みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#54 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #10

2024年01月18日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

30分37秒から33分37秒まで。


◇◇

そのような優秀な生き方が、あなたに用意されているのです。

優秀なものに心を留めるならば、霊的に優秀な人生を歩むことができます。

優秀なことがあなたの全存在を満たし、あなたの感情と心を満たし、引いてはあなたの意志に指示を与えるようになります。

そして、それらはみな、極めて高次元のレベルにおいて始動し、次いで滴り落ちるような効果をもたらします。

もしも優秀なことがあるならば、もしも賞賛に値することがあれば、神の御前で命ぜられていることがあれば、神の臨在において賞賛されるべきことがあるならば。

真夜中の暗やみの中で、男性社交クラブや女性社交クラブで称賛されるのではない。

密会の場での称賛ではなく、万軍の神の聖なる純粋の光の中で、称賛に値しうるものがあるならば、ということ。

そこに、あなたの知性を留めておくのです。

偉大な注釈者であるウイリアム・ヘンドリックソンは次のように書いています。

クリスチャンが熟慮したり、深く斟酌する価値のないことはすべて、この要約から除外されるべきである。

この文において、彼は包括的なことを示しています。

それがテストに通らないなら、排除せよ。

それがテストに通らないなら、あなたの知性(コンピュータ)を閉ざせ。

それがテストに通らないなら、そのコンサートに行ってはならない、その場所に行ってはならない、その本を読んではならない。

さもなければ、災いが起きるであろう。

さらに続けて、彼は道徳的、霊的な優秀に関して言います。

賞賛に値する適切な対象とは、クリスチャンの心が安心して食べることができる適切な牧草地のことです。

言い換えると、それがテストに合格したなら、これら8つの記述のすべてに適合し、この牧草地に入って安心して食べて良いということです。

もしそれが不合格なら、あなたは岩や石、汚れたもの、ゴミを食べることになります。

もちろん、それは霊的生き方に影響を及ぼします。

ヘンドリックソンは大変際立った結論を下します。

神が教会に与えて下さった大変信頼性の高い注釈者の一人です。

事実、見回してみると、ミシガンから来られたご夫婦がおられます。

私がこのご夫婦にみことばを宣べ伝えたのですが、その時の演壇においてあのウイリアム・ヘンドリックソンも説教をしていたのです。

 

 


#53 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #9

2024年01月17日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

26分39秒から30分37秒まで。


◇◇

「美しいものは何であれ」

パウロはこれらのことを広げ続けていき、これらの記述を膨らませています。

そして、しっかりと定義することによって、心に侵入することを許すものの回りに柵を設けています。

美しい(lovely)ということばは、満足できる、魅力的な、という意味であり、美を反映します。

聖なる優、倫理的優。

そのことばは、生のまま、粗雑な、醜悪なものではなく、甘美、優雅なものを象徴します。

そのことばは、純粋な人の目に美しいということ。

私たちクリスチャンは、聖書に書いてあることに焦点を当てる必要があります。

つまり、神を満足させることや神を引き付けることに、そして平和を促進させることに焦点を当てる必要があります。

反対に、この世は私たちを誘惑し。騙し、醜悪なもの、魅力のないものへと私たちクリスチャンを引き込もうとします。

第6番目、「良い評判のものは何であれ。」

良い評判ということばは、強く評価されるという意味です。

字義的には、公平に言えば、良く言えばという意味。

神によれば、神のことばによれば、上品であるということ。

道徳的に魅力的であること、高く評価される、という意味。

また、評判の良い、尊敬できる、信頼できる、ということ。

エペソ書5章5節にありますが、このことばの反意語に対して、パウロは警告を発しています。

エペソ5:4
また、みだらなことfilthnessや、愚かな話silly talkや、下品な冗談crude jestingを避けなさい(発生させてはならない)。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。 

