満天の星である。後にも先にもあれほど凄絶な星空を見たことがない。

空を女共の帯に銀紙を擦り付けた銀河がうねって横切っている。天の川は白い帯のように、疑いようもない夜空の川として流れている。長いこと見つめているとそれはたしかに無数の星の集まりに見えてくる。多分知識がそうさせるのだろう。そうだ、あれは銀紙だった。

当時は無数の星が見えてくる思いがして、そのうちに気が遠くなりかけた。「気をつけないと沼に飛び込むぞ」僕の内でそんな声がした。

しばらくして僕はまるで酔っ払ったように宿に戻った。

もう一度あんな星空を見たいものだ、あれからもう40年ほど経つ。僕も成長しただろうから沼に落ちることはあるまい。きっと銀紙に見える境地に達しただろうと期待している。

5千円札

2008年11月09日 | Weblog
五千円札の樋口一葉をまじまじと見たことがありますか。

あの肖像はよく見かけるね。樋口一葉といえば大抵あれだ。

で、お札の肖像なのだが、目が異様だ。具体的に言えば黒目が変だ。というか、白目がほとんどない。だから不気味に見える。つい最近気がついた。五千円札ともなるとそう頻繁に使用するものではないし、使用するとはすなわち支払うことで、ついつい伏目がちになって、観察がおろそかになっていた。お札が黒目がちなのに対して、こちらは伏目がちなのであった。戦わずして負けていたと言わねばなるまい。

以前、Xファイルというアメリカのテレビシリーズがあった。僕はテレビや映画をほとんど見ないのだが、このシリーズは、レンタルビデオで借りて、とうとう全作品を見た。人気があったと思う。というのは、レンタルショップに同じ作品が何本も置いてあったから。

メインテーマは地球に異星の生命体が潜んでいて、人類は少しずつ侵食されつつあり、それを変わり者のFBI捜査官が追求する、というもの。

それに挟まって様々の怪奇現象を追う話がある。深海の未知の細菌あり、憑依現象あり、さまざまなのだが、それらは科学的に類似した研究が行われているらしい。真偽のほどは知らないけれど。結構ありそうな話が多く、面白く見てしまった。

ところで異星の生命体はタール状に変容して人間にとりつく。これがなかなか怖いのである。とりつかれた人間の目は一瞬タール状の液体に覆われて白目が消え黒目だけになる。

つまりこの、乗っ取られた人間の黒目を思い出させるのだ、五千円札のおけぐちいっぱは。怖いなあ。

ついでに新旧の千円札があったから比べてみると、ここでも新しいお札は黒目がちなのだ。夏目漱石は自然なのに、野口英世は乗っ取られている。

千円札に対しては伏目がちではなかったと思うのだが、それにもかかわらずこの小さな変化に気がつかなかった。人間の観察力なんて多寡が知れているのだね。きっと知人がタール状の異星人に乗っ取られても誰も気づかないのだろう。自分が乗っ取られても気づかないのかもしれない。

この印刷の変化はどこからきたのだろう。そういえば切手の印刷も、ずいぶん雑になったような気がする。子供のころ切手収集家が大勢いた。現在もいるに違いないが、その数はかなり減っているのではなかろうか。

僕は集めていなかったけれど、図案も印刷もずいぶん綺麗だったのは覚えている。外国の切手を見せてもらって、けっこう雑に印刷するものだと思ったのも覚えている。そういえば切手屋というのは今もあるのかしらん?羨ましくて店頭を覗いたこともあったな。

そのころに比べて、図案も印刷も安っぽくなったように思う。

どこで読んだのか、もう不明だが、日本人のお札に対する態度はヨーロッパ人とずいぶん違う。銀行員がお札の束を虫ピンでブスリと刺したのを見て心からびっくりした、という。

それはその通りで、日本でアルバイトがお札をブスリとやったらきっとクビだね。

デンマークのお札が粗末だったなあ。オランダも。他の国のことは覚えていないが、なんだか漫画みたいな肖像だったような気がする。

お札なんか、それ自体の価値ではないから、貨幣価値が認識されれば良いのさ、といったところなのかな。

留学する前に、都心の銀行本店で100万円をドイツマルクに換金した。銀行に着くまではカバンをしっかり抱え、辺りを窺いながら、犯人さながらの様子でひっそり歩いていたのに、マルクに換えたとたんに気が弛み、ふと気づけばカバンの蓋が開いていて驚いた。所詮紙切れだから、実感のないマルク紙幣は何の価値も感じられなかったのだろう。このときの僕の油断に気づかなかったスリはプロではないぞ。

