パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

善意の人々

2011-01-12 14:42:18 | Weblog
 なんなんだろう? タイガーマスク運動。

 …と、疑問形で書いたけれど、別に謎めいているわけではない。

 逆に、はっきり言って、見て取りやすい、きわめて底の浅い「運動」だと思う。

 「破滅への道は善意の小石で敷き詰められている」、という有名な警句を誰も口にしないのが不思議だ。

 これが、まさに「善意」の圧力か?

 「ありきたり」すぎる警句なら、別の言い方もある。

 「悪意をもって悪事を行う人はいない」。

 経済学者のマイケル・フリードマンの言葉だ。

 あるいは、連続テレビドラマ、「プリズン・ブレイク」。

 ものすごくこすい、かつてのトニー谷を思わせる、詐欺師がいる。

 詐欺だけでなく、殺人もやらかしている極悪人だが、その彼がとある会社のトップセールスマンになりすまし、重役たちの前で、自分がいかに素晴らしいセールスマンであるかをアピールする場面があった。

 最初のうち、なかなか思うように口が回らず、重役たちは「こいつは本当にすごいセールスマンなのか?」と疑いの目を向けるようになる。

 「ヤバい」と思った詐欺師は、彼のモットー、「いざとなったら当たってくだけろ」で、自分の刑務所時代の経験を、人から聞いた話として語りだす。

 すると、真実の強みというか、重役たちが耳を傾けだすが、一人が、「犯罪者の言う事など当てにならない」とか、そんなことを言う。

 詐欺師は憤然として言う。

 「犯罪者だって人間だ」

 重役連中は、静まり返ってしまう。

 「善意」に凝り固まっている人は、この「犯罪者だって人間だ」ということがわからない。

 正確に言えば、「犯罪者だって人間だ」という言葉に含まれている理屈がわからない。

 何故なら、善意の人は「善意の枠」でしかものを見ないし、判断しないからだ。

 そんな「枠」をいくら広げたところで、何にもならないことは明白だ。

手を叩いて笑う

2011-01-09 17:15:34 | Weblog
 私は、「今時の若者」に対して決して悪い感情は持っていないのだが、ただ一つだけ、大嫌いなことがある。

 それは、笑う時に手を叩くこと。

 特に若い女性が、「芸人さん」に向かって、手を叩いて笑っているのを見ると、ひどく「おばさん」ぽく見える。

 あるいは、チンパンジー。

 こんなことをなんでいきなり書いたかと言うと、NHK教育テレビで、「既に定着した習慣」として、「どう手を叩けば、相手に気に入ってもらえるか」という問題をしてとりあげていたからだ。

 「定着した」ということは、以前は、笑う際に、手を叩く、手を叩きながら笑うという習慣は、少なくとも、相手に対して手を突き出すように、わざとらしく拍手する習慣は、昔はなかったように思う。

 「どう手を叩けば、相手に気に入ってもらえるか」って…?

 それって、「お追従」の笑いじゃないか。

 始めたのは関根勤とか、高田文夫あたりではないかと思うのだが,「お追従」の相手は、高田文夫の場合だったら、ビートたけし、関根の場合だったら、タモリあたりか。

 一般的な見方とは違うかもしれないが、タモリのラジオを聞いていて、ひどくつまらないと思ったことがある。(ビートたけしの深夜ラジオは聞いたことがないのだけれど、多分、似ているのではないかと想像する。)

 二人とも、とりわけタモリは「テレビの人」であって、ラジオの聴取者は、テレビと同様に「面白いはず」と思いながら聞いているのではないか。

 だとしたら、それこそ「お追従」だ。

 芸人が客に「お追従」しようとするのは当たり前だが、客が芸人に「お追従」の拍手を送ると言うのは,どういう現象なんだ。

 ちょっと今日はネタ不足だが、「手を打って笑う」が嫌いなのは本当にマジでそう思う。

捨てるべきか、捨てざるべきか

2011-01-07 14:17:08 | Weblog
 さて、今、本棚を整理しているということは、要するに、本の取捨選択を行っているということだが、これがじつにむずかしい。