崇高で聖なる召命を受けている人たちにはこれらのことは相応しくない。

第7番目。

最後に2つのことについて、パウロは言います。

これらは、もし~あるとするなら、もし~あるならば、で始まる要約のようなことば、肝心要のような要点です。

もし優秀なことがあるならば、知性において何か優秀なことがあるならば、道徳において何か優秀なことがあるならば、何か有徳なこと、高い道徳規準を反映する何か、万軍の神の聖と調和する、反映する何かがあるならば、云々。

それらの事々、道徳的に優秀なこと、神を満足されることに心を留めなさいとパウロは言います。

優秀なことに心を留めるなら、優秀な人生を歩むことができます。

 

 


#52 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #8

2024年01月15日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

24分47秒から26分39秒まで。


◇◇

この世の堕落に反して、健全、有徳。

世の堕落によって染められていない。

堕落した人間によって汚されていない。

このことばは、不道徳が混じっていないことを意味する。

このことばは、人間の堕落によって汚染されていないことを意味する。

このことばは、不潔な考えが混じっていないことを意味する。

このことばは、道徳的堕落が混じっていないことを意味する。

このことばは、傷がないことを意味する。

このことばは、ろ過にかけられている、検閲されていることを意味する。

より清い人生を送るために、清い事々に心を留めなければなりません。

より清い人生を送りたいですか。

皆さんにお聞きします。

皆さんは、より清い人生を送りたいですか。

どれくらい清い人生を送りたいですか。

ほんのわずかばかり清い人生ですか。

実際、あなたは清いですか。

清いことは何であれ、それに心を留めることが絶対に必要です。

清い人生を送りたいのであれば、清いことに心を留めなければなりません。

汚れ混じりのことに心を留めるならば、時間とともに汚れ混じりの人生を送ることになります。

次第に汚れ混じりとなってしまいます。

 

 

 


#50 基礎教理 The Key to a Transformed Life with R.C. Sproul, NO.2

2024年01月11日 | 基礎教理

The Key to a Transformed Life: Ultimately with R.C. Sproul

2分37秒から最後まで。


ローマ12:2
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
(新共同訳)

狭き道を歩んでいくための道標。

conform:同化する、同質化する、共存する、
transform:変容する、変化する、超える、超越する

◇◇

接頭語transとはどういう意味か。

大西洋横断(transatlantic)、大陸横断(transcontinental)、transamerican(アメリカ横断)などのことばがあります。

接頭語transは、across横切って、横断して、あるいは、over超えて、上を、という意味。

すなわち、私たちクリスチャンは、より高い構造、より高い形体へと上がっていくように召されているのです。

このラジオ番組のタイトルは、このテキストから付けられています。

あなたのmind(知性、心、思い)を新たにして。

何故なら、パウロが言っていることは、超越した人生のための鍵は、知性(心)を新たにするということ。

心を新たにするとは、「神のことば、神の事々、神の本質的価値を学ぼうとする知性という意。

私たちは神の民です。

その一方で、私たちは人の町に住んでいます。

人の町は、この世の価値、勧告、事業に同化するように、世俗化するように求めます。

私たちの召しは、これとは全く違います。

超越した民であるために、超越した社会で生きるために、超越した民族であるために、超越した町であるために、私たちは聖別され、分け隔てられたのです。

神の町の市民であるために。

 

 

 


#49 基礎教理 The Key to a Transformed Life with R.C. Sproul, NO.1

2024年01月10日 | 基礎教理

The Key to a Transformed Life: Ultimately with R.C. Sproul

最初から2分37秒まで。


ローマ12:2
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
(新共同訳)

狭き道を歩んでいくための道標。

conform:同化する、同質化する、共存する、
transform:変容する、変化する、超越する

◇◇

思春期に入った時、人生において最も強力な駆動力となったのは、「あれ」と一緒でいたいと思う願望だった。

目立ちたくはないが、その一方で、気味が悪いとか、奇怪だとか、あまり親しくないとか、思われたくはないと思う。

この世と同化(conform)せず、超越させて(transform)頂きなさい。

ローマ書12章において鍵となる、これらふたつのことばに注目して頂きたい。

ひとつは、同化する(conform)で、もうひとつは、超越する(transform)。

これらのことばは、同じ語幹formを持っています.

