パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

管の勘

2010-06-05 19:35:20 | Weblog
 テレビ東京で、政治評論家の田勢某が、若い頃の管首相に直接会って、「ものすごハンサムでびっくりした」と言っていた。

 確かにハンサムではあるが、ここ数年、老けた、というか、くたびれた、というか、覇気がない。

 特に「歩き方」が、ヨタヨタしている。

 もともとハンサムな上に、「颯爽」と歩いたりしたら、世間から反発を買うかもしれないと「政治的」に配慮していたのかもしれないと思うような歩き方だが、首相になっちゃえば、そういう配慮も不要で…って、生まれつきああいう歩き方かもしれない。

 それとも、やっぱり「年」のせいか?

 ケネディ大統領は、「世界一セクシーな猫背」と言われたが、あれは、日本軍の魚雷艇に乗艦がやられた「名誉の負傷」の後遺症で、それでよけいセクシーに見えた。

 というわけで、記者の前には、がんばって背筋を伸ばして現れてほしい。

 その管首相の記者経験は、やたらに慎重な物言いで、何を言っているのかわからないという意見もあるようだが、そうでもない。

 その「慎重さ」がかえって管首相の立場を明瞭に語っている。

 というのが田勢氏の見方のようで、それは当然ながら、小沢のことを指している。

 小沢は、樽床議員が120票余をとったことで、いつでも、その気になれば民主党代表=首相の座を手に入れることができると自信を深めたらしい。

 なるほどね。

 「政局」というやつは、サッカーなんかよりももっと面白い。

 ところで、「ある意味」、「ある意味」…の連発だった新首相の会見の中で、「ある意味」と似たような意味ながら、一カ所だけ違う表現があった。

 それは、消費税問題だったと思うが、「この問題については今までいろいろな表現をしてまいりましたが」と言ったのだ。

 我々は、つい「“表現”でごまかすな」的な見方をとりがちで、実際、そう思われるのを警戒してか、日本の政治家でこれまで、自分の言葉(政治的方針)を「表現」と表現した(?)人はいなかったのではないか。

 まあ、それはわからないが、管首相が、「表現」という言葉を自覚的に使ったのだとしたら、それは、これまでの日本の政治家になかった一つの見識を示したのだと思う。

 というのは、「政治」とは、畢竟、「表現」だと思うからだ。

 もちろん、「そうじゃない、政治とはまさに現実的実体に関わり、それに影響を与えることなんだ」と言う人もいるかもしれないが。

 たとえば、社民党とかね。

 夢のような、非現実的なことを主張しながら、「現実化されなければならない」と「夢」にしがみつく。

 「お前ら、政治に関わること禁止ィ」と言いたくなる。

 ボランティアしていろと。

 それはともかく、「管」という人は、それこそ「勘」のいい人、という印象が私にはある。

 その点では、小泉に匹敵するものがあるのではないかと思うのだが、それを充分に発揮するには、ちょっと元気が足りない、覇気がない、疲れているんじゃないか、とそんな気がちょっとするのだ。(「勘」だけ、というのもなんなんだけど…)