この人間心理を上手についているのが、カジノのチップだ。現金をただのプラスチックのチップに換えて遊ぶところがみそだ。アラブの長者はともかく、ふつうの人はお札だったらびびって賭けきれまい。

お札の印刷職人が練習のために名画の模写?をしていることは書いたことがある。僕が感じるのは、お札のデザイン化が進むにつれて、名画の模写も何だか粗くなったということである。新しいシリーズも出ているけれど、そんな印象を受ける。
もしそれが当たっているならば残念だ。名画のコピーを再び版画で、というのが僕の願いだから。






命の教育

2008年10月31日 | Weblog
どこかの小学校で豚を飼っていた。花子だったかな、名前までつけてね。

担任が、子供たちに命の大切さを分かってもらおうとない知恵を絞って考えたのだ。子供たちはその豚を甲斐甲斐しく世話して、花ちゃん、花ちゃんと可愛がっていた。

子供たちはいやでも歳をとる。6年生が終われば卒業するのである。担任は当然そこで教育的成果が発揮されると確信していたのだろう。

学級会が開かれ、花子の処遇について、討論がなされた。最後に多数決により、花子は精肉業者に引き取られることになった。

別れを悲しむ子供たち。何も知らずに運ばれていく花子。子供たちは命の大切さを身をもって知った。その姿にまた感銘を受けるテレビの前の人々。

これはグロテスクだ、と僕は断じておく。

豚肉は大好きだ。旨い。ハムにもなる。しかし僕は、場に行こうとは思わない。子供を行かせようとも思わない。それは特別なことではないだろう。たいていの人がそうだろう。それとも僕は命の大切さを知らないというのか。

僕たちは何の因果か、他の動物を食して生きているが、少なくとも現在食卓に並ぶ肉は、一種抽象的な「肉」という食物である。

昔の田舎では、鶏や豚を飼うのが当たり前だった。僕もそういった村で育ったのだ。そこでは、夕食のために鶏を絞めることが日常だった。僕にいたっては、今でこそウサギを2匹飼っているけれども、ご幼少のころはウサギの毛皮で作った服まで着せられていたという。ただし、僕はそれらの場に居合わせたことはない。農村の子供でも、その場に居合わせた子は、そう多くはないだろう。きっと大人がそれなりの配慮をしていたものと考えられる。あるいは無頓着なこともあったかもしれない。しかし、すべて過ぎ去った時代のことだ。

現代の生活の中で、わざわざ名前まで付け飼育したら、それはペットというのではないか。ペットを食うか、食わないかを子供に議論させないと命について教えられないというのかい。

いいんだよ、俺は旨けりゃなんでもいいさ、という子だっているだろう。その子に合わせて教育するならば、しかし命の教育なんてお題目は消し飛ぶではないか。そもそも命の大切さなんて教えるものではない。そんなものは感受性とともに、自然にある。

教室中で可愛がっていたというからには、多くの子供たちが愛着を持っていたのだろう。そこにディベートとやらで、何やらかにやら、いかがわしい理屈を教え込んで、何人かの子供がやむなし、に転向したのだろう。だいいち他にどんな選択肢があるというのだろう。教師は最初からこの結論に導きたかったのだと僕は思ってしまう。

生徒の飼い犬を連れてきて解剖でもしてみればいいじゃないか。「悲しいね、もうこの子は帰ってこないんだよ」とみんなで泣いてみればいいじゃないか。生きることの大切さをそうやって教えてみろ。馬鹿につける薬はない。

生命の不思議さ、尊さを教えたいなら教えるが良いさ。しかしそのためにこのような手の込んだことをしなければならないのだろうか。何と心ない教師か。それを「美談」として取り上げるテレビ局もテレビ局だ。感心しない話だが、昔はみんなそうやっていたのさ、と訳知り顔をする奴もする奴だ。

昔はこうだった式の議論はたくさんだ。それならば、日本もついこの間までは「間引き」といって子供を殺していたのだ、親がね。そういう生活が現実にあったのだ。一応表向きには貧しさのあまりということにはなっているが、実情は少し異なっていたようだ。だからといって、今でも子供を殺す親がいるのは不思議はない・・・なんていう論法はなりたたぬだろう。