 パラパラとめくって、「なんだ、こりゃ」、「詰まらん」と思ったら、私が買った本なのだから、遠慮なく捨てればいいのだが、「詰まらない」と私が思った、あるいは思わされた理由があるはずだ、と考えると捨てることが出来なくなる。

 たとえば、典型的なのが、加藤典洋の「敗戦後論」。

 前半の、「敗戦国としての倫理」を扱った表題論文は、正直言って全然つまらないのだが、後半、それが文学とつながると、面白くなり、だとしたら前半の「敗戦国としての倫理問題にも、今回答を出すのではなく、興味をつないでおいた方がいいだろうか」と悩む…といった具合だ。

 意外だったのは三島由紀夫だ。

 そもそも、別に三島ファンというわけでもないのだが、評論としては「文化防衛論」、小説としては「愛の渇き」だけ残しておけばいいという感じなのだ。

 この「結論」は、我がことながら、ちょっと意外だ。

 あと、妙チクリンな位置にあるのが伊藤整の「日本文壇史」。

 私は思想家としての伊藤が好きで、フリマで、どさっと5、6冊置いてあったのを買ったのだが、パラパラと目を通した限り、伊藤の一貫した思想に基づき、近代日本の文学を眺めるという、私が想像したような印象はなく、ただ「へー、そうだったのか」と興味本位で読めてしまう。

 たとえば、福沢諭吉が大変な酒飲みで、朝昼晩欠かさず酒を飲んでいたが、さすがに少し控えようと思い立ったものの、なかなか止められず、知人に相談すると「酒につい手が伸びてしまうというのなら、代わりにタバコをやったらいかが」と、今では信じられないようなアドバイスを受け、以後,それまで吸ったことのないタバコを吸うようになったが、酒は依然としてやめられず、結果的に、タバコを吸う習慣が一つ増えただけだった。

 …とか。

 それでも、福沢は元来大変に頑健な人で、ずっと健康だったが、60代半ばになって、さすがにその影響か、脳梗塞で倒れてしまった。

 そして一時は口も聞けず、文字も読めず、知人の顔の区別もつかないような朦朧状態に陥ったが、肉、魚等を断つ食事療法で、1年後には元に戻った。(ツゴイ)

 しかし、元に戻ったものの、以前のような生活に戻ったせいか(とは、書いてなかったが)、数年後、再び脳梗塞を起こして死んだ。

 ちょっと、というか、私が抱いていたイメージとはだいぶ違う福沢諭吉だ。

 あと、志賀直哉が、自分の家の女中と一緒になりたいと父親に頼んで、はねつけられ(これがもとで父親と不仲になる、有名な話だが)、師である内村鑑三に相談にいったところ、内村は書斎の椅子に座ったまま、片足を窓の桟に乗せ、上体を反らして、「そりゃこまったなー」と答えた、とか。

 まるで、自分の目で見てきたような文章。

 もちろん、どこかで拾った「ネタ」に違いないのだが、不思議なのは、登場する近代日本の名だたる小説家、詩人の行状が全部この調子で語られていることだ。

 いずれにせよ、こんなのをおもしろがって読んで、「文学鑑賞」の助けになるのかと思うが、日本の小説は基本的にすべて私小説なので、「助け」になるが答えだろう。(よって、捨てることはしないことにしよう…)

 菅総理が、「社会保障と税制の改革を一体化して行うことに政治生命をかける」と言った由だが、「その言やよし」とほめ称えたいところではあるものの、「税制改革」が「社会保障制度の改革」と一体化しているのならいいが、実際には「税制改革」は、「日本国の財政の立て直し」のことを指しているに違いない。

 「ない袖は振れません。税制を改革し、財源を確保しないと社会保障なんて、できませんよ、野田大臣」と財務次官。

 「うん、そうだな」とアホ野田がうなずいて、「オオム返し」にそのまま菅首相に進言。

 バカ菅「わかった」

 といったところが、真相だろうが、社会保障改革は「日本国民の問題」だが、財政の立て直しは「政府の問題」であって、それを「バーター」にするようなカラクリは、断じて許し難いのだ。

