☞ Are we living in the end times described in the book of Revelation? with R.C. Sproul, NO.2
2分54秒から最後まで。
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千年紀の解釈の仕方には無関係に、師が言っているように、人類史が終焉を迎えつつあるのは間違いがないと思われる。
というか、主イエスが昇天した時点で、人類史終焉の時代が始まったとするのが極めて自然な考え方のように思う。
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以前に推察したが、今の時は千年紀が終わろうとしている段階、或いはそのような時代に突入したのではないかという印象を強く受けている。
黙示録20:7、8
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
同22:11a
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。
同22:14
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
しかし、決して悲観することはない。
同22:11b
正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい
同時進行的に、神の国はますます聖となっていき、栄光化されていく。
黙示録21:1
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
マタイ13:28~30
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
私的解釈は避けたいが、厳重に警戒すべきはこの世に対してではなく、キリスト教界に対してではないかという印象。
黙示録22:15
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
こうやって見ていくと、神の国だけが篩にかけられ、完成されていき、最終的に栄光化される。
この世は最後の審判において裁かれ地獄へと落ちていく。
黙示録20:9,10
彼ら(≒この世?)は、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
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と同時に考慮すべきは、黙示録全体と通して関連している時間枠であります。
これらの事々は、間近に、すぐそこに来ていると黙示録には書かれています。
ですから、本質的な疑問とはこうです。
オリーブ山の説教において、イエスが語った事々は、黙示録に書かれている事々は、一義的に1世紀に起ころうとしていた出来事のことを指し示していたのかということ。
つまり、エルサレムの崩壊とユダヤ人の流浪がまさに起ころうとしていた時期ではないかということ。
それがひとつの考え。
別の見解は、これらすべての事々がはるか遠い将来のことに関連するという考え。
以上のふたつの見解の両者を意味すると考える人たちもいます。
つまり、一義的意味と二次的意味の両方を含むとする考え方。
しかしながら、この見解は、矛盾なく理解するのはあまりにも複雑すぎる考え方ではないかと思います。
いずれにせよ、黙示録をどのように理解しようと、それが何時書かれようと、オリーブ山の垂訓とどのように関連していようとも、私たちは主イエスの来臨を心待ちにしているのは変えようのない事実であります。
主はまだ来ていません。
しかし、主の再臨に大いに期待しています。
しかも、来る日も来る日も、です。
主の来臨は極めて間近にに迫っています。
今日の世の状況を見ていると、その日がもうすぐそこに来ていると考えざるを得ないのであります。
しかし、私には大いなる希望があります。
主が来られるまで、さらに2000年を経るかもしれません。
来臨が何時起きるのか、何日の何時、何曜日とか予言するつもりはありません。
しかしながら、私たちは怠ることがないように注意しているべきだと思います。
そして、キリストの来臨を待ち受けるべき時ではないかと思います。