動物に接することで優しい心を育む、というお題目も、「花子」を売るか否かを通して生命の尊さを教えるというお題目も、なんともうそ臭い。片方のセンチメンタルなうそ臭さがもう片方の、正義を気取った残忍さを生む。

この教師は自分の教育成果に満足してぐっすりと眠ったであろう。こういうのを人情がないという。感銘を受けて真似する教師が出ないことを祈る。

いかにも教育的配慮がありそうに見えるが、その実、驚くべき不感症に満ちている。以前にも書いたけれど、僕は動物が好き、ただそれだけだ。それは僕の感受性を保障もしないし、僕が優しい人間だということも示さない。

僕は子供に同情する。そして、この手の「心」や「教育的配慮」に嫌悪感を持つ。










こおろぎ

2008年10月29日 | Weblog
深夜に風呂に入る。僕の日課である。足りない頭を休める唯一の時間だ。湯船に長々と体を伸ばして息をする。我が家の浴槽が特別大きいのだと信じていたが、実は僕の足が短いのであった。家族から指摘されてはじめて知った。

どうでもいいや、気持ちが良いことに変わりはない。この時期にゆっくり湯に使っていると、外からコオロギの鳴き声がさかんに聞こえる。これは好きだなあ。夏の間草取りをしないで正解だった、と心から安心できるひと時である。

近隣は大変几帳面な家が多く、我が家から伸びた蔓やどくだみの根をきっといまいましく思っているだろうなあ。境だけは、申し訳程度に(時々)雑草取りをするのだが。

でも、せめて我が家のコオロギの声を楽しんでください。と調子のよいことばかり考えていたら、どこの家の庭先からも鳴き声がする。

車で走っていて気づいたから、面白く思って窓を開け、ゆっくりと運転してみた。驚いたことに途絶えることがないのである。声の濃淡はあるものの。濃淡のおかげでリゲティの曲を聴いているような気さえしてくる。うそだと思う人はやってごらんなさい。

ここまで書いてちょっとの間放っておいた。今夜になるともう盛りは過ぎたようだ。我が家の庭(猫の額ほどだよ。隣の家に泥棒が入ったとき、我が家の壁に足跡がくっきり残っていた。つまりそれを足がかりにして隣家の窓によじ登れるくらい隣接しているのさ)だけはまだけっこう鳴いているが、一時期よりだいぶ減った。虫の命も短いなあ。

ディッケンズの小説に「炉辺のこおろぎ」というのがある。子供のころ読んだきりだが、そのころは何の疑問も持たなかった。でも、イギリスにコオロギがいるのだろうか、と急に疑問に思い始めた。ドイツにはいたのかな、それも今となっては思い出せない。注意したことがなかったのだから、思い出すも出さないもないのである。

シューベルトの歌曲には出てくる。してみると生息しているのだろうか?気になってきた。辞書には載っているし、単語も知っている。Grilleといいます。ところがずいぶん森や閑静な住宅街を散策したにもかかわらず、コオロギの声は記憶にないのだ。

記憶にございません、というのは政治家の常套句であるが、この場合は記憶にあるという心証を与えることが多いね。しかし僕のは正真正銘記憶にない。

ちょっと調べてみたが(忙中閑有りです)南アジアには大きな種もいるという他は、寒冷地にも生息しているものかすら分からなかった。

ボキブリが寒冷地に生息していないのは知っていた。ドイツで、交通の発達とともに、南方から飛行機内に紛れてゴキブリが飛来し、暖かいレストランの厨房に住み着いている、という警鐘記事を読んだことがある。

友人に北海道出身の男がいて、北海道にはゴキブリがいない、というのが自慢だった。僕も九州にはヒグマはいない、と自慢しておくべきだった。

その男の親父さんが東京の旅館に宿泊し、女中さんが茶を出したときに、テーブルの端だか部屋の隅だかにゴキブリが現れた。「ほう、コオロギですか、風流ですなあ」と言ったら女中さんがいやな顔をしたそうである。旅館といい、女中さんといい、時代を感じさせるでしょう。

この話のどこまで真実か、ダボラばかり吹く奴なので分からない。しかし、この話からうかがえることがひとつはある。北海道にもコオロギは生息している、ということだ。してみるとヨーロッパにもやはり生息しているのだろうか。