侮り難し相良直美

2011-01-06 17:15:27 | Weblog
 山下敬二郎が亡くなった。

 享年71と聞いて、あれ?と思った。

 もっとずっと上と思っていたのだが,この話題は私の年齢に跳ね返ってこざるを得ないので早々にやめにして、小倉智昭みたいな、一応音楽に詳しいと言われる人が、一様に「日本のロックの原点」と言っているのに違和感を持った。

 彼のステージのビデオが流れていたが,正直言って彼(ら)は、ハワイアン音楽が「ジャズ」と言われていた戦前のミュージシャンたちの最後だったんじゃないかと思った。

 そう思って「ダイアナ」を聞けば、趣きも増すというもの

 とこうしているうち、相良直美が新曲をリリースというニュースで、相良直美の綾戸智恵の物真似が「激似」であるというコメントに、小林信彦風に言えば「意表をつかれた」。

 だとしたら、実は彼女は、外見の素人っぽさに反して、ものすごい「芸人」だったのかもしれない。

 あの「素人っぽさ」こそ、彼女の芸風だったのだ。

 侮り難し、相良直美。

ペンギンとペリカン

2011-01-05 19:33:45 | Weblog
 「ペンギン」と「ペリカン」を、混同してしまう、という人はあんまりいないだろうが、私は、時々混同してしまう。

 とはいえ、ペンギンを実際に見て、「あ、ペリカンだ」と思ったりすることは、さすがにない。

 ペリカンを見て「ペンギンだ」と思ったりすることもない。

 ただ、「ペリカン」、あるいは「ペンギン」という文字だけを目にすると、時々、シンボリズムというか、なんというか、頭の中で、「ペリカン」という文字が「ペンギンの図像」と、「ペンギン」という文字が「ペリカンの図像」と結びついてしまっている自分を発見して、「あれ?」と思ったりするのだ。

 なんてくだらないことを、本棚を整理していて、かつて京都のプレイガイドジャーナルと呼ばれた、ミニコミ誌「ペリカンクラブ」を見つけ、思い出した。

 今だって、一瞬、「ペンギンクラブ」と打ち込みそうになってしまった。

 共通点は、「鳥」と「ペ」だけなのだが。

 しかし、中を見て、まず、「懐かしい」と感じた一方、コラムを書いている人や、インタビューを受けているミュージシャンとかを包む、「80年代」というサブカルチャー全盛時代の空気そのものは、今もそのまんま、信じられているらしいのは、慶賀すべきか、そうではないのか。

 いずれにせよ、ああいう、本質をうがっているのか否か、よくわからないなりに読ませてしまう、いわゆる「活字芸人」たちは、今どうしているのだろう。

 そんなことを考えているうち、またしても、その本が、「ペリカンクラブ」だったか、「ペンギンクラブ」だったかわからなくなり、慌てて実物を見て確かめる始末。

「ペリカンクラブ」でした。

私もあなたも経済人

2011-01-03 15:43:10 | Weblog
 私は古谷野敦氏のブログ、「猫を償うに猫をもってせよ」をよく見るのだが,数日前、「自分(古谷野)は、経済学というものが役に立つとも思っていないが、それは、経済学というものを知らないで言っているので、もし自分にもわかるように、経済学なるものを説明してくれれば、持論はいつでも撤回する」と書いてあった。

 そして、ただ一つの例外として、小室直樹氏(死んじゃったですな)が「数学嫌いの人のための数学入門」のなかで、「経済学者というのは、あらゆる人が経済人であると想定するが、実際にはそうでない人もいる」という一文に、これが自分の経済学に対するイライラの原因だったのだと気づいたと言う。

 曰く,「あらゆる人が経済人として行動しているわけではあるまい」,というわけである。

 しかしこれは,小室氏の説明がやや舌足らずなのであって,現実には、近代的産業社会において「経済人」でない人はいない。

 何故なら,生きていくために必要なもののほとんどすべてを,近代的産業社会に住む人は、お金を払って、手に入れているからだ。

 これは,立派に「経済行為」に他ならない。

 ところで、この「経済行為」を具体的に表現すれば,「よりたくさんのお金を持っている人は,よりたくさん消費することが出来る」ということになる。(実際に消費するかどうかは別として)