形(form)、すなわち形態(morphology)は、物の構造と関係があります。

どのように物事が組み立てられているのか、それらはどのようであるか。

それらはどのように形作られているか、それらはどのように建てられているのか。

などなど。

しかしながら、これら2つのことばの違いは、語幹に付されている接頭語の違いにあります。

最初の例、接頭語conについて。

conということばの由来を理解するために、古代のことばを習得する必要はありません。

では、接頭語conの意味とは何でしょうか。

with(共に在る)という意味であります。

ローマに住んでいたクリスチャンに、パウロは「この世に同化(と共存)してはならない」と言いました。

子どもだった頃、私たちは同化することは難しいことでした。

思春期に入ると、最も強力な駆動力となったのは、「あれ」と一緒にいたいと思う願望でした。

若い時、私たちに降りかかった最悪の判断は、「それ」の外にいるのではないかと考えることでした。

自分たちがいる文化が何であれ、、私たちは目立ちたくはないが、その一方で、気味が悪いとか、奇怪だとか、あまり親しくないとか思われたくない。

パウロは、「同化するな」と言います。

同化するのではなく、クリスチャンは超越(transform)するために召されている。

 

 

 


#51 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.7

2024年01月05日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

21分58秒から24分47秒まで。


◇◇

これは、神の聖なるご性質、神の聖なる存在との調和を意味します。

「正しいことは何であれ」の「正しいこと」とは、まず「適切な」と関連します。

すなわち、法を守るということ。

聖書と調和するとは、「信頼に価する」「公平である」ということ。

一日24時間、週7日間、聖書のことを考えるだけではなく、聖書から離れて何処か他の所にいても、聖書と調和しなければなりません。

聖書が規定していることに相反してはなりません。

正しいことに焦点を当てる時、正しく生きることができます。

それとは逆に、誤ったことに焦点を当てると、誤った生き方をすることになります。

私たちが考えることと私たちの生き方は不可分な関係にあります。

正しい考えで生きる仕方は、正しい生き様を生みます。

単純です。

誤った考えは誤った生き様を生みます。

間違ったことに焦点を当てることはできないし、正しい生き様を期待することもできません。

私たちの心にある蓄積物は、ひとつの複合体として力を帯び、そして出ていきます。

「清いことは何であれ」

ピリピが愛した教会を、パウロは先に訪れて、教会員のために長いリストの話をしました。

そのリストとは、この演説者に会いに行って良いが、あの劇場に行ってはいけない、このフェスティバルに出かけても良いが、あのフェスに行ってはいけないというもの。

彼らには多くのリストがあり、それらはすべて詳細に説明されていました。

しかし、問題がひとつだけありました。

これらのリストが絶え間のない変動の狭間にあるということでした。

状況は絶えず変化するということ。

故に、パウロは時代を超越した原則を提示したのです。

世紀を超え、文化を超え、大陸を超え、今日の私たちにとっても適応しうる関連リスト
を提供したのです。

清いものは何であれ、とパウロは言います。

「清い(pure)」ということばは、「聖なる」「聖」と訳される原語と同じ語幹を有することばの派生語です。

このことばは、「倫理的聖潔」「道徳的聖潔」に関連します。

聖潔な、聖なることで心を満たしなさい。

 

 

 


