1年程前から何か空疎な生き方をしているのではないかと思う時がある。燃焼し切れていないような。この世的には十二分に恵まれて不満はない。だから、つい余計な方向へと逸れていってしまうのだろう。何かをやってみたところで物足りなさは埋まらない。そう、全く別の何かが必要なのだ。その「何か」として示されたのは、やはり魂の問題だった。他人事ではない。
今学んでいるNeeの「標準」の中で、再度The Subjective Working Of The Crossを通して読み返してみた。
心で信じて口で告白すれば取り敢えず罪の問題は解決する。しかし、この地点で満足していると間違いなく足元をすくわれる。本当の歩みはここから始まる。より高きを望もうとせず、霊的現状に満足していると、魂が遠心力となって働き、霊的状態は劣化していく。罪の問題ではない。最終的に敵の策略によって悲惨な状態へと堕ちていく。「死んだら終わり、神なんかいない」と豪語するに至る。霊的死だ。かつて経験した事実。
兎にも角にも悔い改めて、主に向かう必要がある。自分から目を逸らして、主のみを見続ける。これが自己を否むということ。
今学んでいるNeeの「標準」の中で、再度The Subjective Working Of The Crossを通して読み返してみた。
心で信じて口で告白すれば取り敢えず罪の問題は解決する。しかし、この地点で満足していると間違いなく足元をすくわれる。本当の歩みはここから始まる。より高きを望もうとせず、霊的現状に満足していると、魂が遠心力となって働き、霊的状態は劣化していく。罪の問題ではない。最終的に敵の策略によって悲惨な状態へと堕ちていく。「死んだら終わり、神なんかいない」と豪語するに至る。霊的死だ。かつて経験した事実。
兎にも角にも悔い改めて、主に向かう必要がある。自分から目を逸らして、主のみを見続ける。これが自己を否むということ。