みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Chapter 14: Waste, #14

2016年10月22日 | 聖書研究・信仰
では、隠されていることとは一体何か。

これしかないと思う。

べタニアでのマリアの行ないに満足し、主イエスは奉仕全体の土台としてひとつのことを定めていた。

すなわち、主のために持っているものはすべてと、加えて自分自身を注ぎだすこと。

主がお許しになるなら、それで十分。

貧乏人が助けられたのかどうかが第1の問題ではない。

第1の問題は、主は満足したかどうかということ。




Chapter 14: Waste, #13

2016年10月21日 | 聖書研究・信仰
しかし、主にとってそれが最初のものではないことを分かって欲しい。

主は我々が用いられることを確かに望んでおられる。

神は禁ずる。

私が無気力さを宣べ伝えたり、世の必要に対する独りよがりな態度を示すことを。

主イエスがこう言う。

「福音は全世界を通して宣べ伝えられるであろう」

しかし、一つだけ強調しておきたい。

実は、主はこの親愛なる姉妹を大いに用いていたのだ。

彼女は、数えきれないほどの我々若い信仰者たちのために語ってくれていた。

当時、主の訓練学校において福音宣教のために大いに用いられていたのだ。

彼女故に、神にいくら感謝しても足りない。




Chapter 14: Waste, #12

2016年10月20日 | 聖書研究・信仰
ぶつぶつと独り言を言うことが多くなってきた。

「どうして出て行かないのか」

「集会を開いたり、どこかに行ったりとか、何かすることはないのか」

何も起きそうもないこんな小さな村にいるのは無駄じゃないのか」

彼女のところに出向いて、声を荒げることがあった。

私は言った。

「あなたほど主を知っている人はいないし」

「実に聖書を良く知っておられる」

「あなたの周囲に何か主の入用はないのでしょうか」

「どうして何もしないのですか」

「時間の無駄、エネルギーの無駄、お金の無駄。すべてが無駄ではないか」

「ただこうやって何もせずにいるなんて」




Chapter 14: Waste, #11

2016年10月19日 | 聖書研究・信仰
このような観点から、主の親愛なるしもべたちに関心を持っている人たちがいる。

そのようなしもべたちはあまり仕事をしてはいないように見える。

もっとできるだろうに、と人は言う。

どこかに入口が用意されて、人前に出ることが許されて、大いに楽しむことができるなら、彼らはより大きなことに用いられるであろう。

長年お知り合いをしていたある姉妹のことを前に証ししたことがある。

彼女は私が最も助けられた人だ。

当時親しくお付き合いをしていた頃、具体的な方法において、彼女は主から用いられていた。

我々の中には、本当にそうなのかと疑う者がいた。

私の心の中にある思いもこうだった。

「彼女は用いられていない」




Chapter 14: Waste, #10

2016年10月18日 | 聖書研究・信仰
もちろん、それはキリスト者なら共通の考え方だろうと思う。

「最小限で、できる限り全てを得よ」

しかし、ここで書かれていることはそういうことではない。

それより深い。

説明しよう。

静かにじっと座っていて、何もしていない時に、人生を無駄にしていると言われたことがないだろうか。

出て行って何でもいいから仕事をしたほうが良いと言う。

あの人たちこの人たちを手伝うために用いられないのはどうしたことか、と言う。

どうして、もっと積極的になれないのだろうか。

そう言っている彼らの頭は「用いること」でいっぱいだ。

すべてはフルに用いられるべきだというのが彼らの考え方だ。





Chapter 14: Waste, #9

2016年10月17日 | 聖書研究・信仰
ユダのことについて多くの時間を費やしたくはない。

他の弟子たちの態度がどうだったのか見ていきたい。

彼らの反応はユダのものよりもはるかに影響力がある。

我々は、世が言っていることをあまり気にしない。

それには耐えられるが、他のキリスト者たちが言っていることにはかなり気を使う。

彼らは理解に努めるべき人々だからだ。

しかしながら、弟子たちの言ったことはユダの言ったことと同じだ。

そう言っただけでなく、怒り、憤慨した。

「弟子たちはそれを見て、憤慨して言った」

「この無駄は何のためだ」

「この香油は高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」(マタイ26:8,9)



Chapter 14: Waste, #8

2016年10月16日 | 聖書研究・信仰
主が価値あるお方なら、どうしてそれが無駄なのか。

主は、仕えるにふさわしい。

主は、囚われるにふさわしい。

主のために生きるにふさわしい。

主は価値がある。

世間がなんと言おうが問題ではない。

主は言う。

「世を煩わせるな」

我々が煩わされないためだ。

人は好きなことを言う。

しかし、我々はこれを土台に据える。

主は言った。

「それはいいことではある」

「しかし、貧しい人たちのために行なうことがすべて真実とは限らない」

「私のために行なうことはすべて真実である」

主の実際の価値に目が開かれると、主にとって良すぎることなど何一つない。




Chapter 14: Waste, #7

2016年10月15日 | 聖書研究・信仰
ユダは無駄だと思った。

「他の方法で、その金をもっとうまく使えるのに」

「多くの貧乏人たちがいる」

「なぜ、それを施してあげないのか」

「彼らの生活向上のために福祉事業をすべきだ」

「具体的に彼らのために手伝うべきだ」

「どうして、それをイエスの足元に注ぎだしたのか」(ヨハネ12:4-6)

このように、この世は理屈を捏ねる。

「こんなことよりも良い方策はないのか」

主に自分を差し出すことから離れてしまっている。







Chapter 14: Waste, #6

2016年10月14日 | 聖書研究・信仰
しかし、まさに次の瞬間!

「栄光の霊」が私の上に留まっているということがどういうことなのか、はっきりと分かった。

私の全人生において、これが初めてのことだったと告白する。

主のために自分を注ぎだすことができるという思いが、栄光とともに私の魂へと迫ってきた。

その時、栄光の御霊のみが私の上にあった。

「主よ、賛美します」

「これ以上に良いことがあるだろうか」

「これがまさに私の選んだ道だ!」

あの教授にとって、主に仕えることは無駄以外の何ものでもない。

しかし、それが福音の目的だ。

主の本当の価値を届けるということ。








Coffee Break, #55

2016年10月13日 | コーヒーブレイク
1年程前から何か空疎な生き方をしているのではないかと思う時がある。燃焼し切れていないような。この世的には十二分に恵まれて不満はない。だから、つい余計な方向へと逸れていってしまうのだろう。何かをやってみたところで物足りなさは埋まらない。そう、全く別の何かが必要なのだ。その「何か」として示されたのは、やはり魂の問題だった。他人事ではない。

今学んでいるNeeの「標準」の中で、再度The Subjective Working Of The Crossを通して読み返してみた。

心で信じて口で告白すれば取り敢えず罪の問題は解決する。しかし、この地点で満足していると間違いなく足元をすくわれる。本当の歩みはここから始まる。より高きを望もうとせず、霊的現状に満足していると、魂が遠心力となって働き、霊的状態は劣化していく。罪の問題ではない。最終的に敵の策略によって悲惨な状態へと堕ちていく。「死んだら終わり、神なんかいない」と豪語するに至る。霊的死だ。かつて経験した事実。

兎にも角にも悔い改めて、主に向かう必要がある。自分から目を逸らして、主のみを見続ける。これが自己を否むということ。