パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

捨てるべきか、捨てざるべきか

2011-01-07 14:17:08 | Weblog
 さて、今、本棚を整理しているということは、要するに、本の取捨選択を行っているということだが、これがじつにむずかしい。

 パラパラとめくって、「なんだ、こりゃ」、「詰まらん」と思ったら、私が買った本なのだから、遠慮なく捨てればいいのだが、「詰まらない」と私が思った、あるいは思わされた理由があるはずだ、と考えると捨てることが出来なくなる。

 たとえば、典型的なのが、加藤典洋の「敗戦後論」。

 前半の、「敗戦国としての倫理」を扱った表題論文は、正直言って全然つまらないのだが、後半、それが文学とつながると、面白くなり、だとしたら前半の「敗戦国としての倫理問題にも、今回答を出すのではなく、興味をつないでおいた方がいいだろうか」と悩む…といった具合だ。

 意外だったのは三島由紀夫だ。

 そもそも、別に三島ファンというわけでもないのだが、評論としては「文化防衛論」、小説としては「愛の渇き」だけ残しておけばいいという感じなのだ。

 この「結論」は、我がことながら、ちょっと意外だ。

 あと、妙チクリンな位置にあるのが伊藤整の「日本文壇史」。

 私は思想家としての伊藤が好きで、フリマで、どさっと5、6冊置いてあったのを買ったのだが、パラパラと目を通した限り、伊藤の一貫した思想に基づき、近代日本の文学を眺めるという、私が想像したような印象はなく、ただ「へー、そうだったのか」と興味本位で読めてしまう。

 たとえば、福沢諭吉が大変な酒飲みで、朝昼晩欠かさず酒を飲んでいたが、さすがに少し控えようと思い立ったものの、なかなか止められず、知人に相談すると「酒につい手が伸びてしまうというのなら、代わりにタバコをやったらいかが」と、今では信じられないようなアドバイスを受け、以後,それまで吸ったことのないタバコを吸うようになったが、酒は依然としてやめられず、結果的に、タバコを吸う習慣が一つ増えただけだった。

 …とか。

 それでも、福沢は元来大変に頑健な人で、ずっと健康だったが、60代半ばになって、さすがにその影響か、脳梗塞で倒れてしまった。

 そして一時は口も聞けず、文字も読めず、知人の顔の区別もつかないような朦朧状態に陥ったが、肉、魚等を断つ食事療法で、1年後には元に戻った。(ツゴイ)

 しかし、元に戻ったものの、以前のような生活に戻ったせいか(とは、書いてなかったが)、数年後、再び脳梗塞を起こして死んだ。

 ちょっと、というか、私が抱いていたイメージとはだいぶ違う福沢諭吉だ。

 あと、志賀直哉が、自分の家の女中と一緒になりたいと父親に頼んで、はねつけられ(これがもとで父親と不仲になる、有名な話だが)、師である内村鑑三に相談にいったところ、内村は書斎の椅子に座ったまま、片足を窓の桟に乗せ、上体を反らして、「そりゃこまったなー」と答えた、とか。

 まるで、自分の目で見てきたような文章。

 もちろん、どこかで拾った「ネタ」に違いないのだが、不思議なのは、登場する近代日本の名だたる小説家、詩人の行状が全部この調子で語られていることだ。

 いずれにせよ、こんなのをおもしろがって読んで、「文学鑑賞」の助けになるのかと思うが、日本の小説は基本的にすべて私小説なので、「助け」になるが答えだろう。(よって、捨てることはしないことにしよう…)

 菅総理が、「社会保障と税制の改革を一体化して行うことに政治生命をかける」と言った由だが、「その言やよし」とほめ称えたいところではあるものの、「税制改革」が「社会保障制度の改革」と一体化しているのならいいが、実際には「税制改革」は、「日本国の財政の立て直し」のことを指しているに違いない。

 「ない袖は振れません。税制を改革し、財源を確保しないと社会保障なんて、できませんよ、野田大臣」と財務次官。

 「うん、そうだな」とアホ野田がうなずいて、「オオム返し」にそのまま菅首相に進言。

 バカ菅「わかった」

 といったところが、真相だろうが、社会保障改革は「日本国民の問題」だが、財政の立て直しは「政府の問題」であって、それを「バーター」にするようなカラクリは、断じて許し難いのだ。