 これを、数式で,次の「比例関数」として表すことができる。

 C(消費)=bY(所得)

 bは、仮定的な定数であるが、b=1、すなわち、両項がきっちりイコールになることはない。

 つまり、収入しただけ、きっちり支出する、あるいは、支出分だけきっちり収入があるわけではない。

 定期的収入の他に,貯蓄として持っている人もあれば,負債として持っているひともいる。

 それで、もう一つの仮定的な定数を導入する。

 それをaとすれば、上の式、 C(消費)=bY(所得)は、

 C(消費)=bY(所得)+a

 と表すことが出来る。

 近代経済学とは、この方程式を「現実」に近づけるための工夫に他ならない。(現実的には、「a」の数値をどう算定するかが問題で,「b」は、方程式をこねくりまわすうちに消えるようだが。)

 さて,問題は,この数式を理解するか否かではない。

 「理解」という次元で言えば、小学生にだって理解できる。

 問題は,この極めておおざっぱな方程式で言い表わされた内容を――一つの思想として、というか世界観としてというか――受け入れるか否かなのだ。

 蛇足に、もう一つつけ加えれば,上のようなおおざっぱな「数学」は、実は,工学部の数学も大同小異なのだ、と、工学第生の私は,今にしてそう思うのだ。

つけにしといて

2011-01-02 17:49:41 | Weblog
 去年の大晦日の「朝生」で、ちょっと面白い,興味深いやりとりがあった。

 中国に在住し,中国には日本の,日本には中国の情報を発信する仕事をしているという、若い人が、日本人は、中国は共産党の一党独裁政府だから、すべて党の先決で物事が進められているように思っている人が大半だと思うが、実際には様々な諸政策が具体的に、徹底的に論議されている、というのだ。

 もちろん、論じられていることは経済事案に限られ、共産党批判に及ぶことはないのだろうが,経済に関しては,具体的方策をめぐって非常に活発な論議が展開されており、共産党の政策も、それを受けて行われている、という。

 この発言は,現今の日本の政治の「政局」中心で、「政策」が論じられていない現状を批判する、「朝生」のテーマ設定にのっとっての発言だったが,これに対し,他の出席者の多く、いや、ほとんど全部から批判が出た。

 曰く、「日本の政治の現状が政局中心で,政策に論議が及んでいないのは、民主主義を行うにあたってやむを得ないコストを支払っているのだ」と。

 私はこのやり取りを聞いていて,ちょうどその直前に、たしか、福沢諭吉だったと思うが,ある言葉を思い出した。

 福沢諭吉だとしたら、定説である「反中国」とはちょっと趣きの異なる発言だが,中国では,会議で公に物事を決める前に,関係者が徹底的に議論し,そこで結論を得てから会議を開く、という古来からの智恵があるが、日本には議論で物事を決めるという習慣がなかったので、近代国の真似をして会議を開いても甲論乙駁、ワイワイガヤガヤ騒ぐだけで,何も決まらないというのだ。

 そもそも、共産党の独裁政府だろうが、かつてのフセインのようなワンマン独裁政府であろうが、北朝鮮のような世襲独裁であろうが、民主的選挙で選ばれた政府であろうが、「権力を掌握している」という意味では何の変わりもない。

 そして、日本の権力を掌握しているのは、現在は民主党の菅政権なのだから、バラマキと言われようが、マニフェストが支持されて権力を得た以上、「結論」は出たのであって,断固とした意志を示せば,実行できるのだ。

 なぜなら,日本は今だって世界有数の経済大国であって、自らが生み出す将来、生産されるであろう「富」に依拠することは充分出来るはずなのだ。

 要するに、「つけを未来にまわすな」が、今、合い言葉になっているが,実は、日本の現状を見れば、未来に「つけをまわす」ことは充分出来るのだ。

 少なくとも,高速道路の無料化とか、基礎年金の国家負担といった程度の施策なら、「つけ」でやっても大丈夫――だと私は思う。

 それにしても、NHKの「経済」に関する、独善、独走ぶりはなんとかならないのか。

 昨日だったと思うが、どこかの研究所の研究員とやらが、日本の未来は、「薄利多売」ではなく、「高利薄売」だと、一個千円だか二千円だかしらないが、超高級リンゴを持ち出して言っていた。