#50 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.6

2024年01月04日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

18分34秒から21分58秒まで。


◇◇

次に移ります。

「誉あるものは何であれ」の「誉」は、「尊敬に値すること」に関連します。

誉(honorable)は、「高貴で気高い」「知性や品格が高い」「高潔」を意味します。

つまり、「崇敬できる」、「荘厳な」、「威厳のある」。

「誉あるもの」の反対は、神の目から見て「恥ずべきこと」。

低次元のことから心を離して、高貴で誉あることに焦点を当てよとパウロは言います。

どん底から心をそらせとパウロは言います。

つまらないことやとるに足りないことから心をそらし、高貴なこと、崇高なこと、天のこと、超越的なこと、卓越したことに心を置きなさい。

自身を引き上げなさい。

自身の価値を下げるな。

倫理的に純粋なことを考えなさい。

神のことばによって高い基準を満たしなさい。

整然なこと、根本的なことを考えなさい。

道徳的に良いことを考えなさい。

真っ当な、高貴なことを考えなさい。

誉あることに焦点を当てると、誉ある神へと導かれます。

誉あることに焦点を当てると、誉ある人生、品性のある人生、非のない人生を歩むことができます。

しかし、恥ずべきことに心を留めると、恥ずべき神へと導かれます。

すべては心(知性)との戦いです。

自分の心に許可を与えているものに気をつけなさい。

行きたくもない所へ連れて行かれます。

次に進みます。

「正しいことは何であれ」の「正しい」とは、神の規準に合致することを意味します。

義(righteouness)ということばの語幹と同じです。

これは天秤の概念と同じです。

天秤の一方に重りを乗せて、天秤がバランスを保つまで他方に穀物を乗せていきます。

これがここで示されている、正しいこと、義の概念です。

天秤の一方は、神の純粋なご性質である聖。

他方が私たちの心(mind、知性)です。

私たちの心、知性に入り込んでくるものは、神の聖と釣り合う必要があります。

それ以外のものはすべて正しくない。

 

 

 


#49 救いの達成 The Battle for the Mind with Steven J Lawson, NO.5

2024年01月03日 | 創世記

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

15分09秒から18分34秒まで。


◇◇


これが絶え間なく続く生活スタイルです。

日々のあらゆる場面で、このような生活スタイルが絶え間なく続いていきます。

これらの事々を常に心に留めなければなりません。

これらの事々を習慣的に考えなければなりません。

さて、パウロが以前に述べ、慎重に定義した8節の最後にあるこれらの事々とは、この節の直前に書かれています。

すなわち、それが私たちのための緑の安全信号です。

それ以外は赤の危険信号。

黄色の点滅する注意信号はなく、赤信号のみ。

これらの8項目が要求する事項の外側は、危険な高速道路です。

このリストを確認していきましょう。

パウロが8つの聖なる項目を分類しています。

私たちが見るもの、聞くもの、読むもの、楽しむものを管理するのがこのリストです。

では、早速このリストを見てみましょう。

主イエスキリストの恵みと知恵にあって、成長しているクリスチャンが考えつつ生きていくためのパラメーターを表しているのが、このリストです。

これらが適切に管理されていないと、霊的成長が阻害され、最悪霊的に荒廃します。

「真実であることは何であれ」を、まず最初にあなたの心に留める必要があります。

「真実であることは何であれ」の「真実」とは、「まさに真実である」ことを意味します。

信頼性のある、正真正銘、「本物である(authentic)である」ことを意味します。

偽ものや嘘と区別されます。

神の規準を歪めたものに焦点を当てるなとパウロは言います。

神の規準とは、神が設定している事項の折衷案です。

真実なことに焦点を当てることにより、われわれは真のキリスト信仰へと導かれ、その結果、本物の敬虔へと至ることができます。

一方、虚偽に心を留めると、誤ったキリスト信仰や疑似成長へと導かれます。

虚偽に心を留めると、あなたは嘘の人生を歩むことになるでしょう。

惑わしに心を留めると、あなたは惑わしの人生を歩むことになるでしょう。

 

 

 


#679 神の法第六戒

2024年01月03日 | 神の法

第6戒
9.軍法と生産

p277~
Military Laws and Production
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書の軍法は、人間に対して特異的に関連しているという理由は、それが戦争法のみならず、重要な一般的な原則を含んでいる点にある。

