パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

お引っ越し2

2006-06-17 13:55:52 | Weblog
 引っ越しっていろいろ疲れるのだけれど、今回の場合は、「本」をどうするか、これに尽きる。もともと、物を捨てるのが苦手なのだけれど、本は特に、捨てづらい。それで、選択しようと思って本をパラパラ見ると、捨てる積もりだったのに、案外面白くて、やっぱり残しておこう、となる。
 下川さんの「泥棒」の話を集めた本を読んで(いや、下川さんの本を捨てようと思った訳では……)いたら、こんな話が載っていた。
 コンビニかどこかで、16歳の女子高生が万引きをした。ところがちゃんとお金は持っていた。お金があるのに何故盗んだのか、と聞くと(ほとんどの万引きがそうだと思うけど)、女子高生曰く、「お金を出して買うほど欲しくはなかったが、でも、欲しかった」。
 わかるなー、その気持ち。本を捨てる捨てないで迷うのも、まったく同じ気持ちだ。それで、捨てる捨てないの境界線にある本が、今風に言えば「うざったく」なって、えい!と捨ててしまい、後で後悔したりする。そして、境界線上にない本、つまり、明らかに要らない本が、お目こぼしでいつまでも残っていたりする。

 同じく、ユリイカの、アラーキー特集をパラパラと読む。この手の本には珍しく、荒木批判がいくつかある。たとえば、引用だけれど、金井美恵子の「精力的だが、つまらない」とか。同感だなー。
 それから、美術家の森村泰昌が、アメリカ人が、「どうして日本の女性は、荒木に縛られることを望むのだろう」という疑問を紹介していた。「明らかに女性蔑視のイメージを作っているではないか、アメリカでは考えられない」というのである。森村は、この疑問に対して、あの写真は女性自身のセルフポートレートなので、それを荒木に撮影させているのだ、つまり、荒木は、彼女たちにとって、「道具」に過ぎない。したがって、彼女たちが自ら写真をとるようになれば、アラーキーは不用になって捨てられる、と。
 うーん、どうだろう。確かに、被写体である彼女たちが自ら写真をとりだしたことは事実だが、それでアラーキーが捨てられたかというとそうではない。
 ぶっちゃけたところ、アラーキーほどの技術がないということなのだろうが、それはそれとして、日本の女性が、あられもなく縛られることを望むのは、日本女性独特の表現術、「背中で口説く」という伝統の現われじゃないだろうか。
 これは、日本の「着物」の、正面ではなく、後ろ姿で見せるという、独特のあり方と関係があると思うけれど、実際、荒木にとられる女性の多くが、和服を着ている。(まあ、着た上で、脱いじゃうのだが……)

 いずれにせよ、荒木の写真を好きか嫌いかで、その人の資質が区別されるような気がする。(別に、荒木に限ったことではないだろうが)
 たとえば、荒川洋治。ちょっと意外だけれど、彼は荒木を「まばゆい」ほどの存在で、「同じ人間に生まれたのに、どうして彼のように自由になれないのか」とまで書いている。しかし、読み進むと、ちょっとニュアンスがちがってくる。
 というのは、荒川は、日本の都会の鋪装した住宅街の道に引かれた白線が大嫌いなのだそうだ。「道を汚す、人を汚す。見るたびにうっとうしい」と。ところが、荒木の写真には必ずこの白線が入ってくる。そして、それを見ているうち、「いつの間にか、僕には個人的趣味や視線がひどく無力なものに思えてきて、白い線の上に舞い降りる」。
 荒川はアラーキーの写真が好きなのか、嫌いなのか……微妙に思うが、荒川は、それが「楽しい」と書く。
 私はというと、荒木の写真の「白線」を見ると、ものすごく憂鬱になるのだけれど。

 引っ越しに備え、東京市街道路地図を購入。東京地図出版というところの、リンクルミリオンというシリーズだが、本の綴じが、バインダー式になっているので、買ってから全部ばらして、現在使用中のバインダー式住所録に一緒に綴じ込んだ。個人的住所録と地図が一体化したのだ。これはナイスじゃないか、と自画自賛。バインダー式だから、見開きでぐいと開いても本が壊れることはないし。
 しかし、「リンクルミリオンシリーズ」は、東京区内版一冊しか置いてなかった。表記もわかりやすいし、いいと思うのだけれどなー。