「管」じゃなくて、「菅」でした。
訂正。
今まではっきりしなかったが、菅原(スガワラ)の「菅」なのだな。
よし。覚えておこう。ややこしいが。
その「菅」首相だが、自分の信念に自ら縛られるということは、あんまりなさそうな気がする。
「現実主義者」というのはそういう意味なら、ちょっと期待するのだが、今のところは何とも言えない。
コンビニで弁当を買い、「お箸はいりますか」と言われ、首を強く縦にふったのだが、帰って袋を明けると入っていなかった。
中国人の店員だったので、たぶん、「お箸はいりますか?」という日本語を、英語で言うところの、ドンチューウォント?という意味合いで言っていたのだろう。
中国語は英語と同じだから。
というか、日本語が特異なんだが、「箸ほしいです」、といったつもりで箸が入っていないことは、これまで何度もあり、気をつけていたのだが、またやられてしまった。
さて、今、その中国の『紅楼夢』を読んでいる。
以前、『水滸伝』を読んでそのあまりの面白さに驚き、続いて、その『水滸伝』中の一エピソードを長編に仕立てた『キンペイパイ』に挑戦したが、あまりなじめず、『紅楼夢』においておやと思って敬遠していたのだが、これがびっくり、実に面白い。
『水滸伝』や『キンペイパイ』は、基本的に庶民の話で、その限り、つまり、なんとうか、生活の実態としては、日本の社会とあまり変わりがないのだが、『紅楼夢』は、「これぞ大家族制度」と思わせる貴族社会の話で、そのあまりの贅沢な暮らしぶりに、中国人自身にとっても「非現実的」なお話…かというと、そうではない。
大家族制度というのは、「大家族」を理想とする社会であり、それを実現できるのはほんのひとにぎりなのだが、「理想」として庶民の間にもしっかり根付いている。
…ということなのだろうが、ともかく、舞台となる「家」は、常時、召使い等を含めれば、5,600人が暮らしていて、屋敷の中に、「学校」まである。
そこには、一族以外、すなわち、「お嫁さん」の親戚もまじっているので、すべて同姓というわけではない。
ある日、その学校で生徒同士で喧嘩となり、一人が「お前は誰の親戚だ」と喧嘩相手を問いつめると、世話係りがあわてて間に入り、「お坊ちゃん、そんなことを聞いてはいけません」と叱る。
誰が誰の親戚かなんてことを詮索したら、「話がこじれるだけ」というのだ。
老当主曰く、「これだけの数がいるとね、毎日10件や20件の事件が起きているのですよ」。
じゃあ、結局、普通の「社会」と同じじゃないか…というと、そういうわけではない。
なんだか、頭がこんがらかってくるが、あくまでも、「同族」という大きな意識が人々を縛っているのだ。
『水滸伝』なんかは、登場人物全部が「独り者」だが、彼らの意識の中にも、ちゃんと…というか、「一族」という意識が,然るべき位置を占めている。
ともかく、日本の社会とは成り立ちがまるで違う。
それはそうと、『キンペイパイ』って一発変換できないので、めんどくさいのでカタカナにしておいたが、蓮舫が一発変換できて、そりゃーないだろうと言いたい。
訂正。
今まではっきりしなかったが、菅原(スガワラ)の「菅」なのだな。
よし。覚えておこう。ややこしいが。
その「菅」首相だが、自分の信念に自ら縛られるということは、あんまりなさそうな気がする。
「現実主義者」というのはそういう意味なら、ちょっと期待するのだが、今のところは何とも言えない。
コンビニで弁当を買い、「お箸はいりますか」と言われ、首を強く縦にふったのだが、帰って袋を明けると入っていなかった。
中国人の店員だったので、たぶん、「お箸はいりますか?」という日本語を、英語で言うところの、ドンチューウォント?という意味合いで言っていたのだろう。
中国語は英語と同じだから。
というか、日本語が特異なんだが、「箸ほしいです」、といったつもりで箸が入っていないことは、これまで何度もあり、気をつけていたのだが、またやられてしまった。
さて、今、その中国の『紅楼夢』を読んでいる。
以前、『水滸伝』を読んでそのあまりの面白さに驚き、続いて、その『水滸伝』中の一エピソードを長編に仕立てた『キンペイパイ』に挑戦したが、あまりなじめず、『紅楼夢』においておやと思って敬遠していたのだが、これがびっくり、実に面白い。
『水滸伝』や『キンペイパイ』は、基本的に庶民の話で、その限り、つまり、なんとうか、生活の実態としては、日本の社会とあまり変わりがないのだが、『紅楼夢』は、「これぞ大家族制度」と思わせる貴族社会の話で、そのあまりの贅沢な暮らしぶりに、中国人自身にとっても「非現実的」なお話…かというと、そうではない。
大家族制度というのは、「大家族」を理想とする社会であり、それを実現できるのはほんのひとにぎりなのだが、「理想」として庶民の間にもしっかり根付いている。
…ということなのだろうが、ともかく、舞台となる「家」は、常時、召使い等を含めれば、5,600人が暮らしていて、屋敷の中に、「学校」まである。
そこには、一族以外、すなわち、「お嫁さん」の親戚もまじっているので、すべて同姓というわけではない。
ある日、その学校で生徒同士で喧嘩となり、一人が「お前は誰の親戚だ」と喧嘩相手を問いつめると、世話係りがあわてて間に入り、「お坊ちゃん、そんなことを聞いてはいけません」と叱る。
誰が誰の親戚かなんてことを詮索したら、「話がこじれるだけ」というのだ。
老当主曰く、「これだけの数がいるとね、毎日10件や20件の事件が起きているのですよ」。
じゃあ、結局、普通の「社会」と同じじゃないか…というと、そういうわけではない。
なんだか、頭がこんがらかってくるが、あくまでも、「同族」という大きな意識が人々を縛っているのだ。
『水滸伝』なんかは、登場人物全部が「独り者」だが、彼らの意識の中にも、ちゃんと…というか、「一族」という意識が,然るべき位置を占めている。
ともかく、日本の社会とは成り立ちがまるで違う。
それはそうと、『キンペイパイ』って一発変換できないので、めんどくさいのでカタカナにしておいたが、蓮舫が一発変換できて、そりゃーないだろうと言いたい。