伊右衛門茶のお土産風鈴を扇風機で鳴らしながら書いてます。
ネットをうろちょろしていたら、アマゾン・マーケット・プレイス(AMP)なるものを見つけた。「見つけた」ったって、ほとんどの人がとっくに御存じだろうが、アマゾンにISBN登録してある本ならば、新本、古本問わず売り捌くことができるというシステム。
これは好都合と、試しに、串間努氏の「シーモンキー」研究(?)本を1000円で出品したら、ものの五分と経たぬうち(本当に!)に売れてしまった。アマゾン在庫切れのうえ、他に同書を出品している人がいなかったので、売れるだろうとは思っていたが!
気をよくしてせっせと出品したが、もちろん五分で売れるはずはない。六ヶ月置いてくれるというので、フィッシングのつもりで気長に待とう。
ちなみに、野坂昭如の三島本、『カクヤクたる逆光』を出そうと思って値段を見たら、なんと、80円。野坂の著書の中では、かなり上位の本だと思うけどなあ……。高かったら出そうと思ったが、やめた。次に、故小松方正の『霊界通信』を調べたら、800円の値がついていた。もう二十年以上前の本で、定価1000円なのだが、たしかに、「この手の本」の中では、黄泉でが……いや、読みでがある。即出品。
旧聞に属するが、サッカーワールド杯、対クロアチア戦引き分けを受けて、中田ヒデの「勝てた試合だった」なる記者会見での発言に対し、「それはクロアチアの台詞だろう」との突っ込みが。
それで考えた。
日本が勝つ確率が6割と、中田が考えていたとしよう。その場合、クロアチアの勝つ確率は、残りの四割かというと、そんなことを中田は言いたいのではないだろう。クロアチアはクロアチアで、勝つ確率は8割あった、と考えているかも知れない。合わせて、14割……それでいいのだ。
あるいは……中田の台詞は、柳沢の「信じ難い」シュートミスのことを念頭においてのことかも知れない。人間のやることだからミスはつきものとはいえ、高額の報酬をもらっている選手のやることではない。喝ーっ!
本棚を片付けながら、雑誌「伝統と現代」の「死刑特集」をつい、読む。30年前の1976年、「銚子民宿母子殺人事件」なるものがあったそうだ。 読んでそのまま、銚子の民宿の主婦を強姦殺害、騒いだ九ヶ月の赤ん坊も殺したというもので、今回の山口県光市のケースと同じだ。逮捕後一年を経ずして死刑判決が下り、80年には高裁で控訴棄却となり、死刑が確定した。犯人は、中学一年の時に、三歳の幼児を殺して少年院に入っている。
同特集には死刑制度の是非についてのアンケートが掲載されており、大半が、「非」だったが、中でも面白いと思ったのは、澁澤龍彦で、「聖性」を失った近代以後の社会では、本来、死刑は存在し得ないというもの。反対の賛成の反対!(賛成)。一方、藤原新也も「非」なのだけれど、戦後民主主義の非暴力主義の延長線上でそう言うのではなく、「人は人に死罰を課すほど倫理的に万能ではない」という。しかし、こういう言い方自体がずいぶん倫理的というか、はっきり言って「傲慢」とも思える。宮崎駿も、藤原と似たようなところがあるように感じる。宮崎駿は、創作中、自分が神のように思えて、「いかんいかん」と自戒しながら作ってるんだそうだ。
「伝統と現代」の編集部も「非」の立場なのだそうだが、「我々軍人ほど平和の大切さを知っているのだ」というマッカーサーの言葉をひいて、「もしそうなら、この世で一番の《殺人否定者》は、死刑囚その人かもしれない」と編集後記に書いている。おいおい(笑)。しかし、「伝統と現代」は、そういう編集者の意図を誌面が全然反映してないところが、思わず笑っちゃうのだが、これは、ぶっちゃけていうと好奇心が前面に出ちゃうからで、それがこの雑誌のいいところなのだが、もうずいぶん前に廃刊になってしまって残念……というほどのものでもないところが、また「伝統と現代」らしいところだと、またまた笑ってしまう。なんのこっちゃ。
サンクスの「手延べソーメン」で軽く昼食。昨日も同じソーメンだったのだが、「ほぐし水」をかけたところで千駄木のMさんから電話があり、例によっての男には珍しい長電話で、せっかくかけた「ほぐし水」が乾燥してしまった。ので、今日はリベンジである。
ネットをうろちょろしていたら、アマゾン・マーケット・プレイス(AMP)なるものを見つけた。「見つけた」ったって、ほとんどの人がとっくに御存じだろうが、アマゾンにISBN登録してある本ならば、新本、古本問わず売り捌くことができるというシステム。
これは好都合と、試しに、串間努氏の「シーモンキー」研究(?)本を1000円で出品したら、ものの五分と経たぬうち(本当に!)に売れてしまった。アマゾン在庫切れのうえ、他に同書を出品している人がいなかったので、売れるだろうとは思っていたが!
