みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #55

2016年10月13日 | コーヒーブレイク
1年程前から何か空疎な生き方をしているのではないかと思う時がある。燃焼し切れていないような。この世的には十二分に恵まれて不満はない。だから、つい余計な方向へと逸れていってしまうのだろう。何かをやってみたところで物足りなさは埋まらない。そう、全く別の何かが必要なのだ。その「何か」として示されたのは、やはり魂の問題だった。他人事ではない。

今学んでいるNeeの「標準」の中で、再度The Subjective Working Of The Crossを通して読み返してみた。

心で信じて口で告白すれば取り敢えず罪の問題は解決する。しかし、この地点で満足していると間違いなく足元をすくわれる。本当の歩みはここから始まる。より高きを望もうとせず、霊的現状に満足していると、魂が遠心力となって働き、霊的状態は劣化していく。罪の問題ではない。最終的に敵の策略によって悲惨な状態へと堕ちていく。「死んだら終わり、神なんかいない」と豪語するに至る。霊的死だ。かつて経験した事実。

兎にも角にも悔い改めて、主に向かう必要がある。自分から目を逸らして、主のみを見続ける。これが自己を否むということ。




Chapter 14: Waste, #5

2016年10月13日 | 聖書研究・信仰
個人的な例を掲げてみたい。

1929年、私は上海から私の故郷である福州に戻った。

ある日、弱り果て、体を壊して、スティックを付きながら歩いていた。

道すがら、かつての大学教授の一人と会った。

彼は私を喫茶店に連れていき、ともに座った。

教授は頭の先から爪先までじろじろ見て言った。

「さて、学生時代、あなたは立派な成績を取るものと思っていた」

「何か偉大な事を成し遂げてくれるのではないかと期待していた」

「今の自分がこんな状態である理由を話してくれないか」

突き通すような目で見ながら、鋭い質問をしてきたのだ。

告白しなければならない。

これを聞きながら、崩れ落ちて泣きたい気持ちになった。

自分のキャリア、健康、全てを失った。

学校で法律を教えてくれた昔の教授がここにいて、私に聞いてくる。

「未だにこんな状態なのか」

「成功もなく、進歩もなく、見せるべき何ものもないじゃないか」