軍法を調べてみると、次のようなことが分かる。

第1に、正義の防衛のために、悪の抑制のために、敵からの母国防衛のために、戦争する時、軍法は賠償か修復のための業務のために必要となる。

それ故、聖書において、軍法は主の戦いとして書かれている(民数記21:14)。

民数記21:14
それで、「主の戦いの書」にこう言われている。・・・

兵士が用意すべきことに、本来の職務に加えて宗教的献身が含まれていた(ヨシュア3:5)。

ヨシュア記3:5
ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」 

第2に、その法は兵士の年齢を明示した。

すべての健康な20歳以上の者は、兵役の適格者だった(民数記1:2,3,18,20、45,26:2,3)。

民数記1:18
第二月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した。 

この基準は長期にわたり流布され、アメリカ独立戦争の軍事作戦の基礎となった。

それは依然として選択的兵役だった(民数記31:3~6)。

例えば、ミディアンとの戦いにおいて、ルベン部族から適格者46500人、ユダ部族から適格者74600人、ベニヤミン部族から35400人(民数記1章)、また各部族からは1000人ほどが軍務についた。

各部族からは千人ずつ徴兵された(民数記31:4)。

徴兵のための適格性は、原則として、極度の危機的情報において軍務に適することが要求された。

 

 


#187 終末預言 Are we living in the end times? by R.C. Sproul, NO.2

2024年01月02日 | 終末預言 

Are we living in the end times described in the book of Revelation? with R.C. Sproul, NO.2


2分54秒から最後まで。

◇◇

千年紀の解釈の仕方には無関係に、師が言っているように、人類史が終焉を迎えつつあるのは間違いがないと思われる。

というか、主イエスが昇天した時点で、人類史終焉の時代が始まったとするのが極めて自然な考え方のように思う。

◇◇

以前に推察したが、今の時は千年紀が終わろうとしている段階、或いはそのような時代に突入したのではないかという印象を強く受けている。

黙示録20:7、8
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、 
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。 

同22:11a
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。

同22:14
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。 

しかし、決して悲観することはない。

同22:11b
正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい

同時進行的に、神の国はますます聖となっていき、栄光化されていく。

黙示録21:1
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

マタイ13:28~30
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」 

私的解釈は避けたいが、厳重に警戒すべきはこの世に対してではなく、キリスト教界に対してではないかという印象。

黙示録22:15
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。 

こうやって見ていくと、神の国だけが篩にかけられ完成されていき、最終的に栄光化される

この世は最後の審判において裁かれ地獄へと落ちていく。

黙示録20:9,10
彼ら(≒この世?)は、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。 
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。 

◇◇

と同時に考慮すべきは、黙示録全体と通して関連している時間枠であります。

これらの事々は、間近に、すぐそこに来ていると黙示録には書かれています。

ですから、本質的な疑問とはこうです。

オリーブ山の説教において、イエスが語った事々は、黙示録に書かれている事々は、一義的に1世紀に起ころうとしていた出来事のことを指し示していたのかということ。

つまり、エルサレムの崩壊とユダヤ人の流浪がまさに起ころうとしていた時期ではないかということ。

それがひとつの考え。

別の見解は、これらすべての事々がはるか遠い将来のことに関連するという考え。

以上のふたつの見解の両者を意味すると考える人たちもいます。

つまり、一義的意味と二次的意味の両方を含むとする考え方。

しかしながら、この見解は、矛盾なく理解するのはあまりにも複雑すぎる考え方ではないかと思います。

いずれにせよ、黙示録をどのように理解しようと、それが何時書かれようと、オリーブ山の垂訓とどのように関連していようとも、私たちは主イエスの来臨を心待ちにしているのは変えようのない事実であります。

主はまだ来ていません。

しかし、主の再臨に大いに期待しています。

しかも、来る日も来る日も、です。

主の来臨は極めて間近にに迫っています。

今日の世の状況を見ていると、その日がもうすぐそこに来ていると考えざるを得ないのであります。

しかし、私には大いなる希望があります。

主が来られるまで、さらに2000年を経るかもしれません。

来臨が何時起きるのか、何日の何時、何曜日とか予言するつもりはありません。

しかしながら、私たちは怠ることがないように注意しているべきだと思います。

そして、キリストの来臨を待ち受けるべき時ではないかと思います。