友人は今もゴキブリは北海道にはいない、と信じているのだろうか。フランクフルトに飛行機で飛来するくらい無賃乗車が上手な生物なのだ、彼が往復する車に乗って、必ず大挙押しかけているだろう。

コオロギの風情から始まって、ゴキブリにまで話が落ちた。まあ良いとしておこう。

マンホール

2008年10月17日 | Weblog
久しぶりに外出し、一駅手前で降りて歩いた。30分ほどかかったのだが、その時、道路にマンホールの金属製の蓋がずいぶん目に付くことに気づいた。

以前から自転車に乗りながら、漫然と「雨の日はマンホールの蓋がすべるから気をつけなくては」と思ってはいたのだ。

なんだか急にどのくらいあるのだか気になってきて、どうせ歩いているだけだし、見回して美しい景色ではなし、いっそ数えちまおうと思った。小人閑居して不善をなす、暇人散歩して不自然をなす。

数えた奴も奴だが、徒歩ほんの12,3分のところにいったいいくつあったと思いますか。100個を超えるマンホールの蓋があった。

これを開くとどうなっているのか、注目したことが無かったので知らない。ヨーロッパのマンホール事情にも詳しくないが、こんなにどっさりは無かったのではないか。

何のためにあるのかといえば、もちろん上下水道管などの保守点検だろう。ヨーロッパの下水道は、マンホールを開けて中に入ると、天井が高くて、そこを自然の川のように流れている。映画などで知る限りそうだ。

日本も東京のまん真ん中に行けばそうなのかな。

宇井純さんの本で、ヨーロッパの昔からある中央集中型下水施設は効率が悪い、とあった。天井の高い下水道はパリとかの大都会に見られるもので、決して模範にするものではない、といった内容だったはずだ。たしか栃木県のどこかに宇井さんの「設計?」による下水処理施設があったのではないか。

僕は下水に大いなる関心を持っているわけではなくて、ふと都市の機能を知りたくなったときに上記の本を読んだ。

マンホールからそれてしまうが、電線を地中に埋めてしまったらどんなにさっぱりするだろう。我が家から少し歩いたところでわき道がほんの少し下って、その先に丹沢連山が望めるところがある。

この角度で見える丹沢連山は、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンという町を思い出させる。家並みの薄汚れたところを見ないようにすれば、なかなかどうして、美しい景色だ。ガルミッシュはリヒャルト・シュトラウスが住んでいた町だ。昔訪れた後にそれを知った。でも、なるほどシュトラウス好みだ。丹沢を望む薄汚い町は別に僕好みではないよ。断っておく。

ガルミッシュを思い出させるとはいっても、広く開けた空を幾重にも横切る電線が邪魔だ。電線とアンテナを見ないように目を細めてみると、本来の眺めが分かる。もったいないことだ。

バブル絶頂のころ、経済界(コーヒー界もあるんだぞ)のお偉いさんたちの座談会で、電線の地中化について言及していた。日本中の電線を地中化すると何兆円だかが必要で、僕はびっくりして、これは無理だなと思った。

しかし経済界ともなると話はでかい。「なんだ、たったそれだけでできるんですか」という人がいて、誰もその発言を咎めたりしなかったところをみると、何兆円という額は問題ではなかったのだろう。

電線を埋めると、地震の時にライフラインの復旧が遅れる、というのが公の言い分らしい。でも、大地震が来たときの危険のひとつが垂れ下がってくる電線なんですよ。我が家から見える電線がぜんぶ垂れ下がったら、まあ恐ろしくて避難どころではないな。地中化されていればとにかく逃げられるではないか。あんまりバカらしい言い訳をしないで貰いたいね。

だいいち、今では大抵の県庁、市庁の近辺は地中化されているだろう。

で、マンホールだが、あんなたくさん蓋ばかり付けた理由はなんだろう。うなぎの寝床というでしょう。次々に当初の計画外の部屋をつぎはぎしてそうなってしまうのだろう。先日のビデオ喫茶も、無計画に部屋を増やして通路を塞いだらしい。あんな感じに掘っては蓋、掘っては蓋、と増え続けたのだろうか。

いつもの風景の中にも、本当の姿は分からないものがいくつもある。もしかしたら「マンホールの蓋界」というのもあるのかもしれない。もっと早く気づいて蓋製造業になっておけばよかった。