 要するに,日本の今後の行く道は、高級ブランドの発信国になることにあるというのだが、しかし、現にそうなっているところはそうなっている、あるいはそうなりつつあるのであって、「どこかの研究員」の発言は、新しい見方のようで、実は、まったくの「アナクロ発言」のように思う。

 横に座っていたアシスタントアナウンサー(あ、思い出した、「カンブリア宮殿」で村上龍の隣に座っていたのは、小池栄子でした)が、「でも、お安いのをつい買ってしまいますよね」と言うと「どこかの研究員」は、「高いリンゴとかお米を中国の富裕層に売りつけ、そのお金で安い中国品を買う」みたいなことを言っていた。

 なんだかなー。

 これ、「経済理論」になっているのか?

 それはそれとして、私が問題だと思うのは,この提言が、実質的にNHKの提言であることだ。

 それを,私は「NHKの独善」と言ったのだが、巨大マスコミの「独善」ほど恐ろしいものはない。

 反対意見を「黙殺」することができてしまうのだから。

年賀.ドット.コム

2011-01-01 15:15:44 | Weblog
 久しぶり、というか、実は初めてなのだけれど,人もすなる「年賀メール」を出したものの,まったくつながらず。

 ふとニュースを見ると、今現在、年賀をメールや携帯電話で行う人が殺到し、繋がらない状態が発生しているという。

 それで、年が明けた今,再度試したのだが,依然、つながらず。

 しかし,よく考えると、回線自体がダウンしたわけではない。

 つまり、ちゃんと繋がって,新年の挨拶を無事済ませた人が大勢いるはずなのだ。

 ということは、私は,そういう「幸運」から外れた人間の一人、ということなのか?

 基本的にはそういうことだと思うが、私は昨日の大晦日、5階接続を試みて失敗したのだったが、人によっては、何十回も、あるいはそれ以上トライしているかもしれない。

 そうしてひっきりなしに試みて,その中の一回が幸いにもつながる…。

 …だとすると、「ただいま大変に込み合っております」というのは、込み合っているが故に、大勢の人が何度も何度も接続を試みる結果,アクセス数が何十倍にもはねあがり、「つながらない」のかもしれない。

 その大晦日の夜、テレビ東京の「カンブリア宮殿」で、「貧乏からの脱出」というテーマで村上龍がこう言っていた。

 「貧乏が嫌だったら、ハードに働く、それしかないよ。」

 私が言っている「貧乏は正しい」、「貧乏人は貧乏人として救われるべき」という考えとは正反対の思想だが,アシスタント役の、名前をど忘れしてしまったが,格闘家と結婚した女優が、「でも、働くところがないと」と口を挟むと、「働くところなんか、いくらでもあるよ」と言った。

 これで「作家」なのか?

 青山七重の「ひとり日和」(これはいい作品だ)が芥川賞受賞作として発表された文芸春秋で、村上龍と、石原慎太郎と、綿谷りえが、元受賞作家として座談会をしていて,そこで村上はこう言っていた。

 「ここにいる三人はみな外見も悪くないわけで」

 さすがに、慎太郎は、「自分で言うなよ」と苦笑していたが、村上龍は,自分をハンサムだと思っているのか!

 貧乏人に「貧乏が嫌だったら働け」と言い、自分を「オレはハンサム」と言ってはばからない。

 反語的に言ったのなら、わかるのだが、全く当たり前のように,「オレはハンサムだ」と、子供の頃から一度も疑わずに信じてきたかのような口ぶり。

 こんなんで、「作家」という、「自省」を旨とする職業がつとまるのか?

 年賀メールのアクセスの合間に太宰の「八十八夜」を読む。

 私は基本的に太宰は好きではないのだけれど,読むと、「いやあ、うまいものだなあ」とつくづく思い、その結果、太宰の本(文庫本だが)が、小説の中では本棚で一番多くなってしまった。

 不思議である。

 それはさて、ブログを書き終えたらまたメールを試してみようと思うが,たぶん、ダメだろうなあ。