パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

奴隷の弁証法

2006-06-07 11:38:54 | Weblog
 哲学者ヘーゲルに、「奴隷の弁証法」という有名な論考がある。概略以下の通り。(ウェブ論文からまとめた)

 ヘーゲルは、人間は、他者がおのれの価値を認めることを求め、そのために生命を賭けた戦いが展開されると考えた。人が必然的に「戦う存在」だという点では、ホッブスの「万人は万人にとって狼である」と、考え方がちょっと似ているけれど、ホッブスの場合は、人間は「生存」のために戦うのだが、ヘーゲルは、他者に己の価値を認めさせるために戦うのだという。
 そしてその結果、危険を顧みずに奮闘したものは「主人」となり、おのれの生命を危険にさらすのを拒んだ者は「奴隷」となる。
 何故なら、人間は、己の価値を他者に認めさせるために戦ったわけで、「敵」を全部殺してしまったら、自分の価値を認めてくれる「他者」がいなくなってしまうため、撃ち破った者を、「奴隷」として処遇せざるを得ないのだ。ヘーゲル曰く、
「したがって、戦いによって敵を殺すことは、人間にとって何の役にも立たない。人間は敵を『弁証法的に』抹殺しなければならない。つまり、敵に生命と意識を残しておき、その自律性を破壊するに止どめておく必要がある。……言い換えれば、敵を奴隷化しなければならないのである。」

 ところが、ここで矛盾が生じる。というのは、主人がおのれの価値を奴隷に「認知」させようと思っても、主人にとって、奴隷は「道具」に過ぎない。つまり、「人間」ではないため、期待していた「自分の価値の認知」を得る事がができなくなってしまうからだ。
 しかし、そのことに「主人」は気づかない。もはや、「努力の全体は奴隷によってなされ、主人はもはや奴隷の用意してくれた事物を、消費することで否定し破壊し、享受しさえすればよい。」からである。
 つまり、戦いに勝った結果、主人は奴隷を支配することで、現状に満足し、生命を賭けて戦った意義は失われ、逆に、奴隷に依存するようになる。主人たる資格は、ここで失われるというわけである。つまり、自らの認知を求め、果敢に戦って勝利した「主人」に対し、己の生命を危険に晒すことを拒んで奴隷となった者が、「奴隷の身分を経ることで、自身の隷属を『弁証法的に抹消』したのである。」(ヘーゲル)

 つまり、戦いに敗れた存在である奴隷が最終的に勝利するとヘーゲルは言うのだが、 それは、奴隷こそは、労働における事物との関わりを強制されることにおいて、生命を賭けたことになるからだというのがヘーゲルの主張である。曰く、「したがって、労働によって、労働によってのみ、人間は客観的に人間として、自己を実現するのである。」

 かくして、労働を通して奴隷は主人を己に依存させることが出来るというわけだ。もちろん、「この労働はそれだけでは、奴隷を解放しない。しかし、この労働によって世界を変形することで、奴隷はおのれ自身も変わり、こうして、新たな客観的環境を生み出し、それによって、最初は死に対する恐れによって拒んでいた、認知のための解放闘争を再開することが出来るのである。」

 ――これが、マルクスを感激させ、「共産党宣言」を書くにいたらしめた、ヘーゲルの「奴隷の弁証法」であるけれど、私が思うに、これには致命的な欠陥がある。それは、ヘーゲルによれば、奴隷(=労働者)は額に汗して生産に従事する(世界に関わる)という本質故に「主人」に優越するというのだけれど、実際のところ、奴隷が奴隷の本質に徹することは、「主人」にとってまことに有り難い、つまり、「主人―奴隷」という秩序を維持するのに、好都合なことでしかないということだ。
 もちろん、だからといって、「労働に価値などはない」「万国の奴隷(労働者)よ、サボタージュせよ」というのではない。ただ、このような「にっちもさっちも」な状態を必然的に招来する自家撞着構造を内包しているのが、「奴隷の弁証法」で、それを「致命的欠陥」と言いたいのだ。

 それはともかく、なんでまた、唐突にこんなものを持ち出したかというと、今、話題の村上ファンド、あるいはライブドア問題について、ちょっともの申したかったからだ。
 で、どうもの申したいかというと、両事件を摘発した検察庁の長官が、去年だったかに就任した際、「額に汗して働く人の意欲を削ぐようなことはあってはならない」と発言したわけだが、なんともうさん臭いなあと思っていたのだ。ヘーゲルの場合は、一応、科学的客観精神を自負し、なおかつそれを目指しているという表向きの姿勢があって、それが「モラル」の問題を隠蔽していたが(一方、人間の労働は神に対するモラルの問題であると正面から認めることで、近代資本主義の「精神」を説明したのがウェーバーだ。私は、もちろん、ウェーバーを支持する)、この検察庁トップの発言は、ヘーゲルがなんとか誤魔化していた「モラル」の問題を、あからさまに語ってしまっている。(日本に「神」はいないので、どうしてもそうなっちゃうということでもあるが)
 いや、もちろん、「ルールを守る」ということは、イコール「モラル」の問題でもあるのだけれど……でも、全面的に同じ事では、多分、ないだろう。

 と、ここまで書いて、鋭敏な方はとっくにおわかりだろうが、「朝御飯」の問題がここで出て来るのですよ(笑)。つまり、件のNHKの番組では、「朝御飯」を、表向きは医学的問題として語ってはいるが、実際には、「モラル」の問題として取り上げたく思っているような雰囲気を感じたのだ。これは、たぶん、「プロジェクトX」成功以来、打ち出されたNHKの一つの方向だと思うが……これに、ポスト小泉の政争がからんで、積極的に後押しする勢力が存在し……と私は思っているのだが……。