気をよくしてせっせと出品したが、もちろん五分で売れるはずはない。六ヶ月置いてくれるというので、フィッシングのつもりで気長に待とう。
ちなみに、野坂昭如の三島本、『カクヤクたる逆光』を出そうと思って値段を見たら、なんと、80円。野坂の著書の中では、かなり上位の本だと思うけどなあ……。高かったら出そうと思ったが、やめた。次に、故小松方正の『霊界通信』を調べたら、800円の値がついていた。もう二十年以上前の本で、定価1000円なのだが、たしかに、「この手の本」の中では、黄泉でが……いや、読みでがある。即出品。
旧聞に属するが、サッカーワールド杯、対クロアチア戦引き分けを受けて、中田ヒデの「勝てた試合だった」なる記者会見での発言に対し、「それはクロアチアの台詞だろう」との突っ込みが。
それで考えた。
日本が勝つ確率が6割と、中田が考えていたとしよう。その場合、クロアチアの勝つ確率は、残りの四割かというと、そんなことを中田は言いたいのではないだろう。クロアチアはクロアチアで、勝つ確率は8割あった、と考えているかも知れない。合わせて、14割……それでいいのだ。
あるいは……中田の台詞は、柳沢の「信じ難い」シュートミスのことを念頭においてのことかも知れない。人間のやることだからミスはつきものとはいえ、高額の報酬をもらっている選手のやることではない。喝ーっ!
本棚を片付けながら、雑誌「伝統と現代」の「死刑特集」をつい、読む。30年前の1976年、「銚子民宿母子殺人事件」なるものがあったそうだ。 読んでそのまま、銚子の民宿の主婦を強姦殺害、騒いだ九ヶ月の赤ん坊も殺したというもので、今回の山口県光市のケースと同じだ。逮捕後一年を経ずして死刑判決が下り、80年には高裁で控訴棄却となり、死刑が確定した。犯人は、中学一年の時に、三歳の幼児を殺して少年院に入っている。
同特集には死刑制度の是非についてのアンケートが掲載されており、大半が、「非」だったが、中でも面白いと思ったのは、澁澤龍彦で、「聖性」を失った近代以後の社会では、本来、死刑は存在し得ないというもの。反対の賛成の反対!(賛成)。一方、藤原新也も「非」なのだけれど、戦後民主主義の非暴力主義の延長線上でそう言うのではなく、「人は人に死罰を課すほど倫理的に万能ではない」という。しかし、こういう言い方自体がずいぶん倫理的というか、はっきり言って「傲慢」とも思える。宮崎駿も、藤原と似たようなところがあるように感じる。宮崎駿は、創作中、自分が神のように思えて、「いかんいかん」と自戒しながら作ってるんだそうだ。
「伝統と現代」の編集部も「非」の立場なのだそうだが、「我々軍人ほど平和の大切さを知っているのだ」というマッカーサーの言葉をひいて、「もしそうなら、この世で一番の《殺人否定者》は、死刑囚その人かもしれない」と編集後記に書いている。おいおい(笑)。しかし、「伝統と現代」は、そういう編集者の意図を誌面が全然反映してないところが、思わず笑っちゃうのだが、これは、ぶっちゃけていうと好奇心が前面に出ちゃうからで、それがこの雑誌のいいところなのだが、もうずいぶん前に廃刊になってしまって残念……というほどのものでもないところが、また「伝統と現代」らしいところだと、またまた笑ってしまう。なんのこっちゃ。
サンクスの「手延べソーメン」で軽く昼食。昨日も同じソーメンだったのだが、「ほぐし水」をかけたところで千駄木のMさんから電話があり、例によっての男には珍しい長電話で、せっかくかけた「ほぐし水」が乾燥してしまった。ので、今日はリベンジである。