パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ぼくはウナギだ

2006-08-07 13:15:53 | Weblog
 ……というタイトルの本が昔あったそうだ。でも、意味は、「我が輩は猫である」とは違う。「ぼくは、ウナギを注文する」の「注文する」を省いたのだ。「ぼくはウナギだ」の著者は奥津敬一郎という、日本語学者だそうだが、専門家というのは、時としておもしろいことをいうものだ。

 ところで、看護婦を看護士と言いかえることは、新聞、雑誌等の活字メディアでは定着しているみたいだが、読む方では、「看護士……てことは、看護婦だな」と置き換えているのではないか。そもそも、日本語の名詞には男性名詞、女性名詞の区別がないから、「看護婦」と言っているのであって、どうしても「看護士」と表記したいのなら、「女性看護士」、「男性看護士」としなければならない。実際、「看護士」と表記されている人の中には、もしかしたら「男性」もいるかもしれないわけだし……それとも、男性/女性の別がわかる必要はない、というのだろうか? そんなことはないだろう。

 しかし、何故か、日本の言語学者はこの問題に異を唱えていない。たぶん、脇で、くすくす笑っているのだろうが、日本の学者って、こういった具体的社会的問題について発言することを控えてしまう悪い癖があるようだ。癖というか、学者たるもの、俗世間のあれこれには超然としているべき、という思い込みがあって、お互いに牽制しあっているような気がする。

 たとえば、年金問題にしたって、年をとったら子供達の面倒になるという、発展途上国においては未だに存在する社会システムが、もはや存在し得なくなってしまった近代国家の、悲しむべき弥縫策(しかも、いつまで続けられるかはっきりしない)であるという、社会学的本質を社会学者、人類学者が指摘すべきなのだが、それをしないから、年金生活=老人極楽生活みたいなバラ色の未来図をかかげて、先週もNHKでやっていたが、老人の孤独死を防ぐ為のあれやこれやを紹介していたが、年金制度が必要な社会では、老人は孤独死するのが普通なのだということを隠蔽してしまっている。

 なんか、こんな話を書くつもりはなかったのだが……これから、また新宿に出かけて、後片付けだ。いつまで続くやら……多分、明後日には完了すると思うけどね。